第3章ー2
ともかく、日本空軍のソ連領内の輸送網に対する戦略爆撃は容赦のないものだった。
1940年から1941年にかけての冬季のソ連極東領への物資提供は、ソ連欧州部からのものに基本的に限られる有様だったのだが、日本空軍の戦略爆撃により、1941年1月以降はイルクーツク以東のシベリア鉄道はほぼ運行不能という惨状を呈す有様だった。
「ハバロフスクの操車場は日本空軍の空襲後は完全に廃墟と化していた。操車場の線路網は爆撃前にどうだったのか、考えるのも無意味な有様になっていた。ハバロフスク市の共産党幹部が全力を尽くして操車場を復旧しろ、と私達に命じたが、その物資はどこにも見当たらなかったので、操車場の責任者が意を決して復旧用の物資はどこにあるのですか、と尋ねた。目の前にある物(要するに空襲によって残骸と化した物)で復旧しろ、できなかったら国家反逆罪で責任者を銃殺する、と共産党幹部は命じて目の前を去って行った。その結果は言うまでもないだろう。操車場の責任者は3日後に国家反逆罪で銃殺され、その家族は反逆者の家族であるとして思想改造のための強制収容所送りになった。だが、その家族は幸運だった。強制収容所に徒歩で送られる直前に米軍の空襲により全員焼死したからだ。強制収容所で飢餓や疫病による苦しんだ末の緩慢な死を迎えるくらいなら、速やかに焼かれる方が幸運だと自分は想う。実際、自分達は飢餓に苦しみ、食べられる物は片端から食べた。とてもここでは話せない物まで食べた。食べられなかった者は餓死していった。食べられた者だけが生き延びられたのだ。あれは本当にこの世の地獄だった」
第二次世界大戦を生き延びたあるハバロフスク市民の回想
(21世紀に書かれたハバロフスク市史の一部から抜粋)
1941年1月以降の日本空軍の空襲の猛威は、イルクーツク以東のソ連極東領内の物資の輸送を基本的に馬車や馬橇に頼らないといけないまでに退化させてしまった。
自動車を使えばいい、と言われるだろうが、その自動車の燃料確保がそもそも困難であり(それに当時のソ連極東領に民間の物資輸送を賄えるだけの自動車も無かった)、馬が主力になったのである。
こうした状況でも、食糧輸送よりも戦車の量産が遥かに重要であるとして、市民が何千人も餓死していく中、当時のソ連極東領では唯一の稼働可能な戦車工場を持つブラゴベシチェンスクには、戦車を量産するための物資(当然、食糧ではない)がイルクーツク以西から運び込まれ、ソ連軍の当時の最新鋭戦車T-34の量産が試みられ、実際に量産されたらしいが。
このことをブラゴベシチェンスク占領後で知った当時の日本陸空軍の将官、小畑敏四郎将軍や山本五十六将軍らは、ソ連政府の体質(及びそれでもソ連政府に殉じたソ連市民)に戦慄せざるを得なかったという。
こういった状況下、ソ連極東領におけるソ連の国民の苦難は凄まじいとしか言いようが無かった。
暖を取るための石炭は軍や共産党幹部のみにしか手に入らない状況であり、一般の国民はよくて薪で、下手をするとお互いに身を寄せ合うことで暖を取るしかなかった。
氷点下何十度に達する極寒の中での餓死か凍死かの究極の選択を、当時のソ連極東領の住民は迫られた。
だが、それでも祖国ソ連と民主主義のために、とソ連極東領の住民の多くが結束し続けた。
そういったことから、1941年5月、アムール川等の解氷を待っての日米満韓4か国連合軍による地上からの侵攻作戦が、ソ連極東領に対して行われることになったのである。
4か国政府、中でも日米両国政府にとっては重い決断だったが(何しろ市民の犠牲が目に見えている)やるしかなかった。
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