第3章ー1 ソ連極東領への侵攻作戦発動等
第3章の始まりになります。
1940年から1941年にかけての冬は、沿海州、アムール州において歴史上もっとも過酷な冬だったと21世紀になっても言われている。
その過酷さがどれ程のものだったか。
21世紀になっても沿海州、アムール州の住民の間においては、単に「あの年の冬」といえば、それだけで1940年から1941年にかけての冬のことだと大抵は通じるといえば想像がつくと思う。
それは寒さが厳しかったとか、天災による過酷さから来るものではなかった。
第二次世界大戦という人災によってもたらされた過酷さだった。
当時はソ連領であった沿海州、アムール州に対しては、日米による容赦のない戦略爆撃が冬季にもかかわらず行われている有様だった。
極寒の満州の冬ではあるが、極寒だからと言って航空作戦が不可能な訳ではない。
(史実の独ソ戦においても冬季中の大規模な航空作戦はデミヤンスク等で展開されている。)
そして、地上侵攻作戦が冬季の寒さから困難なことを考え合わせるならば。
日米が冬季の大規模戦略爆撃を展開することにより、ソ連極東軍の抗戦能力を低下させ、春以降のソ連本土(極東領)への侵攻作戦を有利に展開しようと試みるのは当然の話だった。
ウラジオストクやハバロフスク、ブラゴベシチェンスクといったソ連の都市に対しては、米陸軍航空隊の容赦のない空爆が冬季の間に繰り返された結果、1941年4月末までにそういった都市においては無傷な建物はほぼ無くなっており、住民の多くが防空壕での事実上は半地下生活を強いられているという惨状が呈される有様となった。
勿論、単純に直接の空襲被害によって、ソ連領の都市がそうなった訳ではない。
壊されても直せば済む話だというのは、一面の真理であるからだ。
(実際、史実において日本軍の攻撃が米国に全く損害を与えらなかったわけではない。
問題は日本軍の攻撃が米国に損害を与える以上に、米国が戦力を充実させてしまうことだった。)
だが、ソ連は間接的な空襲被害も受けていた。
日本空軍は、山本五十六空軍本部長の方針もあり、直接的な都市攻撃を忌避した。
だからといって、戦略爆撃を日本空軍が行わなかった訳ではない。
米国のB-17爆撃機を日本がライセンス生産して、日本空軍が制式化した99式重爆撃機により、シベリア鉄道を中心とするソ連の輸送網に対する戦略爆撃を日本空軍は好んで行った。
これによって、どんな事態が引き起こされたか。
ソ連極東領はそもそもの人口の割に食料生産量が低く、第二次世界大戦勃発前は満州や朝鮮からの食料輸入に依存している有様だった。
(ウクライナ等のソ連領内の穀倉地帯からソ連極東領の食料を輸送してもらえばいいのでは、という指摘があるだろうが。
満州や朝鮮半島から食料を購入した方が安く配給ができ、更にウクライナ等の穀物を輸出した方が輸送に伴う価格差の問題等から、ソ連政府の手に入る外貨が多いとあっては。
ソ連政府がソ連極東領に配給する食料について満州や朝鮮からの輸入を奨励するのは当然の話だった。)
だが、第二次世界大戦勃発により、ソ連極東領への満州や朝鮮からの食料輸入は無くなってしまう。
予めそれなりに食料がソ連極東領に備蓄されていたとはいえ限度がある。
そのために1939年秋にソ連軍が満州への侵攻を図った際に、片端から食料のソ連極東領への輸送をソ連軍が行ったのはある意味で当然の話だった。
(その代償として、1939年から1940年の冬季の間は、ソ連占領下の満州の住民の間では餓死者が続出するという悲劇が起きている。)
日米の航空隊が、ソ連極東領への戦略爆撃を行ったのはこのソ連軍の行動に対する(満洲の住民への宣伝も含めた)報復だった。
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