全てがソコに堕ちていく
平成28年度文芸部、新入生歓迎号掲載。
「なんじゃ、わっちに用でもあるのかの?」
噂があった。授業の合間合間に周囲から聞こえてくる、おとぎ話があった。
「ここを見つけられる人間とは――珍しいの」
はるか昔廃れた神社に、今は高貴な亡霊が住み着いていると。埃が堆く積もったお社に、血も凍らせる化け物がいると。
「ほれ、わっちが社から出てきてやったのじゃ、なにか答えるがよかろう」
ここを訪れたのは、些細な好奇心から。つまらない今が変わればいいのにと、なんとなくの希望に体を委ねた結果だ。
「汝、もしや盲目か。それとも盲聾か。しかし、捨てられたにしては身なりがいいのう」
――没落貴族か、と。彼女は僕に問う。
「おい、いい加減何か言わぬか、そうでないと――」
居丈高に言葉を放つ彼女の容姿は、その言の葉に相応しい美麗さだった。腰まである黒髪は闇のようで、くすみなど一切見当たらない。瞳はまんまるして大きく、濃い黒の中に意思の光が煌々と灯っている。体躯は幼いながらも人を引きつける蠱惑を有しており、視線を引き付けるだけの魅力があった。
身に着けている黒を基調とした着物も、豪奢な金の装飾がなされている。建造物の雰囲気も相まって、劇の世界に飛び込んでしまったかのような気分だ。
これがヒトとは違うモノのつくりかと、僕は驚嘆する。心から溢れる思いをそのまま、口に出してしまう。
「――綺麗だ」
「へ?」
「とっても綺麗だ」
「な、なんじゃ唐突に」
彼女の白魚のような手を握って、僕は話しかけた。
「きみみたいな人を、僕は探していたんだ」
「ふぇ?」
深い森に包まれた社。いつからか誰も参拝しなくなった神社に、彼女は住み着いたらしい。
立ち話もなんじゃ――と、彼女に招かれた社の一室で僕らは話していた。室内は少し薄暗いものの、荒れているといった有様ではない。
「汝、名前は」
「椿。春原椿」
「ふむ、つばきか。女みたいじゃの」
「よく言われるよ」
「そうであろうな」
彼女は艶みがかった黒髪を揺らして、静かに頷く。
「…………」
しっとりと濡れた瞳がこちらを真正面から捉えてきて、僕の心は絡め取られた。
「汝、訊かぬのか」
「何を?」
「わっちの名を、じゃ」
見蕩れていて、すっかりそんなことも忘れていた。脳がその役目を忘れてしまったかのように、白痴に満たされている。
「ああ、そうだね。あなたの名前は?」
「――かるらじゃ。汝のように苗字はない」
「かるら、かるら。なんだか不思議な名前だね」
「そうか? 名前に不思議もなにもなかろう。ただ名付けられて、型に嵌められるだけじゃよ」
「っていうことは、自分から名乗ったりはしなかったんだ」
「昔にな、どこかの偉ぶった坊主が名付けおったのじゃよ。わっちのことなど良く知らぬのにな」
くくっ、と。かるらは遠い目をして嘲った。
「そういえば、汝はどうやってわっちのことを知ったのじゃ。名を聞いてきたということは、その坊さんからの伝手ではないな?」
「学校で、ちょっと噂になっててね。気になって」
「ふうむ、学び舎で、のう……。それは学級単位でか? それとも全体で?」
「後者の方だけど――意外。学校、分かるんだ」
「……汝、わっちを馬鹿にしておるのか。これでも世の勉強はしておるよ。くそ坊主の呪いのせいでここを離れられなくとも、少しぐらいは情報を得る術はある」
控えめな胸を張って、かるらが着物の袖から取り出すのは薄い板のようなモノ。
薄暗さの中で目を凝らしてみると、それはスマートフォンのようだった。
「なんと驚け。つい先日手に入れた、最新型の『すまぁとふぉん』とやらじゃ。しかもこれは、世で最も使われておる『めいかぁ』のものなのであろ?」
「びっくりした。今は幽霊までもがスマホを持つ時代なんだね」
「いいや、これを持っているのはわっちぐらいのものじゃ。ほかのモノは使い方さえ分からぬよ」
自慢げに語る彼女の手には、今確かに現代の精密機器がある。しかし――僕にはどこか違和感が拭えなかった。
「これ、ちょっと詳しく見てもいい?」
「うむ、よいぞよいぞ。何しろ最新で人気のものじゃからの。汝が羨ましがるのも当然じゃ」
すっかり気を良くしたまま、何かを勘違いしているかるら。僕は機械を彼女から受けとって、良く観察してみる。
――やっぱり。
「これ――偽物だ」
「ふぇ? に、偽物?」
「うん……あ――中国製。りんごじゃなくてみかんだよ……。でもまあ、多分使うにはあんまり問題ないんじゃないかな?」
露骨なまでの模造品だった。まともであれば、この商品を買うようなことはないだろう。
人じゃないから、騙されるのもしょうがない……のかもしれない。
「では、えっと、最新型では――」
「ないね」
「人々の間で人気でも――」
「ないね」
「『しぇあなんばーわん』でも――」
「…………」
答えるのが悲しくなって、僕はただ目を伏せた。
「汝も持っておるのか?」
「うん、一応」
「さ、触らせてはくれぬかの?」
上目遣いで頼み込むかるらが愛おしくなって、僕は自分のスマホを彼女に渡す。
「うすっ、かるっ⁉ これは使っていて折れてしまわぬのか⁉」
「まあ、スマホってそういうもんだし」
「動きも軽くて、画面もきれいじゃの……」
しげしげと見つめた後、かるらはそっと僕の手にスマホを置く。
「くやしいのぅ……あとでわっちも同じようなものを買うとしようかの」
「こういうのって、誰が売ってくれるの? ここから離れられないんだったら、買いにはいけないよね」
「人と異形を繋ぐ変わりモノがいるのじゃよ。彼奴らは、事情を抱えたお互いのセカイを引き合わせて金や権力、それに生きる糧としておる。わっちの話も、彼奴らから漏れ出したものかもしれんの」
「そういうのもいるんだ……一回、会ってみたいな」
どこかにいるだろうその人物(怪物)を思って、僕は外の緑を眺めた。僕の視界の端でかるらが、不思議そうな顔をしている。
「汝は何故そうも、異形の領域に興味を抱くのじゃ。普通なら恐れをなして逃げ出すところじゃというのに」
かるらはその白い右手を伸ばして、僕のおとがいをゆっくりと撫でる。
「現にわっちがこうしても、ちっとも動きはせぬ。仮にわっちが人喰いの化け物であったら、一体どうするつもりじゃ」
「どうもこうもしないよ。ただ、あのつまらない日常を壊してくれればいいと思っただけ」
「なんじゃ、汝は自殺志願者か?」
「そうじゃない。でも、そうかもしれない」
「よく分からんやつじゃの。まあ、わっちは退屈せんからいいのじゃが」
僕は両手を後ろについて、黙って天井を見上げた。年季の入った木材が、影の中で独特の趣を醸し出している。この場所がもう夢の中のようで、少しだけ、代わり映えしない日常から逃れられた気がした。
「そうもこの建物が珍しいか?」
「ここまで年季の入ったもの――それも、長年人が住んでいないモノとなると、かなりね」
「どうせならわっちを見たほうがいいと思うぞ? 四百年間彷徨う霊など、めったに見れるものではないのじゃからの」
かるらは不敵に笑って、着物をはだける。そのまますくっと立ち上がり、かっこよく舞って見せた。
「もしかして、露出のしゅ――」
「なわけなかろう、たわけ‼ 少しでも絶世の美女幽霊っぽく演出しておるというのに、なんじゃその言い草は‼」
「その見た目で美女はきつくない?」
「う、汝は、わっちを子供っぽいと言いたいのかえ? 長い時を佇み続けているこのわっちを?」
「そっか、四百年も存在してたらもうおばあちゃんだね。高齢者だね。シルバーマークマスタ――」
茶化しは、彼女の手によって止められた。僕の口を完全に塞ぐ、という形で。
「それ以上は許さぬぞ。これより先、年月の話はなしじゃ。分かったな?」
僕はぶんぶんと首を縦に振って、かるらの手から解放される。
「まったく、無礼な奴め……。ほれ、先ほどの詫びに何か面白い話でもせよ」
「面白い話、かぁ……」
「なにかあるじゃろ。汝は、日の当たる場所で過ごしておるのだからの」
そんな話が、あっただろうか。
ぼんやりとして代わり映えのない日常を思い起こして、必死に考えてみる。
「つまらない男じゃのう……なにも無い訳がなかろう。このようなものが作られておるのじゃから」
かるらは中国製のスマホを人差し指と親指で摘まみ、ふらふらと揺らす。
「遊びとか、美食とか、偉業とか、建築物……些細なことでもよいから、話してみぃ」
「あ、そういえば。でっかいショッピングモールが出来た」
「『しょっぴんぐもぉる』とはなんじゃ」
「えっと……複合商業施設?」
「うん……? ちとよく分からぬのう……もうちょっと噛み砕いて言うがよい」
「説明するなら、『一つの大きな建物に、たくさんのお店が入ってる』とかかなぁ」
「ふむ、中々興味深い施設じゃの。どのような種類の店があるのか、詳しく」
「僕もそこまで行ってるわけじゃないしなぁ……」
僕は自分のスマホをいじって、目的のホームページを呼びだす。そこには大まかなその施設の情報が分かりやすく書かれていた。
「えっと、こんな感じだね」
そして、かるらに画面を見せた。彼女はしばし液晶を見つめて、
「ふむふむ……はぇ?」
「どうしたの?」
「二十万平方メートルの敷地とはどれくらいなのじゃ? わっちにはまったく想像が出来ぬのじゃが……」
「適当に考えても、この社数百個分の広さかな?」
「なんじゃそれは……。――店は多いの……てか、多すぎるの⁉ 服を売る店だけでこんなにもあるのかえ⁉」
「そうだね」
「そしてこの、やけに広い面積をとっている『あみゅぅずめんとぱぁく』とはなんじゃ。面白そうな香りがしてくるのぅ」
「あー、そこはゲームセンターだね」
「おお‼ ここが噂に聞く『げぇせん』とやらか。いつかわっちも行ってみたいものじゃのぅ」
途端にかるらは、爛々とその澄んだ瞳を輝かせて、画面にかじりつくように見た。少し息も荒くなっていて、ぶっちゃけると怖い。
「わっちは最近『げぇむ』に嵌っておってな、この『すまぁとふぉん』で最近課金とやらも考えているほどのやりこみ具合なのじ――」
「それ以上はダメだ」
僕は彼女の手を握って、真剣に語りかける。
なぜなら、それ以上は闇だから。そこから先は底なしで人を喰う沼だから。このスマホを買ってしまうような人物は、そのまま金を消失する可能性があり得る。
「う、汝がそこまで言うのなら、止めておこうかの」
「うん、それがいい」
僕が安堵して笑うと、かるらは何故か体を揺らす。居心地が悪そうに、僕からも目を逸らした。
「どうしたの?」
「いや、その、あの、て、手がその……」
彼女が言わんとすることを察して、僕は即座に純白の手を離した。
「うむ、それでよい、よいのじゃ。このようなことは、もうわっちにやらせるでないぞ?」
「うん、ちょっと無神経だった」
「汝のような者を『でりかしぃ』に欠けるというのかのぉ。この高貴なわっちに対して、数々の無礼な言動――時代が時代なら打ち首じゃよ」
「やっぱり、結構なお家柄なの?」
「もう遠い昔のことじゃ。自らの出自なぞとっくに忘れたし、家柄になどこだわっておらぬよ。貴族の誇りがあるのであれば、こんな喋りかたしておらぬわ」
「元々はお嬢様だったんだね」
「そう言われるのはちと恥ずかしいのぅ……」
頬を赤く染めて、かるらは俯く。
「わっちはそう思われるのが嫌で、言葉遣いを変えたのじゃ。ちょうどその時、知り合った女の口調を必死に真似たのじゃよ」
――完璧には覚えられなかったわい、と。
さびしげに、かるらはここではないどこかを見つめた。瞳に宿っていた強い光がふっと消えて、仄暗い闇が眼窩を一瞬満たす。
「その人とは、仲が良かったの?」
「何故、汝に分かる」
「瞳が今までとは違ったから」
かるらは息を吐いて、寂寥を伴った笑みを浮かべる。
「鋭いのぅ……まるで妖のようじゃ」
「そんな表情してれば、誰にでも分かるよ。僕に特別何かあるわけじゃない。僕は、ただの普通の人間なんだから」
「汝はその過小評価が問題であるな。あまりに自己を貶め続けると、意識に肉体が引っ張られてしまうぞ?」
そんな嬉しい言葉と共に、かるらは僕の頭を撫でる。とても――とても優しい触れ方だった。ほんのちょっと、彼女の手が震えている。壊してしまわないように、そっと関わろうとするような、そんな接し方だ。
「こういうのは、恥ずかしくないの?」
「子供をあやしているようなものじゃからの」
これまでで一番の微笑みが、僕の視界一杯にある。怪しい空間にいるはずなのに、なんだか幸せな気分になった。
おんぼろのまどから差す夕日もとうとう無くなって、部屋がますます暗くなる。時間の流れを感じて、僕らの表情がほんのり落ち込んだ。
「もう遅い時間だから、帰らなくちゃ」
「あと少しだけ、ここにおれんのかの?」
「ごめんね。これ以上遅いと、ちょっとまずい」
そう告げると、かるらは顔を伏せる。
「じゃったら、一つだけ頼みを聞いてくれぬか」
「僕に出来る事だったら、なんでも」
「――明日も、またここに来てくれぬかの?」
僕は静かに頷いて、社の外に出た。
塗りつぶしたような夜の闇と、障壁のように生えている木々が――僕には、彼女を閉じ込める檻のように思えた。
「これが『どぉなつ』とやらか‼」
僕はそれから、毎日社に通い続けた。時にはこうやって、かるらに差し入れを持ってっている。
「ふむ、甘くてふわふわでおいしいのぅ……。むむっ、もう一方はこんがりぎっしりであるのか」
大抵の場合、僕が持ってくるのはスイーツだ。女の子だからという理由だけでの選択が、思いのほか成功している。
「ごちそうさまじゃ。いつもすまぬのぅ、この身では、中々こういった甘味には縁遠くての」
「こっちも面白い話を聞かせてもらってるから、その代わりみたいなものだよ」
「それだけでいいのかえ? わっちは妖らしい方法で恩を返したいと思っておるのじゃが……」
手を顎に近づけて、かるらはふぅむと悩む。数秒後、ぱっと晴れやかな顔をした。何か思いついたらしい。
「こういう時は、やはりわっちに相応しい方法でなくてはな!」
着物を少しはだけさせ、帯やら袖やらをいじくって――かるらは真正面を見据える。
「わっちの――妖怪変化の舞など滅多に見れるものではないぞ、心に刻みつけるがよい」
―――――――――――――――――――――――。
初めは、形容すらできなかった。かるらの一挙手一投足が流麗で華麗で、息が止まってしまったのだ。
空間を巻き込んで翻る着物と、所々から覗く眩しい肌。音楽などないのに、聞こえてきそうなほどリズミカルな動き。
「―――――――――――――」
ぼーっと見惚れる僕に気を良くしたのか、かるらは綻んで、歌い始めた。それはこの世で一番美しい歌声で、ヒトでは到底思いつきそうにない旋律で、余興でない余興だった。
これは二人だけの社で開かれる、ささやかな演目。そう思うと僕の心に感情がわっと湧き出して、自然と瞳から雫が零れた。
締めにぴたりと体を静止させた後、かるらは深々と一礼する。
「なんじゃなんじゃ、この程度で泣きおって。汝の涙は、それほどに安いものであるのかの?」
口元に手を当てて、かるらは僕をからかう。
「――とんでもなく綺麗で、きらびやかで、なんて言ったらいいんだろ――」
「そういうものじゃ。妖とはそういうものじゃよ。昏く、得体が知れず、ぼんやりとしていて、掴みどころがない――無理に形容する必要などない。汝が見たままを、汝の心に留めておればいいのじゃ」
かるらはまた僕の頭を撫でて、破顔する。
「ほれ、泣くのをやめい。帰り道で誰かに会ったらどうするのじゃ」
夕日が、彼女をオレンジ色に照らしている。
背から漏れ出す光は後光の様で、彼女はまるで神様みたいだった。
この神様を知っているのは、僕一人。ただ一人。それが誇らしく思えて、僕は微笑しながら帰路についた。
――またかるらの元に行った。
「今日はやけに早いのぅ」
「学校が早めに終わったからね」
「友人と遊んだりしなくてよいのかの?」
「別にいいんだ。かるらと一緒にいる方が楽しいから」
「そういうものかのぅ。まぁ、わっちはいいのじゃが……」
――この日もかるらの所に行った。
「今日、ここに泊まれるかな?」
「はぇ? 汝、今なんと」
「ここに泊めてくれないかなって。必要なモノは持ってきてるから」
「いきなりどうしたのじゃ、家出か?」
「いや、ただのちょっとした冒険。それにここだと、かるらと長く一緒に居れるしね」
「ふむぅ、ここの住み心地は、汝の家より良くはないと思うがのぅ。まあ、汝が良いのならわっちは良いぞ」
「起きよ、ほれ、おーきーよー。もう朝じゃぞ、おてんとさんが顔を出しておるぞ、ほれ、起きるのじゃ」
――今日もかるらの所に――って、昨日はお社に泊まったんだった。
「昨日どころではないわ。ここ三日ほど、ここにおるではないか。買い出しに行くとき以外、ほとんどわっちと過ごしておるぞ?」
なぜ、思っただけのことが伝わっているんだろう?
僕が不思議に思っていると、
「おい、思考が口に出ていることにすら気づかぬのか? 朝は随分と呆けているのぉ。汝、寝起きはいつもそうなのか?」
そうでもないけど……。
「そうか……。まあそういうこともあるじゃろう。ヒトの身であるのだしな」
風邪かなぁ……頭がぼんやりする……。
「慣れないところで寝泊まりするからじゃ。さっさと家に帰ってゆっくりと休むがよい」
嫌だ、ここがいい。
「黙っとれ。汝は帰るのじゃ。帰るべきなのじゃ。手遅れになる前に、のぅ」
嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだいやだイヤダイヤダイヤダ――。
「子供のように駄々をこねるな。わっちならいつでもここで待っておるから、今のところは――っ」
そんなに焦って、一体どうしたの?
「某かがここに踏み込んできおった。あれは――警察とやらじゃのぅ……。汝、ちゃんと家族や友人に言ってここに来たか?」
――――――――――――。
「その様子だと、言っておらぬのだろうな。ちょうどよい、汝もそんな状態であることだし、彼奴らに家まで送ってもらうがよかろう」
そんな、そしたら僕は――。
「いいから、そこにそのまま寝ておれ。親に怒られるかもしれんが、ちょっとした勉強代じゃろう。どれ、わっちはその辺にも隠れようかのぅ」
待って、お願い、僕も――。
「待てぬし、待たぬし、連れてなど行けぬよ――。妖とはそういうモノじゃ。ふっと消えてぱっと現れる、いつでも近くにいることなんて、有り得ぬのじゃよ」
僕は必死に手を伸ばすけれど、彼女にはまったく届かない。
「わっちのことをそこまで想うな。わっちにそこまで意識を向けるな。汝は生者であるのだから、生きているモノと触れ合うのが自然なことなのじゃよ」
僕の手は虚空を掴んで、ぱたりと床に落ちた。
誰かの足音がする。
かるらはもう、この場を去っていた。
「――来ない、か……。わっちも難儀なモノじゃのぅ……。社という牢から出られず、ただここで待つしかないとは。あやつはしばらく、ここには来られないだろうに」
警察が春原椿を連れて行ってから、一週間が過ぎようとしていた。親や友人たちが彼のことを心配して、ここには近づけないようにしているのだろうと、彼女はなんとなく考えていた。
かるらは思考する傍ら、退屈を持て余しながら社の階段に腰かけ続けている。
「退屈せぬ日々が、異常じゃったのじゃな――」
彼女は袖から煙管を取り出し、静かに一服した。紫煙が人気のない境内に流れ、影も形もなく空間に溶けていく。椿に配慮して吸っていなかった煙草の不味さに、思わず顔をしかめた。
「美味くないの……所詮は一人で出来ること、面白みには欠けるということじゃな」
煙草をくゆらせながら、幼女は一人ごちる。可憐で透き通るような声には、森のさざめきだけが応えた。人の声は、この森に一切ない。
「つまらぬ、つまらぬのぅ……」
少年とのささやかな日々を思い起こして、妖怪は消え入りそうにつぶやいた。言の葉は木々を駆け抜ける風に、全て持っていかれてしまう。
「そよ風ならばいいものを、こうも強風だと風情がまるでないわい」
煙管を逆さまにして、かるらは人差し指で管をポンポンと叩く。灰がふわりと落ちて、風に流されて散っていった。地面には、燃え尽きた刻みタバコの欠片すら見えなかった。
「結局はこうなってしまうのじゃな……。――のぅ、つばき」
かるらは真正面を見つめて、語りかける。
参道の先。朽ちかけ、色あせている鳥居をくぐる――彼に向かって。
「ヒトの身では妖とは共にいれぬ。ならば――その身を堕とせばよい、か。まったく愚かな選択をするものじゃよ」
ひたひたと、少年だったモノは石畳を歩く。
一際目を引くのは、彼の首筋に刻まれた深々とした傷。赤黒い線からは、既に血液は滴ってなどいない。
「よりにもよって、刃物でか……。なにも、そんな辛い選択をするものでもなかろうに」
幼女の眼から、ほろほろと涙が零れ落ちた。無職透明な雫は地面に数々の染みをつくり、じわりじわりと広げていく。
「のぅ、汝はもう喋れぬのだぞ? 生者とはもちろん、わっちともじゃ。自死した者に、そんな自由は許されぬ。それでも、汝はそれでよいと――わっちと共にいれてよかったと――そう、そう申すのかの?」
今にも倒れそうな足取りで、彼はかるらの元へ向かってきている。ふらりふらりと移動する様子は、ほんの少しだけ、頷いているようにも見えた。
「汝とは、生きたままで友人になれると思ったのじゃ。週に何回かお喋りできれば、それでよかったのじゃ。なにも、なにもっ! 命を捧げるまでもないというのにっ……‼」
――そうしてやっと、彼は彼女の元に辿り着いた。ぼろぼろの肉体と、輝きを失った魂魄でようやくかるらの足元へと倒れ込んだ。
「痛かったであろう、辛かったであろう……今はしかと休むのじゃ。わっちといることが汝のやすらぎになるというのであれば、わっちはそばに居続けよう。せめて、夢の中くらいは幸せな光景をみるがよい……」
かるらは嗚咽を必死に呑みこんで、淡々と彼に語りかける。優しさを持ってかるらが一言一言発するたび、彼女の影から闇が溢れだした。
黒々とした空間から最初に現れるのは、着物を着た骸骨だった。高価であっただろう衣服には穴がいくつも開いており、かんざしが中身を喪失した右の眼窩に刺さっている。
優美さと上品さが感じ取れる所作で、その骸骨は泣きむせぶような仕草を見せた。
「不思議な縁じゃの、お主も名を椿といったか。どうか、こやつに遊郭の話でも聞かせてやってくれ……」
かるらにうやうやしく一礼すると、ソレは音も立てずに彼に寄り添う。
次に影から這い出たのは、血で赤く汚れた鎧武者。武者はそっと彼の傷跡を撫でて、深く頭を下げる。
「刀傷の苦しみが理解できるのは、お主のみであるのぅ。どうじゃ、癒すことは可能か?」
鎧武者は何もせずに、ただ兜の奥の眼光を光らせている。喋らずとも、主には瞳で伝わると言いたげに。
「そうか……」
かるらは肩を落として、足元で眠る彼を見つめる。気を落とす主人を心配してか、影からは続々と魑魅魍魎の類が流れ出て来る。
首を無くした落ち武者が。耳を失った演奏者が。指を切り落とした任侠者が。足を持っていかれた踊り子が。四肢を消し飛ばされた軍人が――。
異形の群れが二人を取り囲み、慟哭とはいえぬ慟哭を漏らす。
「どうしていつも、こうなってしまうのじゃのぉ……。わっちは友人が欲しかった、それだけなのに……‼」
これは呪いだった。
怨念や羨望、愛情に恐怖――絶望、空虚などといった感情を大量に集めてしまい――ただの幽霊から魑魅魍魎の主へと変貌した、彼女への呪い。
関わったモノを全て堕としてしまう、高名な僧侶からの呪い。
それでもなお――かるらは求め続ける。霊へとなったその時抱いた、感情のままに。
「友達を持つことでさえ、わっちには叶わぬのかのぅ……」
「つーばーきーっ‼ つーばーきーっ‼」
深い森の中に、少女の声が響いていた。火が灯っているような、明るい生者の声だ。
「前に家出した時はここにいたんだよね……。さすがに同じ手は使わないのかな?」
首を傾げながら、少女は辺りを探し回る。しかし、生い茂った草木を掻き分けて進む必死の捜索はまるで功を奏さなかった。
一通り歩き回ったところで、彼女は息をのむ。
「やっぱり、ここも探してみよっか……」
自らの頬をぱちんと叩いて、少女は気合を入れた。
そして社の階段を登り、木製の扉に手を掛けようとしたところで、
「わっちに何か、用でもあるのかの?」
「え、え⁉」
こんな廃墟に人がいるとは考えていなかった少女が、驚きの声をあげる。
「そう焦るな。汝はなにを求めにここに来たのじゃ」
「えっと、幼馴染を探しに――」
「ふむ、あの少年かの」
「し、知ってるんですか⁉」
「ああ、少しだけじゃが」
「あの、その子のこと、私に教えてもらえませんか⁉」
「わっちに分かることであれば、なんだって話そう」
その言葉に、少女の言葉がパッと華やぐ。
歓喜の声から遅れて、社の扉が開かれた。中で佇む幼女が、あやしく笑う。
「――立ち話もなんじゃ、中に入るがよい」