第4章ー34
そんな出来事があり、川本泰三中尉は心に大きな傷を負ったが、ベルリン攻防戦は徐々に独側が不利になる一方だった。
何しろ日米側には補充、補給があるのに、独側には補充、補給が絶無といってよい有様なのだ。
独軍や国民突撃隊は勇戦するものの、補充や補給の有無の差は、徐々にでる一方だった。
こうした戦況に鑑み、少しでもよい講和条件を、せめて無条件降伏の回避を、と独政府の最高幹部からも、連合国側に対して働きかけがあるようになった。
その中には、ゲーリングやヒムラーといった超大物までいた。
二人共に結果的とはいえ、ヒトラーに付き添い、ベルリンに籠城する羽目になっていたが、自らの腹心の部下を介して、連合国側との秘密交渉に血道を挙げたのである。
しかし、そのことはヒトラーの逆鱗に触れた。
(もっとも、その一方で、この時にヒトラーが激怒したのは、この当時、最側近となっていたボルマン官房長が二人を讒言したからだという説もかなり有力である。
ヘス副総統が1941年5月に行方不明になった後、ボルマンが官房長になっているのだが、ボルマンは二人の事を敵視していた、という証言が幾つかあるからである。
なお、ヘス副総統自身が最後に公式に複数の人間に目撃されているのは、Bf110戦闘機に乗りこむところであり、その後、ヘス副総統が搭乗した筈のBf110戦闘機は西に向かって飛び去ったという。
そのために、ヘス副総統は、ロンドンか、パリへ飛んで、連合国との講和を図っていたのではないか、というのが最有力説ではあるが、ともかくヘス副総統が搭乗していた筈のBf110戦闘機は、その後は完全に行方不明になっていることから、何があったのかは歴史の闇に包まれている。)
そのために、ゲーリングもヒムラーもその全ての役職から、ヒトラーによって解任されてしまう。
こうした状況にあっても、なお、一部の軍人は軍人としての忠誠心から、ヒトラー率いる独政府に忠誠を尽くしたが、そんなもので戦況が好転するわけもなかった。
また、戦況の悪化から、武器を捨てて連合国軍に投降の道を選ぶ自発的に選ぶ軍人も珍しくなかった。
その中にはカナリス提督等の大物もいた。
1941年8月25日、遂にヒトラーが立てこもる総統地下壕のすぐ傍にまで、独軍と国民突撃隊の懸命の抵抗を排除して、米軍は迫るようになっていた。
(なお、ベルリン攻防戦に参加していた日本海兵隊2個師団(第5、第6海兵師団)は、これまでの戦闘でかなりの死傷者を出したことから、この当時にはベルリン近郊に下がっていた。
また、米軍にしても、損耗した師団を後方に下げて、新たな師団を前線に投入することで、ベルリン攻防戦を戦い抜く有様になっていた。)
こうした状況に鑑み、ヒトラーはベルリン陥落後のことを考えるようになった。
ハンガリーやソ連に脱出した独軍の兵士は、なお100万人以上はいる。
ベルリンが陥落しても、ソ連軍と共闘すれば、独再興の路はある、と考えたのである。
とは言え、海軍はほぼ消滅しており、空軍もゲーリングが裏切る有様、陸軍に至ってはベルリンに攻め込まれている有様で、ヒトラーから後継者に値する軍人は絶無に見えた。
こうした状況から、この当時、ベーメン・メーレン保護領副総督の身であったが、英軍を主力とする連合国軍の攻撃の前にハンガリーに脱出を果たしていたハイドリヒを、自身の後継者にヒトラーは指名した。
そして、8月27日にヒトラーは自決を遂げて、これをきっかけにベルリンを防衛していた独軍は徐々に完全崩壊の路を辿り、8月31日にベルリンで最後の独軍部隊が銃を置いた。
ここに独本土は、ようやく連合国軍の手に落ちたのである。
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