一 勇者を論破する話
「よく来たな、勇者とその仲間達よ」
まるで果ての見えない広大な白の空間に、この世のものとは思えない、おどろおどろしい声が響いた。
その者、何もない空間にただ一人、悠然と構える天を衝くかのような巨人。
どこまでも吸い込まれるような黒いローブに身を包み、頭には三つの目と三つの角、大樹のような腕を持つ化け物――それは、魔王であった。
「魔王! 貴様の命もここまでだ!」
そして、そこには魔王に立ち向かう者がいた。
五人の選ばれし戦士達――勇者とその仲間達である。
「やってみるがいい。出でよ、わが下僕達」
魔王の召喚により現れるのは二匹の魔物。
一匹は、魔王にもひけをとらぬ大きさのドラゴン。
そしてもう一匹は――
◇◆
ここはいったいどこだろうか?
周囲を見回し、まず最初にそう思った。
先程までの俺は、学校の教室にて三袋目のポテチを食べていたはずである。
それなのに、気づけば辺り一面真っ白い謎の空間。その中で俺は尻餅をついている。
うん、全くわけがわからない。
そして、正面に見えるのは五人のコスプレイヤー。
きらびやかな騎士といった出で立ちの青年と、それとは対照的に地味な戦士のおっさん。
巨大な斧を持った神官風の少女に、木の杖を持ったおんぼろローブの爺。
そして同じく木の杖を持ったこれまた神官風の青年。
ぱっと見で説明するとこんな感じだ。
実に年齢層豊かなコスプレ集団である。
コンセプトは、どこぞのファンタジー世界に出てくる勇者パーティといった感じであろう。
そんな勇者パーティが、なんかこちらを向いて目をぱちくりしていた。
尻餅をついたままというのもなんなので、俺はどっこいしょっと立ち上がる。
しかし、腹がつっかえて後ろに転がった。
必然的に俺は仰向けになってしまう。
――ところで、人間の視界というものは左右には百八十度以上あるにもかかわらず、上下には百二十度程度にしかない。
つまり仰向けになっても後ろの様子は把握できないわけだ。
だから俺は見ていない。
後ろにいた三十メートルはありそうなでかい化け物など、決して見ていないのだ。
とりあえず、俺は両腕を使って立ち上がる。
「オークよ」
なんか後ろから世にもおぞましい声が響いているが、まあ気のせいだろう。
「オークよ、無視するでない」
ものスッゴい大きさの化け物のような人が、喋っているような気もしないでもないが、何かの間違いだろう。
「GYAAAAAAOOOO!」
なんか視界の右の方で真っ赤なティラノザウルスみたいなのが叫んでいるように見えるが、幻影だろう。
「オークよ、いい加減にせぬか」
なんか俺の肩にでっかい指のような物が乗っているが、おそらく昨日まるごと食べたボーンレースハムが乗っているに違いない。
……なぜ乗っているかはわからないが。
「とりあえず雑魚からやっつけるぞ! 俺があのオークをやる! みんなは魔王達への牽制を頼む!」
そうこうしている内に、何やら正面のコスプレ集団が不穏な動きをし始めた。
そしてそう思ったのも束の間、なんとコスプレ集団の勇者が、武器を構えてこっちに向かってくるではないか。
さらに神官達からは炎の玉や氷の刃が打ち出される。
だがこれの狙いは、恐竜の幻影や俺の後ろの何もないはずの場所であるようだ。
……うん、ていうか気づいてた。
彼らは勇者とその仲間達なんだって。
それで俺の後ろにいるのが魔王なんだって。
「――って、ちょ、待って! お願い、待って!」
目の前には既に勇者が迫っていた。
「待てと言われて、待つ奴があるか!」
いや、そこは待てよ!
そして俺は、振り下ろされる剣を前に目をつむる。
しかし、一秒二秒経ってもやってこない衝撃。
俺の耳には金属がぶつかるような音と、「くそっ! このっ!」という勇者の苛立った声が聞こえる。
これはおかしい。
そう思った俺は目をつむったまま、自分の身体に意識を向けた。
うん、体には何の異常も感じない。
これは何故かはわからないが、助かったのではないだろうか。
俺は恐る恐るといった風に目を開けようとする。
正直、今起こっている現実を知るのは怖い。だから目なんて開けたくない。
しかし、目を開けなければ何も始まらないのだ。
戦わなきゃ、現実と。
そして、俺は目を開けた。
その視界に広がるのは、防御するように交差させた俺の腕。
さらにその奥には半透明なバリアーのようなものと、それに剣を打ち付ける勇者の姿があった。
どうやら俺は助かったようだ。
さて、ここで考える。
果たして目の前の謎のバリアーはなんなのであろうか、と。
まずその一。
手を交差させてガードポーズを取っている俺が出している。
これは、どうだろうか?
俺としては何かを出している感覚はないし、常識的に考えてまずあり得ない。
しかし、今現在起こっていることが非常識なのだ。可能性がないとは言えないだろう。
つまり、俺は今のこの『少し腰を落として手を交差させているポーズ』を解くことができないということだ。
改めて今の自分を見るとものすごい恥ずかしいので、あまり考えないようにしよう。
その二。
バリアーは、他の何者かが俺を助けるために出してくれた。
はっきり言って、これの可能性が一番高い気がする。
さらに、助けてくれた人の最有力候補が俺の後ろにいるであろう魔王だ。
その三。
実はこれは演劇。
勇者は俺のことを殺そうとしてないし、あの剣だって偽物。
目の前のバリアーは実はガラスで、神官達が出した炎や氷はCG。
うん、だったらすごいよね。あの恐竜とかさ、リアルすぎるもん。
その四。
全て夢。
うん、ほんと、夢なら覚めてよ、お願いだから……。
――なんてことを考えていると、俺の太ももが震え始めた。
今の俺は、少し腰を下ろした格好である。しかも足幅は狭い。
俺がその状態で居続けることは、まさに地獄であったのだ。
「ぐっ……」
俺は、小さな呻き声と共にその場に崩れ落ちた。
まず臀部を地面につけると、上半身の重みに耐えられずそのまま仰向けに転がった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
息も絶え絶えになり、口は荒い呼吸を繰り返している。
俺の大腿筋は、長き腰だめの防御のポーズによって既に限界だったのである。
そして、呼吸を整えながらも俺は安堵した。
仰向けに倒れた状態で、ほんの少し首を持ち上げてみれば、いまだバリアーは健在。
勇者は怒号と共に剣をバリアーへとぶつけていた。
――と、そこへ声が響く。
「オークよ、無事か」
まるで地獄の底から湧き上がっているかのような声であるが、今の俺にとっては天使のささやきに等しい。
おそらく、オークというのは俺のことだろう。
加えて、オークといえばファンタジーにおける豚の顔をした人間のことである。
しかし、間違っても俺は豚じゃない、人間だ。
……人間だよな?
ふと心配になって顔を触る。大丈夫、人間だ。
とにもかくにも、声の主は俺を心配した。ということはすなわち俺の味方であり、おそらくはバリアーを張ってくれた張本人でもあるだろう。
これは、仲良くせねばなるまいて。
俺は両腕を使って、どっこいしょっと起き上がる。
最近ちょっと太ったせいか、起き上がるのも一苦労だ。
そして後ろを向いた。
そこにあるのは黒い壁、だがこれは罠である。
灯台もと暗しという奴だ。
俺は頭を上に持ち上げた。
そこにいたのはまさに巨人、まさに化け物。
その顔のなんと恐ろしいことか。
三つの目と裂けるような口、頭からは前と左右に角が生えている化け物の中の化け物。
まさに化け物の王――略して魔王であった。
「ど、どうも」
俺は魔王の――いや、魔王様の機嫌を損ね無いように、揉み手をしながらヘコヘコと頭を下げる。
「オークよ。
……お前、本当にオークか?」
ギクリとした。
高なる俺の心臓。刻むビートは薄氷の上でタップダンス踊っているようだ。
これはまずい。
魔王様は俺を疑っているのである。
たとえばここでもし、俺は人間ですと言ったとしよう。
相手は魔王なのだから、当然人間は敵。
すなわち俺も魔王さまの敵になるということだ。
まあ、その代わりに勇者達が仲間になるかもしれないが。
そこで俺は周りを見回す。
俺の目に映るのは、いまだバリアーを破れない勇者、さらには魔王の手下の恐竜に悪戦苦闘する勇者の仲間達。
そして、倒れ伏す戦士。
おいおい、戦士のおっさん死んでねえかあれ。
というわけで、見てわかる通り勇者達に勝ち目はないだろう。おそらく、彼らは勇者の偽物だったに違いない。
つまりここで俺がすべきことは――
「はい、私はオークにございます」
――オークに徹すること……っ!
絶対にバレてはいけない……っ!
バレれば、それすなわち『死』……っ!
「いやしかし、お前言葉を――」
「ブヒッ! ブヒヒヒ! ブヒッ?」
「……」
生きるためならば、俺はどんな恥辱にでもまみれてみせようじゃないか。