第4章ー7
それにこの時、グラツィアーニ将軍にしてみれば、相手が悪かったという見方が成り立つのも事実だった。
この時にこの方面の独軍の最高司令官として、伊軍に対峙したのはケッセルリンク将軍である。
第二次世界大戦において、ある米国の軍事評論家から、
「ある意味では日本の林忠崇元帥と同様に専門外でその軍才を最高に発揮した将軍。林元帥が海軍の提督でありながら、陸戦で常勝不敗の名声を誇ったように、ケッセルリンク将軍は空軍の将軍でありながら、陸戦で不敗の名声を後世に遺した」
と評価された程の名将だった。
(最もこの評価は、比較対象が違うというのも事実である。
林元帥が、その生涯において海軍の軍人として戦ったことはない程、海兵隊、陸戦の軍人に特化していたのに対し、ケッセルリンク将軍は元々は陸軍の軍人でありながら、空軍に転身した身だからである。)
ケッセルリンク将軍は、伊軍の攻勢を巧みにいなして圧倒的劣勢にある独軍による遅滞戦闘を成功させた。
グラツィアーニ将軍が得意とする航空支援を活用しての攻撃でさえ、ダミー陣地を駆使し、更には大規模な空襲の危険が迫れば後方の予備陣地へ軍の主力を撤退させるという方策まで講じて、独軍の損害を迎えることにケッセルリンク将軍は努めた。
このために山岳地帯ということも相まって、伊軍の攻撃は上手く進まず、単純な師団数の比較等から判断する軍事評論家(というより作家)により、伊軍の軍事的無能説が喧伝されるという事態が第二次世界大戦後も長きにわたり生じるという事態が起きた。
だが、独伊両軍の内部事情を勘案すれば、このアルプスを中心とする独伊の戦闘においては、お互いにそれなりに努力しあっていたが、敢えて言えば独軍の方がやや優秀だった、というアイゼンハワー将軍の第二次世界大戦終結から数年後に発表された評価が一番妥当なように思える。
このように伊が参戦したとはいえ、独軍の巧みな防衛戦闘の前には伊が参戦したといっても、戦況がそう変わらなかったというのが現実と言ったところだった。
こういった戦況を鑑みつつ、アイゼンハワー将軍を(欧州戦線における)連合国軍の最高司令官に据えた連合軍は、中欧へベルリン等への侵攻作戦を本格的に立案することになった。
さて、ベルリン攻略に対する各国の考えだが。
「ベルリン攻略は我が国が担うべきだ」
当時の英仏波の三国の軍幹部はお互いにそう考えていた。
ベルリンは言うまでもなく独の首都である。
そこを攻め落とした国が、独に対する戦勝において最大の栄誉を手にするのは半ば自明の理だった。
英仏にしてみれば、事が欧州の問題である以上、自分の国が最大の栄誉を手にしたかった。
波にしてみれば、第二次世界大戦のそもそもの発端が独ソの自国に対する侵攻作戦である。
更に首都ワルシャワが独軍の手によって破壊されて廃墟と化してしまったという事実がある。
こうしたことからも、ベルリン攻略は自国の手で行いたかった。
英仏波以外の諸国、日米等もこの三国の主張を受けて、どの国がベルリン攻略を主導するかで大揉めの議論を交わすことになった。
「いっそのこと、ベルリン攻略は米国に任せませんか」
各国の激論に疲れ果てた日本の遣欧総軍司令部内部では、そのような声が上がり出した。
「しかし、各国対立の果てに、また米国に押し付けるというのも」
北白川宮成久王大将は、その声に消極的な態度を取った。
「少し考えをずらしませんか」
土方歳一大佐は疲れもあって黒い考えに染まっていた。
「英仏はお互いにベルリン攻略の栄誉を相手に与えることを嫌がっています。ベルリン以外の大都市、プラハやウィーンを、英仏両軍には解放させてはいかがでしょうか」
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