第2章ー13
同じ頃、岸総司大尉のいる第3海兵師団司令部も、独軍の急襲を受けてやや混乱した状況に陥っていた。
「南西方面から大量の戦車部隊だと。我々が通り過ぎるのを待っていたのか」
第3海兵師団の作戦参謀が、最前線からの報告を受けて思わず叫び声をあげている。
こちらはグデーリアン将軍率いる第3装甲軍の猛攻を浴びる羽目になっていた。
第3海兵師団は、「新選組」の異名を持つ部隊である。
西南戦争で土方歳三提督が直卒して奮戦したこと等から、その異名が付けられた。
その後も、義和団事件における斎藤一提督指揮下における奮闘等、海兵隊内でも一、二を争う戦歴を誇る部隊として内外に知られている。
特に独軍にしてみれば、第一次世界大戦時に独皇太子からの通称「逆感状」を直接に賜った部隊として第3海兵師団は著名だった。
(「逆感状」とは何か。
第一次世界大戦時のヴェルダン要塞攻防戦において、ヴォー堡塁死守の任務を与えられた第3海兵師団は約1月にわたり、独軍の猛攻撃を凌ぎ切った。
その奮戦ぶりを実見して半ば称える余りにヴィルヘルム独皇太子は
「独近衛師団よりも日本海兵師団を私は自らの援軍として欲しい。彼らは独近衛師団よりも遥かに優秀だ」
と発言したという。
その発言が敵味方双方に伝わった結果、この発言が「逆感状」と呼ばれるようになった。)
そうしたことからグデーリアン将軍は、自らが査閲して指揮下では最精鋭にあると判断した2個装甲師団、2個自動車化歩兵師団を自ら指揮して第3海兵師団にぶつけていた。
幾ら精強を自他ともに認める第3海兵師団とはいえ、相手が相手である。
南雲忠一提督以下の第3海兵師団司令部は、悪戦苦闘を強いられる羽目になった。
「軍神上杉謙信公といえど、これ程の猛攻を受けては苦しまれるだろうな」
南雲提督が呟くのが、岸大尉の耳に入った。
そう言えば、と岸大尉は想った。
南雲提督は米沢の出身だった。
米沢は上杉謙信公の末裔、上杉家が江戸時代に統治した所である。
上杉謙信公を事実上の藩祖として頂くこともあり、米沢藩は武門の誉れを代々の誇りとしてきた。
そういった事情も相まって、戊辰戦争時には会津藩、仙台藩、庄内藩と共に米沢藩は奥羽越列藩同盟の主力藩の一つだった。
その遺風は戊辰戦争後も受け継がれ、海兵隊、海軍を志願する者が米沢では後を絶たない有様だった。
米沢出身の海兵隊、海軍軍人と言えば、黒井悌二郎提督、山下源太郎提督等、枚挙に暇がない。
南雲提督も、そういった先輩の背中を追って海兵隊に入ったと岸大尉は聞いている。
そうしたことを思い起こしたからこそ、南雲提督はそう呟かれたのだろう。
「謙信公には及ばない非才の身だが、故郷に眠る祖先の面々に恥じない戦いをせねばな」
南雲提督は呟くと、次々と命令を下した。
「海軍航空隊に対して航空支援の要請を出せ、それから米陸軍航空隊等、外国軍で航空支援可能な部隊全てに支援要請を出せ」
「外国軍に対する支援要請は、欧州総軍司令部を通すべきでは」
「緊急事態だ。同時に行えばいい」
参謀の一人が南雲提督を諫めたが、南雲提督は言下にその言葉を却下した。
「分かりました」
その気迫に圧されて諫言をした参謀が自らの言葉を撤回した。
「それから無理に前線で守ろうとするな。適宜に後退しての戦闘を行うように、前線部隊には命じろ。南西方面からの攻勢を仕掛けてくるということは、独軍は我々の包囲殲滅を策している。我々が前線での固守を図ろうとしては、敵の目論見にはまることになるぞ」
南雲提督は矢継ぎ早に命令を下した。
岸大尉はその言葉に肯いて、前線部隊に対して南雲提督の命令を下達していきながら想った。
米沢、上杉家の遺風は未だに健在だな。
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