第4章ー24
そして、石原莞爾中将とパットン将軍の作戦計画であるが、アイゼンハワー将軍、北白川宮成久王大将、更にレヴィンスキー将軍等の介入により、1941年のこの当時の戦況に見合う様な修正が施されたうえで断行されることになった。
だが、その修正後の作戦計画でも、この当時の独軍の想像を絶する作戦計画であり、そのために戦後に生き残った独軍の高級将校の面々の回想録において、
「所詮は物量頼みの連合国軍に負けたのだ。作戦レベルでは我々は世界最高峰だった」
という(自分達独軍は、作戦では決して負けなかったのだという)負け惜しみを書かせる羽目になった。
だが、この後の戦況経過からすれば、それは独軍の高級将校の面々の負け惜しみである。
実際に物量だけで戦争に勝てるのなら、苦労はしない。
実際には物量だけではなく、それをいかに有効に様々に生かすかによって戦争に勝てるのである。
「エルベ河を渡河して、ベルリン方面に突進せよ。更にできるならばワルシャワまで前進するか」
日米波連合軍の各軍司令部が最終的に調整の上で決定した作戦計画が関係各所に下った。
更にそれによって自分達、日本海兵隊に求められた進軍距離の遠大さを知った土方勇中尉は気が遠くなる想いさえしていた。
ちなみに、岸総司大尉等も同様の想いに駆られている。
実際にはデンマークが連合国軍によって解放されるのに伴い、エルベ河口付近では連合国軍がエルベ河の渡河に成功している。
とはいえ、独軍もエルベ河という天然の防壁が崩されたことに鑑み、それに対応した防衛線、陣地帯の構築を済ませていて、そう容易にベルリンへの突進を連合国軍が図れないようにしていた。
この独軍の防衛線を完膚なきまでに打ち砕こうというのが、石原中将らの作戦計画の骨子だった。
そして、独軍の作戦計画は結果的に、石原中将らの作戦計画を後押しするものになった。
この時の独軍の防衛作戦において、独軍が犯した過誤は主に二つある。
まず第一が死守命令だった。
独軍首脳部は、日米波連合軍はベルリンを目標としていると単純に考えていた。
(普通はそう考えるだろう、というのももっともな話ではある。)
そのために独軍首脳部は最前線からベルリンに至る途上の部隊に対して死守命令を下していた。
なお、これはヒトラー総統の全面的な支持も受けていた。
ヒトラー総統にしてみれば、前線の部隊が死守していれば、連合軍の進撃は阻止され、予備部隊の投入により、連合軍の攻撃は跳ね返せると信じていたのである。
だが、これは「小敵の堅なるは大敵の擒なり」という孫子以来の格言そのままの行動と言って良かった。
連合軍の攻勢は、ヒトラー総統や独軍首脳部の想定を超えるものだったのである。
第二が後述するが、ベルリンが危機に陥った後、慌てて救援部隊をベルリンに差し向けたことである。
圧倒的な敵の制空権下で、昼夜を問わないベルリンへの急行軍が何をもたらすかというと。
移動先を読まれた急行軍を行う部隊の空襲による壊滅だった。
せめて夜間移動で、むしろ、ベルリンから主力部隊を脱出させて、ソ連軍と協力してのベルリン奪還を独軍は図るべきだったのである。
その一方でこれだけの大攻勢を実現するためには、日米波連合軍も物資の集積等に手間暇を掛けざるを得ない事態となった。
そのために日米波連合軍が攻勢を発動するのは英仏等に対して遅れに送れ、7月早々の攻勢発動という事態が引き起こされるのである。
だが、これは結果的には必ずしも悪くはなかった。
この攻勢発動が遅れた結果、独軍首脳部の間に日米波連合軍は西からではなく、プラハ等南からのベルリン侵攻を策しているに違いないという誤断を引き起こしたからである。
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