予想外な積極性
やっとのことで修論の中間報告書を作り上げ、研究室を出た時には既に外は真っ暗だった。僕の傍を吹き抜ける風も冷たい。
僕はトレンチコートを羽織り、ポケットに手を突っ込んだ。今日はバイトが無いから、このまま下宿先に帰ってシャワーを浴びたら眠るだけだ。それがひどく侘しい気がして、僕は感傷的に笑う。
「玖美花さん、何してるかな」
徹夜で疲れきっている体を引き摺りながら、1ヶ月程前に付き合い始めた彼女を思い出す。僕より4歳年上の、落ち着きのある大人の女性。彼女はやや童顔だからてっきり年下かと思っていたから、この年齢差を知った時には驚いた。道理で落ち着いてるわけだ、と妙に納得したことを覚えている。
彼女と僕の出会いは、2年前に遡る。当時、今のバイト先で働くようになった僕。それまでは家庭教師をやっていたけど、各週時間固定のバイトが面倒になって。それで始めたのがコンビニのバイトだ。
一応、僕は体力に自信がある。学生時代はバスケ部に入っていたし、徹夜をしても大丈夫な方だ。だからコンビニのバイトは適職だと思っていた。
確かに僕に向いているバイトといえばそうだったのかもしれない。接客は面白かったし、バイト仲間ともすぐに打ち解けることができた。ただ1つだけ、向いていないかもと感じる点がある。
それは、僕がよく物に躓くことだ。
体質なのか注意力散漫なのか、僕はよく物にぶつかる。それによく躓く。ぼんやりしていると言われればそれまでだが、息子を心配した両親が過去に、脳の検査に連れていってくれたけど、異常はなかった。…まぁ、予想はついていたけど。
バイト先でもこれは如何なく発揮され、商品の入ったボックスを蹴り倒してしまったり、躓いて危うく唐揚げに顔から突っ込みそうになったり。そのうちクビになるのでは、と思うくらいだ。それでも今まで続けているのは単に店長が寛大であることと、あとはこの場所が玖美花さんと出会った場所であるからだ。
2年前の夜のバイトの日、僕は商品棚の整頓をしていた。店内には客もおらず、一緒のシフトだった3つ下の大学生、高本君はコンビニの外の掃除をしている。手持ちぶさたになった僕は暇潰しも兼ねて商品をいじり始めた。
菓子パンを並べ直している時、僕の体のどこかがぶつかったんだろう。バサバサバサっと菓子パンの袋が棚から落ちてしまった。床に転がる3、4個の袋。
「あ〜…」
僕はしゃがんでその袋を拾おうとした。
その時、すっと横から細くて綺麗な手が伸びてきて、その袋を掴んだのだ。
驚いて顔を上げれば、そこにはスーツを着た女性がいた。化粧は薄いし、香水の匂いも仄かにするくらいで、全体的に清潔感のある人だ。大きな目と透き通るような白い肌。綺麗だな、と思わず見惚れてしまう。
「大丈夫ですか?」
唇から零れ落ちたのは柔らかな高めの声。羽毛のようなふんわりとしていて聞き心地が良い。
「…え、あ…はい」
ぼんやりとしていて間の抜けた返事しかできない僕に、彼女は気分を害した様子はなく、どこか安堵した表情を浮かべた。
「良かった。体調が悪いとか、ケガをしたわけでは無さそうね。…はい、これ」
と落ちた袋をすべて拾い、僕に手渡してくれる。客に商品を拾わせる店員ってどうなんだろうと一瞬、脳裏を掠めた。でも僕は微動だにすることができなかった。
え…
目の前にある緩やかな弧を描く唇と、優しい光を湛える焦げ茶色の双眸から目を離すことができない。
脳天に雷が落ちた、というのはこういうことをいうのだろうか。
体が痺れたように硬直する。
「気をつけてね」
軽やかに告げて彼女は立ち上がり、去っていった。
僕は腕の中の商品を抱き締める。全力疾走した時みたいに鼓動が速い。胸がぎゅうっと締め付けられた。
どうやら僕はしばらくその場でぼんやりしていたらしい。いつの間にか彼女は会計を済ませていて(実は彼女がコンビニに入ってきたのと同時に外の掃除をしていた高本君も一緒に入ってきたらしい。そしてその人が彼女の会計をした)、ふらふらと僕がレジに戻った時には呆れた表情を浮かべた高本君しかいなかった。
「後藤さん、パンが潰れてますよ」
言われて、自分が菓子パンの袋を抱き潰していたことを思い出す。もはや売り物にはできない状態だ。自分で買うしかないだろう。
「さっきの人、可愛い人でしたね。…後藤さん、彼女に一目惚れですか?」
高本君がニヤニヤとしている。
…一目惚れ?そうか、一目惚れ…か。
脳裏には彼女の笑顔が焼き付いて離れない。そういえば、
「ありがとう、って言ってないや…」
僕の口から出たのは的外れな言葉。回らない頭で、そういえばお礼を言うのを忘れたと思い出す。
その様子に、高本君は肩を竦めるとダメだなこれは、なんて呟いている。
彼女はまた、このコンビニに来るのかな。また会えるかな。
「会いたいな…」
とりあえずお礼を言わなきゃいけない。この前はありがとうございました、って。
それからしばらく僕は腑抜け状態だったから、彼女のことはバイト先や友達、姉貴まで知る所となり、散々からかわれることになった。そして、彼女と付き合い始めた今は、生温い視線を向けて見守ってくれている。
彼女は僕とのファーストコンタクトを覚えてなかった。そのとき僕が眼鏡をかけてたせいもあると思う。僕も情けない過去を丁寧に説明することはしたくないから曖昧にしたままだ。でも、僕にとっては大事な思い出の一つだ。きっとそれはこれからも変わらない。
下宿先のアパートの自分の部屋を見上げる。すると扉の前に人影が見えた。
じんわりと温かな何かが胸に広がっていく。
近づいていけば、
「晋介君!」
会いたくて仕方なかった彼女が僕に駆け寄ってきた。腕を広げれば、少し恥ずかしそうに彼女は僕の胸に飛び込んでくる。
「ただいま、玖美花さん。待っててくれたの?寒くなかった?」
「お帰りなさい。大丈夫、温かくしてきたから。…急にごめんね?研究が一段落したから帰るってメッセージ見たら、会いたくなって」
玖美花さんは顔を僕の胸に埋めたまま話す。たぶん、恥ずかしくて顔を上げられないんだろう。真っ赤な頬をしているに違いない。
僕は彼女の頬に手を添えて、上に向けさせる。すると泣きそうな表情の玖美花さんと目が合った。
「晋介君の意地悪。見ないで」
いやいやと小さく体を捩らせたが、やがて抵抗して無理だと悟ると玖美花さんは大人しくなった。ささやかな抵抗なのか下から恨めしげに睨んでいる。
「玖美花さん、僕も会いたかったです。こうして来てくれて嬉しい。好きです、玖美花さん」
僕はそっと彼女の額に口づけを落とした。
「っ!」
目を丸くして、息を飲んだ玖美花さん。こうやって驚いた表情も可愛いと思う。付き合う前は知らなかった玖美花さんの色んな表情を知る度に、胸がぎゅうっと締め付けられる。少しだけ苦しくて、でもそれさえ愛しくて。これからも玖美花さんを知る度に感じていくのだろう。
僕は玖美花さんをそっと腕の中に囲い込む。
「部屋に入りましょう」
「………うん」
微かに震える声で返事をした玖美花さんはまた僕の胸に顔を押し付ける。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫…うん。大丈夫だよ」
「肩、震えてます。寒い?」
その言葉に玖美花さんの体がぴくりと跳ねる。
よく見れば薄いストールを巻いた肩は寒そうだ。随分と待ってくれていたらしく、最初に抱き締めた時は体も冷たかった。
「何か、温かいもの入れますから。僕のせいで体が冷えちゃいましたね…ごめん」
そう言えば、彼女はふるふると首を横に振る。
「晋介君のせいじゃない。私が会いたくて勝手に来たんだもの。ごめんね」
「…とりあえず、中に入りましょう」
僕は玖美花さんを促し、部屋に入った。僕の部屋はワンルームマンションの一室だからそんなに広くはない。リビングに置いてあるのはベッドと食事用の椅子と机、雑誌や漫画、参考書が雑然と並ぶ本棚くらい。あとは人が1人やっと立てるくらいの小さな台所に、浴室とトイレがある。
私がやると言い張る玖美花さんを無理矢理椅子に座らせると、僕はヤカンでお湯を沸かし始めた。
「部屋、綺麗だね」
キョロキョロと彼女は部屋の中を見回している。その姿が辺りを窺う小動物のようで微笑ましい。
「まぁ、最近は寝るためだけに帰って来てますから。…インスタントのコーヒーしかないけど、良い?」
「ありがとう。お願いします」
「うん」
「…ねぇ、晋介君はご飯食べてきたの?」
「うん?」
インスタントのコーヒーを棚から取ろうとしていた僕は、彼女を振り返った。玖美花さんは大きなカバンから徐にタッパーを2個と魔法瓶を取り出す。
「あのね、食べてきたなら持ち帰るし良いんだけど、食べてなかったら…どうかなと思って」
「夕飯はまだだけど…中は見ていいですか?」
「うん」
玖美花さんがタッパーの蓋を開ける。
「きんぴらごぼうと、鶏の手羽先を酢で煮た後に醤油で煮込み直したのと、シーチキンと昆布の炊き込みご飯なんだ。あと、すまし汁も作ってきたの」
「美味そう…これ、僕に?」
見た目から美味しそうだし、良い匂いがする。明らかに手がこんでいて、且つ体に優しい料理を、わざわざ僕の為に作ってくれたんだと思ったら、目頭が熱くなった。どうしよう、嬉しすぎる。
こくりと頷く彼女。僕はお湯が沸いたことを知らせるヤカンの火を止め、コーヒーを入れた後、玖美花さんの向かいの椅子に座った。玖美花さんはふぅふぅ息を吹き掛けながらコーヒーを飲んでいる。僕は手を合わせた後、料理を食べ始めた。
「美味い。マジで美味いです」
やや薄味だが、美味しい。箸が止まらずただ食べ続ける僕を見て、玖美花さんは嬉しそうにふんわりと笑った。
「僕、幸せです」
ふとそう言うと玖美花さんが頬を染めて、また笑う。
「大袈裟ね。料理くらい、また作るよ」
「本当に?楽しみです。玖美花さん、料理上手ですから」
「ありがとう。また何か作るね。何が食べたい?」
「僕は…」
和やかな会話。それだけなのに、僕は心が癒されていくのを感じていた。
夕飯も食べ終わり、僕たちはゆったりと寛いでいた。ふと時間を見れば、かなり遅い時間になってしまっている。
このまま帰したくない。そう思いながらも僕は腰を上げた。
「玖美花さん、もう遅い時間だし、そろそろ家に送りますよ」
「あ、うん…」
戸惑うように玖美花さんが僕を見上げる。顔どころか首まで真っ赤。
「…大丈夫?」
調子が悪いのかと心配になった僕は彼女の頬に手を添える。すると、目を閉じて僕の手に自分の手を重ね、頬を押し付けてきた。
「玖美花、さん」
…心拍数が、高くなる。
一気に体温が上昇した気がして、僕は視線をさまよわせた。
「晋介君…いいの?」
「な…にが」
ごくりと喉が鳴る。
戸惑うように揺れる瞳を向けて、玖美花さんは握る手に力を込めた。
「晋介君は私のこと、抱きたくないの?」
心臓が止まった、と思った。
「は、はい?な…ん、で」
動揺のあまり喉からは空気が漏れたような声しか出てこない。
先程から玖美花さんの指が、肩が震えてる。そういうことを望んでるというより、恐怖しているという方がしっくりくる様子だ。全く意味が分からない。
僕の困惑を受け取った彼女は痛みを孕んだ色をその目に乗せた。
「…私、年上だし、晋介君を引き留めるだけのものはないもの…だから」
消え入りそうな声で囁いた後、玖美花さんは俯いてしまう。
「なんで、そんな」
「あのね…」
話を聞けば、過去に恋人に関係を迫られて拒絶したらフラれたことがあるらしい。それ以来トラウマになっているという。
僕はその男に怒りを覚えつつ、嫉妬した。どんな理由であれ玖美花さんの心に留まり続けているなんて、と思う。
でも、そんな男と同列にされるのはもっと嫌だ。
「気持ちは嬉しいです。でも僕は貴女の心が追い付くまで待てるから」
「晋介君…」
「今は大丈夫。いつかきっと」
後に言葉は続かない。けれど、玖美花さんは分かってくれたようで、くしゃりと顔を歪め笑ってくれた。
静かに涙を落とす彼女を抱き寄せると、僕は目を閉じた。
晋介君は無自覚に砂糖を吐きます。甘いです。玖美花さんは思い込んだら一直線。時々暴走してショートします。