失恋休暇(From Heatbreak Holiday)
この街には変わった法律がある。
"失恋法"。少し恥ずかしい名前のつけられた法律で、失恋した翌日は祝日になる、というものだ。
僕はいま、その制度を利用して旅に出ている。まあ、僕の場合、翌日じゃないんだけど。
よく晴れた秋の日のことだった。
"女心は秋の空"なんて安っぽい揶揄があるけど、なんて上手いこと言ったもんだろうなと思う。雲一つない青空と、結婚式場の清さはどこか似ている。結婚式場は、沢山の白で出来上がっていてまさに今、僕の目の前には真っ白で、未知で、純白の世界が広がっていた。
ここからがスタートだ。汚れの知らない白なんかじゃなくて良い。喧嘩して赤、流れた涙の青、作ってくれたカレーをこぼして黄色。純白なんかよりも2人で沢山の色に染まっていきたい。大勢の参列者に見守られながら僕はそんなことを思っていた。
そんな時だった。大きな音を立てて、式場のドアが突然開いたのは。
違和感ともいえる空気が一気に流れ込んでくる。1人の男が立っていた。
ネクタイはズレていて、シャツは汗で体に張り付いていて、肩で息をしていた。スーツを着慣れていなさそうな男。その男は、花嫁の幼馴染みだった。名前は確か泥棒、と言ってたかな。真っ直ぐに彼女に向かってきている。
僕には、なす術も無かった。
彼女は突然ソイツに腕を掴まれて式場から引っ張り出された。あっという間だった。というか、「あっ」と言う間すら与えてもらえなかった。それからのことはあまり覚えていない。
参列者は気の毒そうな顔をしたり、怒る人や、ワイドショーのゴシップニュースを観てるように、心なしか楽しそうな人だっていた。放心状態になっていた僕はいつの間にか家に戻っていて、淡々と日常をこなしていた。何も無かったかのように。
カモメの鳴き声がして、我に返る。
見渡すと、あの日と同じ雲一つない空と、どこまでも続く海があった。
そうか、僕は、失恋休暇を利用して旅行客船に乗り込んだのだった。
「あ、そう言えば…」
ふと思い出してリュックサックの中身を漁った。乗船する前に買ったサンドイッチが入っている。カモメに食べられないように、甲板から船内に場所を移す。タマゴがたっぷりと入ったサンドイッチを片手に椅子に腰掛けた。
旅行客船の船内は、施設も充実していた。ブッフェスタイルのレストランにバー。プールや遊戯施設もある。旅をするための船というよりは、船で旅をするという感覚に近い。派手なシャツや、少年のような短いパンツを履く人、爽やかな白い帽子を被る女性、ワンピース姿の人。旅行に向かう人々の様子がより一層にバカンスのオーラを醸し出している。
「おい、お兄さん、落し物してたぞ。」
唐突に声をかけられ、声のする方向を向いた。そこにはペンを持った、ひょうきんそうなおじさんが立っている。
「ありがとうございます。でもどうして僕のだと分かったんですか?」
「俺も甲板にいてな。んで、お前が急にリュックを漁るから何事だろうかと思って見てたんだよ。チケットでも無くしたんじゃないかな?って。そしたらサンドイッチを取り出すもんだから。その時に落としてたぞ。」
このペンは、彼女との婚姻届を書いた時に使ったものだ。ただそれだけなのに、変に思い出が染み付いてしまって捨てられずにいたのだった。
「そうだったんですね。わざわざ、ありがとうございます。」
僕は頭を下げておじさんに感謝を伝えた。
「それだけじゃ腹の足しにならんだろ。これも食えよ。これも何かの縁なんだからさ。」
おじさんは僕にまんじゅうを渡した。
「俺の街の土産物でな、中にはクリームが入ってんだ。変わってるだろ?」
実際、中にクリームが入ってるまんじゅうなんて、珍しいものではない。僕はおじさんの楽しそうな笑顔に、珍しいですねと相槌をうち、ソレを食べた。 口に含んだまんじゅうは予想外に甘くて、美味しかった。
「これ、美味しいですね!」
僕がそう言うとおじさんは嬉しそうな顔をして答えた。
「人の不幸は蜜の味なんて言うけどよ、そんなもんよりも自分の幸せの方が上品な味なんじゃねえかなと思うのさ。でも、流石にここまで甘くはねえかな!」
おじさんは大笑いしながら答えた。
話を聞いていくとこのおじさんの出身地では"嘘をついた者に甘いアメを舐めさせる"という変わった法律があるらしい。
それに憤った街の人が法律を皮肉って、甘い甘いまんじゅんを販売したところ、飛ぶように売れた。今ではアメよりも有名な街の目玉商品にまで成り上がったというのだ。
「へぇ。面白いですね、まさかまんじゅうとは。何が起きるか分からないなあ…」
「その通りだよ、人生なんて何が起こるか分からねえ。分かんねえから面白いだよ。」
カラッとしていて、晴れやかなおじさんの笑顔は僕の心を明るく照らしてくれた。おじさんは「良い休日を」と茶目っ気たっぷりに言い残してその場を去った。
残っていたサンドイッチを一気に頬張って、僕は再び甲板に向かった。どこを向いても海だった。今まで通り生活していたら見れなかった景色が、甲板に立っているだけで見れるのだ。
海はどこまでも果てしなく、今乗ってる旅行客船すらも小さく感じる。その中には更に小さい人間が何人もいて、そのうちの1人が僕。そう俯瞰して考えると自分の小ささが良く分かった。
「おーい、そこの兄ちゃん。暇してんのか?」
出会いはいつだって突然だ。そこには髪を金色に染めた軽率そうな男が立っていた。
「別に、暇してるわけではないですけど…」
僕はやや警戒しながら答える。
「え?そうなの?それじゃ、なにしてたの?」
金髪は軽率に話を続けてきた。
この男は、僕とコイツが初対面ということに気付いていないのではと疑ってしまうほど馴れ馴れしく、図々しかった。
「別に何も…海を見てるだけですけど。」
僕は少しだけムッとした。先ほどのおじさんがどれだけ良い人であったのか気付かされる。
「そんな辛気臭いことしてんなよ!海なんてもう見飽きただろ?ほら、これ。」
金髪は俺に飲み物を差し出してきた。
手渡されたものを良く見てみるとアルコールらしい。
「ビールだよ、知ってるだろ?」
「ビール…」
僕の街ではビールは禁止されていた。他のアルコールすらも法律により厳しく摂取量が取り決められていた。失恋休暇中に飲み過ぎて悪い恋愛をする人があまりにも多すぎるためだ。何故ビールだけ禁止されているのかは誰も知らないが。
「飲みてえだろ?乾杯しようぜ!甲板で乾杯ってな!」
金髪はつまらないジョークを飛ばして乾杯に促してくる。僕はビールを飲んでみたくてたまらない。
何故この男がビールを2つ持っていて、何故そのうちの1つを僕に渡したのか、謎は多く残るが、旅の恥はかき捨て言うし、花嫁に逃げれた僕の今後など、どうなっても構わないのだ。俺は試しに飲んでみることにした。
「乾杯!」
僕は初めてビールを飲んだ。今までに経験したことのない喉の感触。飲み物なのに食べ物のような存在感がある。
「なんだ?初めて飲んだのか?美味いだろ?」
金髪はグビグビと、喉を鳴らすようにして飲んでいた。
「なんか、思ったより苦いな。」
僕は猫が水を飲むように少しずつ飲む。
「人生なんてもっと苦いことが沢山あるだろう?ビールの苦みくらい、大したことねーだろ。」
またしても有り難い、鼻につく言葉を頂いた。この人は人生の何を知っているんだ。
「さっきから色々と決めつけないでくれませんか?僕は僕で、あなたはあなた。同じ脳みそを使ってるわけじゃないんだから考え方が違うのは当然のことでしょう?」
人間関係に奥手な僕が初対面なのに大胆に言ってしまったのは、多分、ビールのせいだ。元々アルコールに弱いということと、船特有の揺れもあって、アルコールが回る速度は早かった。
「決めつけてたなんて、そんなつもりはねーよ。俺は俺の思ったことを言ってるだけ。お前の個性は認めない!俺の好みに合わせてくれ!なんて言ってないだろ?」
予期せぬ口論と波に甲板は揺れる。まさか旅行の最中に、全く見知らぬ人間と口論になるなんて考えもしなかった。
「確かにそれは言ってないですけど、もう少し相手を尊重した言い方もあるんじゃないかな。」
「仲良くなるか、ならないか分からない相手にそこまでする必要あるか?そもそもいずれ親しくなるなら、回りくどいことせず、自分の素の状態で居られた方が良いだろ。それでダメならソイツとは息が合わなかっただけじゃねーか。」
僕は迂闊にも、ハッとした。確かにそうだ。自分の素の状態でいて、それでダメなら息が合わなかっただけなんだ。僕は彼女の前で、どれだけ自分で居られていただろうか。彼女を失うことが怖くて、我慢することも多かった。喧嘩が増えることを恐れて、次第に言いたいことも言わなくなっていた。あれは、本当に僕だったのか。それとも僕の皮を被ったただの臆病者だったのだろうか。
「確かにそうだ。自分が自分で居られなかったら、意味が無い。」
僕は早くも口論に白旗をあげた。言い方は鼻につくが、言ってることはあながち間違いでは無いのかもしれない。
「なんだよ、あっさりと折れやがって。でもな、そうだろ?なにも無理してまで、誰かと一緒に居る必要はねーんだよ。」
無理してまで誰かと一緒でいる必要は無い。彼女は僕といて無理をしていたのだろうか。
「なんだかんだ言ってるくせに飲み干してるじゃねーか。本当はもっと飲みたいんだろ?」
金髪が僕の缶ビールを指さして笑った。
見た目では中身は分からない。しかし、ピチャピチャと音を立てている缶に中身が無いのは一目瞭然だ。
「ほら、もう一杯引っ掛けようぜ。バーがあったろ。」
「いや、でも、」
「良いから付いてこいって!」
全くもって強引だ。そして僕はなんだかんだ言いながらも、金髪について行ってしまう。
場所を船内のバーカウンターに移動して、金髪と飲み交わした。初対面の人と飲み交わすことも、アルコールを良しとしない街のアルコールに弱い僕がこんなに飲むことも、初めての経験だった。
背徳感と高揚感が飲物となって、僕の身体を駆け巡る。良いのだ。今日は休日なのだから、何をしたって良いのだ。
「なんだよ、お前意外と飲めるんじゃねーか!」
金髪は楽しそうに笑いながら、僕の背中を叩いた。僕もつられて笑う。初めの不穏な雰囲気が嘘のようだ。
酔いもあって、喉に引っ掛かってる言葉と、心の海底に沈めた思い出を吐き出してしまいたい衝動に襲われた。グイッと一気にアルコールを体に取り込む。
「実は僕、結婚寸前の彼女に逃げれたんだ。もう本当に寸前。皆が見ている式場で。しかも彼女の幼なじみに奪われて…」
話していて僕は目眩がした。アルコールのだけでせいはない。
「おおー、それは珍しい経験してきたな!」
慰めてもらいたかったわけではないが、予想外の回答に僕は戸惑った。
「珍しいってそれだけですか?辛かっただろ?とか大変だったね、くらい言いませんか普通。」
「そんなん言われたって辛かったに決まってるだろうし、大変だったに決まってるだろ!それを今更慰めた所で何になるんだよ。そもそも自分で慰められるくらいには元気になったから、今こうして旅行客船に乗ってるんだろ?」
「まあ、確かにそうですね。自分で慰められるくらいには。」
「良いことじゃねえか!どんなことがあったって、自分の傷を癒せんのはやっぱり自分だからな!珍しい経験を出来たって笑い飛ばせば良い。」
金髪は店員を呼びつけ、次の飲み物を頼んだ。僕も便乗して次の飲み物を頼む。
「他人事だと思ってますね?」
僕は少しだけ笑って言った。
「どうしたって他人事だろ?初対面だしな!」
金髪も笑っている。確かに僕らは赤の他人だ。
「じゃああなたは?あなたは何か珍しい経験があるんですか?」
金髪は意味深そうに不敵な笑みを浮かべた。
「聞きたいか?」
「はい。」
「驚くなよ?」
「はい。」
わざとらしく、空白を持たせて金髪が口を開いた。
「何も覚えてねえんだ。自分の名前も、どうやって生まれたのかも。どうしてこの船に乗ってんのかも!」
「え?」
驚いてしまった僕を横目に、金髪はアルコールを飲んだ。
「手元には、"利用明細表"、"メモリーアクセスショップ"と書かれたレシートと沢山の金があるだけだった。帰ろうにもどこに帰れば良いのか分からないし、行きたい所も別に無かった。フラフラと街を歩いてる途中に見付けたのがこの船の案内だったってワケだ。」
金髪は少しだけ悲しそうに顔を歪ませた。
「だからな、楽しいことだろうと、辛いことだろうと記憶があるっちゅーのは、良いことなんだよ。」
僕たちの間に重たい空気が流れた。
多分、笑い飛ばしてほしかったのだろう。しかし、僕にはそれが出来なかった。見た目からは想像も出来ないほどに大きな傷を抱えていたのだ。慰めるでも、笑い飛ばすでもなく、僕がやっと思いで言い返せたのは、取るに足りない言葉だった。
「…まあ、生きていればそういう日もあるよね。」
もっと勇気づけられる言葉がないかと脳内の引き出しを全てひっくり返してみるも、探しているものは見つからなかった。そうこうしている間に船内にメロディーが流れた。
『まもなく、ストロベリーアイランドに到着致します。お降りの方は下船の準備をして乗船口までお越しください。』
下船のアナウンスだった。
「もう着くんだ。思ってたよりも早いな。」
僕は船の予想外の早さに、思わずひとり言を言った。
「なんだ?ここで降りちまうのか。もっと飲みたかったよ。残念だ。」
金髪はアルコールのせいで顔を赤らめている。
「うん。まさかこの短い間で、あなたと仲良くなれるとは思って無かったです。楽しい時間をありがとう。」
僕は丁寧にお礼を言った。
「なあに。俺だって楽しかったさ。にしても、出会いが突然なら、別れだって突然なんだなあ。じゃあ、またどこかでな。」
金髪はお金をテーブルに置いて歩いていってしまった。
声をかける時間すらなく、2人分のお金がテーブルに乗ってることに気が付いたのは彼が居なくなってからだった。
僕は支度をして乗船口に向かう。すでに沢山の人が集まっていた。
もうすぐストロベリーアイランドに着く。
そこは彼女が行きたがっていた場所だった。
「この島の周りには何も無くて、地形にも恵まれているから、この島の中央であるフィール山からは世界がぐるっと丸く見えるんだって。全部が繋がってるみたいに丸い景色なんて凄いと思わない!?ぐるっと丸い景色なんて、孤独なんて存在しないんだよって教えられてるみたい。君もこの世界の一部なんだよって。」
彼女が嬉しそうに話していた姿を思い返す。憎むべき孤独。悲しむべき孤独。この世の終わりだと思っていた孤独こそが、僕をこの場所に連れ出したのだ。彼女が居なければ、この船にも乗らなかっただろうし、金髪にも会っては居なかった。彼女が居なくたって僕は歩いていかなきゃいけないんだよな。
ガタン、という音がして船が桟橋と繋がった。
沢山の人と浮ついた声の雑談と共に僕は船から降りた。フワッとした優しく柔らかな風に吹かれる。次に、太陽を見つめ、眩しくて思わず目を細めた。異国に地に着いたというだけで、こんなにも高揚感に溢れてしまうのか。
しばらくすると船は、出発の支度を始めた。桟橋から離されて、海に浮かぶ個として独立する。船がボォーという汽笛を鳴らし、ストロベリーアイランドの住民たちは船に向かって旗を振っていた。人々が手を振り合うのを横目に、1人の男が甲板に姿を表した。金髪の姿だった。
「なんで甲板なんだよ、見えにくいじゃないか。」
僕のひとり言なんて、金髪には届きもしなかった。彼は大きく大きく手を振っていた。
快晴の空の下、叫び声をあげている。
「いい休日を!」
アルコールのせいで、しゃがれた声で叫んでいる。
「忘れないでね!!」
僕も負けじと叫び声をあげた。探していた言葉の断片を見付けたような気がした。船が少しずつ遠くなってゆく。
「余計なお世話だよ!!」
金髪は笑いながら叫んだ。
もう缶ビールほどにの大きさになってしまった金髪の姿に、いつまでも手を振った。
やがて船も、金髪も、すっかり見えなくなってしまった。
ふいに訪れた静寂を、優しい風が溶かしてくれる。いい休日になりそうな気がしていた。