第4章ー23
石原莞爾中将とパットン将軍が中心となって作り上げたベルリン攻略とワルシャワ奪還を同時に目指す作戦原案は、日米波連合軍の司令部に激震を走らせた。
「史上空前の壮大な作戦計画だ」
連合国軍の至宝と謳われるポーランド軍のレヴィンスキー将軍でさえも、この作戦原案を読み終えた直後には、それだけしか口には出せなかったという。
それくらいこの時の日米波連合軍の作戦計画というのは、これまでの作戦計画とは桁が違うというか、様々な点で異なった代物だったのである。
逆に言えば、1930年代後半のソ連軍の作戦レベルが如何にそれ以外の同時代の国々の軍隊と懸絶したものであったか、を示すものであったともいえる。
さて、この当時、日米波連合軍でこの攻勢に参加可能だった戦力だが。
独立部隊を師団換算等した上での話だが、米軍が24個師団、日本海兵隊が6個師団、ポーランド軍が20個師団といったところで、合計50個師団に達しており、人数に直せば総兵力は約250万人に達していた。
一方、この日米波連合軍に対峙している独軍の師団数自体は、ほぼ同数だったが、問題は例によって人員の損耗や装備の質量の低下である。
この当時の独師団には、ポーランド侵攻時にいた精鋭は摩耗しており、装備も第一次世界大戦終結の際に密かに隠匿していたような旧式兵器が珍しくない惨状だった。
人数こそ、この時に独軍は約100万人近くが、この当時にエルベ河以西、ヴィスワ河以東に展開して、日米波連合軍の攻勢に備えていたというのが多数説(なお、多数説でも日米波連合軍の攻勢が始まった後は、この内の10万人近くが投降や脱走の路を選んだという)だが、実態はお寒いものだった。
更に装備の質と量の差はそれに輪をかけるものだった。
火砲こそ日米波連合軍が約1万5000門に対し、独軍は約1万門と質はともかくとして極端な差は無かったが、問題は航空機の質量の差だった。
日米波連合軍は、英仏空軍の協力も得ることにより約1万機がこの作戦に参加しているのに対し、独空軍は今や1000機に満たない有様だった。
しかも、日米波連合軍には、英仏空軍の協力もあって、四発の重爆撃機(戦略爆撃機)がその内の2割近くを占めるのに対し、独空軍は0である。
日米波連合軍と独軍の航空機エンジン数を単純に比較すれば、20対1に達していたという評価もむべなるかなという差があった。
そして、戦車等の装甲車両の格差である。
戦車や(突撃砲、駆逐戦車を含む)自走砲は、日米波連合軍は4000両以上に達していたのに対し、独軍は寄せ集めても600両に満たなかったという。
この格差を存分に生かして、最前線から後方まで砲爆撃で存分に叩き、100キロ以上の幅で独軍の戦線を一度に崩壊させ、ベルリンを攻囲して、ワルシャワ奪還を果たそうというのが、石原中将とパットン将軍の作戦の骨子だった。
確かに幅数キロの戦線を崩壊させても、その横が崩壊せねば、所詮は突破口は狭いままであり、予備部隊が駆けつけることで、その崩壊した穴を防ぐことが出来る。
だが、一度に数十キロの戦線が崩壊し、更にその横の戦線が連鎖崩壊した結果、突破口が100キロを超えるような事態になったらどうなるか。
更に予備部隊まで同時に攻撃が加えられ、予備部隊が崩壊してしまったら。
トハチェフスキー将軍が唱えた(滅茶苦茶簡単に説明すればだが)ソ連赤軍の縦深戦略理論は、これによって敵軍を破ろうというものだった。
石原中将とパットン将軍は、この縦深戦略理論を実行しようとしていたのである。
そして、この当時、独軍(というより世界各国の軍)はこの縦深戦略理論を打ち破る理論を持ち合わせていなかった。
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