第2章ー19
だが、日本海兵隊の苦戦は、皮肉なことに石原莞爾参謀長の大言壮語とは逆の形で救われつつあった。
「英軍を中心とする連合軍はルール工業地帯を半包囲下に置きつつあり、救援部隊を差し向けねば我々はルール工業地帯を2月中に失うでしょう。北方軍集団だけでは、連合軍の攻勢に対処することは困難です」
「ブレンハイムにおいて、クライスト将軍率いる第1装甲軍は仏軍に大敗を喫し、バイエルン地方は仏軍によって席巻されつつあります。南方軍集団の完全崩壊は時間の問題です」
ベルリンの独軍参謀本部には、2月後半になって上記のような悲報が相次いで飛び込む惨状となっていた。
このような状況下で、日本海兵隊を包囲殲滅するために中央軍集団を動かさないでいるのは。
ヒトラー総統は、このような戦況に鑑みて、2月18日に次のような命令を下した。
「ホト将軍率いる第3装甲軍は北方軍集団救援に総力を挙げて向かうべし。グデーリアン将軍率いる第2装甲軍は南方軍集団救援に総力を挙げて向かうべし」
「馬鹿な。後2週間もあれば、日本海兵隊を包囲殲滅できる。その後で、北方軍集団と南方軍集団の救援に向かえばよいのだ。それなのに、現状で第2装甲軍と第3装甲軍を失っては、日本海兵隊は脱出に成功することになり、中央軍集団は再度の連合軍の攻勢の前に崩壊するだろう。千載一遇の勝利を収める絶好機なのに、それをむざむざ我々は失うことになってしまう」
中央軍集団を率いていたブラウヒッチュ元帥は、ヒトラー総統からの命令を受けた直後に、軍帽を地面に叩きつけるほどに悲憤慷慨したという。
実際問題として、この時のヒトラー総統命令は後世においては議論の的になった。
果たして、この時のヒトラー総統命令は妥当だったのか。
この時の多くの独軍の軍人を始めとして、ヒトラー総統命令は間違っていたという主張はかなり強い。
ヒトラー総統命令が無ければ、この時に包囲下に置かれていた日本海兵隊は壊滅していたというのだ。
だが、第2装甲軍が救援に向かうことにより、南方軍集団の完全崩壊が避けられ、また、第3装甲軍が駆けつけたことで、ルール工業地帯の失陥に時間が掛かったのも事実なのだ。
この辺りは、永遠に結論が出ない論争の一つだろう。
しかし、このヒトラー総統命令は、日本海兵隊にとって干天の慈雨、暴風雨の中に萌した晴れ間だった。
「臨時戦車団を先鋒にして、雷鳴を発動する。全ての日本海兵隊の兵員は南西へと脱出せよ」
北白川宮総司令官が、2月21日に命令を下した。
それ以前の2月19日から、レヴィンスキー将軍とアイゼンハワー将軍が協同して米ポーランド連合軍による日本海兵隊救援作戦「冬の嵐」を発動しており、第2装甲軍と第3装甲軍を失っていた中央軍集団の残存部隊では、「冬の嵐」に加えて「雷鳴」まで行われては、日本海兵隊の脱出を阻止することは不可能な事態に陥っていた。
土方勇中尉は、愛車である零式重戦車を懸命に駆使した。
独軍の防衛線を突破し、パットン将軍率いる米第3軍の先鋒部隊と握手して、日本海兵隊の脱出路を形成した後、何とか脱出を阻止しようとする独軍の最後の努力を粉砕するために、懸命に上官に意見具申を行って脱出路の真ん中に立ち塞がり、最後には殿まで務めるという奮闘を示した。
勿論、土方中尉が単独でなせることではなく、土方中尉の態度に共鳴した多くの将兵の協力が得られたからこそできたことだった。
だが、それによって、日本海兵隊の完全脱出に多大な功績を土方中尉が挙げたのも事実だった。
「よくやった」
父の土方歳一大佐からも義弟の岸総司大尉にも土方中尉は称賛の言葉を受け、土方中尉は自分のしたことに誇りを感じた。
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