第3章ー26
もう一つ、ソ連極東領におけるソ連の黄昏を告げたのが、ハバロフスクの陥落だった。
沿海州の主要都市を包囲、看視下に置いた後、日本軍の主力はハバロフスクを目指した。
1941年5月の日米満韓連合軍のソ連極東領侵攻作戦当時、ハバロフスク近辺には6個師団余りの部隊が展開しており、ハバロフスクを拠点とする機動防御の態勢を表面上はソ連軍は執っていた。
だが、一皮むけば張子の虎に近い有様になっていた。
何しろハバロフスクでは補給物資が欠乏し、ハバロフスクの市民は食べられる物は何でも食べる有様で冬を何とか越すことができたという有様だったのである。
ハバロフスク近郊に展開しているソ連軍の兵士は、それよりは多少はまともな食料が提供されてはいたものの、それでも多くが空きっ腹を抱えて戦わざるを得ず、中には栄養失調から戦闘不能と判断される兵士まで当時はいたというのが現実だった。
(この頃にハバロフスクの市民の間で流行ったブラックジョークとして。
「最近、犬や猫を見ないね」
「皆で全部食べたからね」
「それにしてはネズミが増えていないね」
「皆でネズミも食べつくしたじゃないか。生きている人間以外の動物は全て食べつくしたよ」
「そう言えばそうだったね」
というのがある。
実際、日本軍がハバロフスク市を占領した際に、日本軍の将兵は人間以外の生きている動物を一切、ハバロフスク市街では見つけられなかったという怪談じみた話が半伝説として日本本国にまで伝わっている。)
こうした状況では湿地帯の存在もあり、ハバロフスク市方面から満州方面への牽制攻撃の発動は無理もいいところとしか言いようがなかった。
そういったこともあり、ハバロフスクに集結していたソ連軍は、沿海州に攻め込んだ後、半ば返す刀でハバロフスクに迫ってくる日本軍に対しては、ハバロフスクの南を流れるウスリー川の支流ホール川を基本的な防衛線と定め、半ば退嬰的な専守防衛作戦を展開せざるを得なかった。
1941年の6月半ばに、ソ連軍が展開するホール川防衛線に襲い掛かった日本軍は機甲師団2個を中核とする6個師団だった。
日本軍の現地総司令官である小畑敏四郎大将が事前に想定していたよりも、早期に沿海州の主要都市を包囲、看視下に置くことが出来たことから、余剰となった兵力を転用してハバロフスク攻略作戦を早期に発動しようという判断を日本軍は下したのである。
(その背景として、日本軍としては、アムール州を迅速に制圧しつつある米軍が、ハバロフスクまで制圧して戦功を独り占めするのではないか、と懸念したことが挙げられる。
幾ら同盟軍とは言え、いや、だからこそ、日本軍としては米軍が戦功を独り占めするのではという懸念を看過することはできなかったのだ。)
ホール川防衛線を巡る戦闘において、日本軍は初めてソ連軍歩兵の携帯式対戦車兵器RPGの洗礼を集中して受けることになった。
それ以前から(と言っても1941年5月の日米満韓連合軍のソ連軍極東領侵攻作戦発動後だが)、RPGは戦場に姿を現していたという説もあるが、集中投入されたのはこのホール川防衛線を巡る戦闘だったというのは一致している。
日本軍の携帯式対戦車用噴進弾の威力を目にして、独ソが事実上共同開発したと言っても過言ではない兵器がRPGである(独軍ではパンツァーファウストとして採用されている)。
このRPGは、まだまだ実戦ではほぼ初使用だったこともあり、ホール川防衛線を巡る戦闘では大戦果を挙げたとは言い難い。
だが、この当時のソ連極東領においては最強を争う百式重戦車の後期型でも、RPGの当たり所が良ければ破壊できるというのはソ連軍にとって心強い話だった。
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