第2章ー28
日米ポーランド連合軍が苦戦し、仏軍が大勝利を収めた1941年2月の攻勢において、英軍はどのような戦果を挙げたのかというと、その両者の中間のような戦果を挙げていた。
「我が国は巡航戦車と歩兵戦車の二本立てで戦車を整備しているが、日本等は中戦車だけで基本的に戦車を整備している。日本等が正しいのではないだろうか」
「我が国の現状からして仕方ない。英は巡航戦車と歩兵戦車の二本立てで戦車を開発するしかないのだ」
そんな会話を英陸軍の戦車乗りの多くが、この2月攻勢の前に交わしたという。
英と日本は共に島国であり、そう言った事情から陸戦兵器の開発に関して似たような開発を行ってもおかしくはなかった。
だが、戦車等の陸戦兵器に関しては明らかな差異が周辺事情から日本と英との間には生じていた。
例えば、第一次世界大戦後の英は、それこそ独でナチスが勃興するまで、まともに大陸で戦車戦を展開することを考えた戦車の整備、更にはインフラ整備をしてこなかった。
一方、日本は違っていた。
ロシア革命によりソ連が成立したこともあり、日本は日ソ戦争に備えた軍備を検討せざるを得なかった。
日露戦争により獲得した満蒙特殊権益は、米韓の協力もあって日本からすれば軍事力をもって確保するだけの価値があるものであり、ソ連がそれを奪おうとしていることは物事が見える人には見えることだった。
更に中国本土では第一次世界大戦以前から排日の嵐が吹き荒れていた。
こうしたことから、優れた陸戦兵器の開発、更にそれを動かせるだけのインフラ整備に日本は狂奔せざるを得なかった。
国鉄の改軌を始めとする日本のインフラ開発はこうした事情からも行われたものだった。
(最もこうしたことができたのは、海軍の一部を始めとする日本国内の反米主義者が、南満州鉄道の日米共同経営や第一次世界大戦における英仏支援に伴う日米共闘により勢力が小さかったのも大きい。
そのために戦艦を始めとする海軍力整備の資金を、インフラ整備に日本は回せたのである)
その結果、第二次世界大戦の前半において、日本が零式重戦車を保有できたのに対し、英はマチルダ歩兵戦車とクルセーダー巡航戦車の二本立ての保有で満足するしかなかった。
インフラの問題から、英は機動力を諦めて防御力を重視した歩兵戦車か、防御力を諦めて機動力を重視した巡航戦車か、の二本立て整備を強いられたからである。
それでも、1941年2月という時点で考えれば、英の戦車群は一流の存在と言えた。
英の2月攻勢の音頭を取ることになったのは、ウェーベル将軍だった。
そして、その実行を行ったのはオコナー将軍だった。
オコナー将軍は、英の歩兵戦車と巡航戦車という二本立ての戦車の長所と短所を熟知していた。
そのためにオコナー将軍が執った方策だが。
ある意味では、第一次世界大戦末期の西部戦線の焼き直しになった。
「歩兵戦車と徒歩歩兵部隊を主戦力として独軍の戦線をまずは突破する。戦線突破後は、巡航戦車と自動車化歩兵部隊を主力としてその戦果を拡張していくのだ」
オコナー将軍は上記のような第一次世界大戦末期当時と同様の基本方針で2月攻勢を展開した。
幸いなことに英軍の6ポンド戦車砲のみならず2ポンド戦車砲までも、米国の協力により当初は量産されていなかった榴弾が量産されて撃てるようになっている。
北方軍集団には50ミリ対戦車砲やパンツァーファウストといった新型装備がなされていたが、それでも英軍のある意味、古臭くとも基本に忠実な攻勢には手を焼いた。
堂々たる正攻法での攻勢に対処するとなると、どうしても物量戦になる。
物資が欠乏している独軍にとり、英軍のこの戦法はつらいものだった。
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