第4章ー27
こうしてベルリンに日米波連合軍は手を掛けたが、これはまだ石原莞爾中将らにしてみれば第一段階の攻勢に成功しただけだった。
第二段階の攻勢は、ベルリンをある意味では餌として、ベルリン以東にいる独軍がベルリン救援に駆けつけようとするのを各個撃破すると共に、主に日本海兵隊の主力とポーランド軍をワルシャワへと急進させようとする攻勢だった。
(なお、米軍と日本海兵隊の一部は基本的にベルリン攻囲に主に当たることになっていた。)
この攻勢は、本来からすれば無理があると言われても仕方のないものだった。
ベルリンを攻囲するだけで占領せずに東進を図るということは、ベルリンを経由する鉄道を補給路として活用できないという事態が生じ、ワルシャワへ前進するポーランド軍と日本海兵隊の補給に多大な不安を生じさせることになるからである。
だが、日米(それに英)は、シーパワーの申し子だった。
それ故に別の補給路を使うことにした。
「海は大事な補給路ですからな。海上輸送路を活用しましょう」
そう言って、石原中将はバルト海を補給路として活用することにした。
本来から言えば、上陸作戦を併用したかったが、さすがにそんな余裕はない。
日本海兵隊、その戦車部隊を臨時に集結させた戦車団を鋭い槍の穂先として、日米波連合軍はバルト海沿岸を突進して、バルト海沿岸の港湾の制圧を図った。
彼らの最終目標は、グディニヤ(ゴーテンハーフェン)とダンツィヒという港湾都市だった。
そこを補給港として確保し、そこから物資を揚陸して、ワルシャワ攻略を目指そうというのだ。
もっとも石原中将にしてみれば、(内心では)当たり前すぎる発想、作戦だった。
世界戦史で、海上機動、物資輸送を活用して敵の後方を衝く作戦は幾つも実施されている。
それこそ第二次ポエニ戦争でローマ軍がヒスパニアを攻撃した例等、枚挙に暇がない。
日本海兵隊自身も、建軍当初と言える西南戦争において、鹿児島等への上陸作戦を展開している。
石原中将にしてみれば、当たり前の作戦を実施したに過ぎなかった。
(もっとも、何十個師団にも達する部隊を海上補給で賄えるのは、米英日等が保有する大規模な商船団を物資輸送用に連合国軍が使えるから、というのも否定できない話だった。
他の国だったら、それだけの商船団を物資輸送に集めることさえ一騒動どころでは済まない。)
ともかく土方勇中尉は、日本海兵隊が臨時に編制した戦車団の一員として、グディニヤとダンツィヒへの急進を図らざるを得なかった。
自分達の部隊が損耗したら、別のまだ健在な部隊が先頭に立ち、その部隊が損耗するまでは、自らが補充等に努めて、その部隊が損耗したら、また代わりに自分達の部隊が先頭に立つ。
砲兵は最低でも自動車牽引化されており、機動力を高めることで、自分達に付いてきている。
歩兵も全て自動車化されている。
支援に当たる航空隊は、独軍の前線飛行場を逆用してまで、自分達の急進撃についてきている。
その一方で、当時、オーデル河やヴィスワ河近辺、要するにいわゆる旧ポーランド、プロイセン領に駐屯していた独軍はベルリン救援命令を受けたことから、ベルリンを目指しての移動を多くが余儀なくされており、日本海兵隊やポーランド軍との遭遇戦を基本的に余儀なくされていた。
これは、あらゆる面で独軍にとって不利な戦いとなった。
何しろ、制空権が独軍には失われており、遭遇戦とは言っても、ほぼ確実に日本海兵隊とポーランド軍の迎撃を独軍が受ける形での遭遇戦が多発したからである。
独軍の本音から言えば、このような状況下でのベルリン救援は無理があった。
だが、命令という事から独軍は行わざるを得ない状況だった。
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