年上女の憂鬱
タイトルと中身がマッチしてるか些か謎です。前話の2ヶ月後の二人です。
後藤晋介君は私がよく寄るコンビニの店員さんだ。切れ長の涼しげな目が印象的な長身のイケメン君。地元の国立大学の大学院2年生で、工学系の研究室に所属しているらしい。爽やか青年だからさぞかし白衣が似合うことだろう、とホクホクしていたら、普段は作業着なんでと言われひどくがっかりしたのは記憶に新しい。
私と彼の年齢差は4歳。私のが年上。接点はほとんどなくて、少し前までただの顔見知りだった。
それが変化したのは2ヶ月前のある夜。残業で終業の遅くなった私は夜道を歩いていた。そこに現れたのが彼。親切にも私が落とした定期入れを拾ってくれたのに、私は彼を痴漢と勘違いして。散々鞄で殴った後にようやく彼を認識した。そして、なんやかんやあり彼に告白され、とりあえずお友達からというお子様な関係に収まったのだ。
最初はイケメンで年下の晋介君のことを万能人間だと妄想していた。でも中身はただの普通の男の子。段差に躓いて転びそうになったり、電車の中で爆睡し乗り過ごしそうになったりと、どんくさい所もある。見知らぬおばあさんに道を尋ねられ、親切にもその場所まで連れていき、その後自分が道に迷ってさまよったこともあるらしい。お人好しで親切なのは良いけど、方向音痴すぎでしょ。
と、無意識に彼をアイドルのように見ていた私としては拍子抜けだったけど、ホッとしてしまったのは内緒だ。
今日は仕事帰りに晋介君と食事に行く約束になっていた。
秋の足音がまだ遠い8月、チョコレート菓子会社は仕事が閑散期に入る。チョコレート関連の菓子は夏に受注が少ない。うちの会社はメインがチョコレート。そのために夏場は定時で上がることができる。私の職場から彼の働くコンビニまでは1時間程度だから、18時過ぎに私はコンビニに辿り着くことができた。
ガラス越しにレジで客の会計をしている晋介君が見えたが、私は素知らぬ顔をして中に入り、スイーツコーナーを物色することにした。外の暑さとうってかわって中は冷房が利いていて寒い。
「今日、ワンピースに合わせて薄手のカーディガンにしたのは失敗だったかな…」
私はパステルグリーンのカーディガンを羽織り直す。クリーム色のワンピースは裾に向かって若草色のグラデーションがある。無地でシンプルではあるが、パーティードレスとしても使える服で上品な仕上がりとなっている。実はこのワンピースを着るのは今日が初めてだ。
晋介君が年下であるのを気にして背伸びをするのと同様に、年上である私は彼におばさんだと思われないよう努力している。
綺麗なお姉さんでいたい、という思いはいつもどこかにあって、彼に会う時は絶対にジャージとクロックスだとかジーパンとよれよれのTシャツなんてことはない。カッコつけてる、気張りすぎと言われたら否定できないが、案外今の状態を楽しんでいる自分もいて、それはそれで良いかと思う。
「そんなこと考えてる時点で既に末期よね」
ふと漏れた独り言に口許が弛む。年下なんて、興味ない。そう思っていたはずなのに、その言葉を撤回せざるを得ない。
ふと晋介君の方を見ると、大学生くらいの女の子が頬を染めて晋介君に何かを話しかけていた。彼はすごく優しい顔で微笑んでいる。見方次第では仲の良いカップルにも見えた。
自分の周りから、音が消える。
女の子は尚も何かを話している。その姿は健気で、微笑ましいものだ。何を言われたのか、彼は顔を真っ赤にしている。満更でもなさそうな様子に私は溜め息を吐いた。
…私、バカみたいだわ。
晋介君と彼女には年齢差は感じられないし、外見もなかなかお似合いだ。お互いに背伸びをしなくても良いし、対等でいられるんじゃないかな。私と違って。さっきまで浮かれていた自分が惨めになった。
「良いじゃないの、別に」
そもそも私たちは友達であり恋人ではない。晋介君が誰と仲良くても、誰と付き合っても私に関係ないもの。
大丈夫、と口の中で唱えてみる。大丈夫だ、大したことない。
胸に渦巻くもやもやには気づかないフリをして。自分の気持ちにも蓋をした。
大人になるって、ズルくなることなのかもしれない。見えてるのに見えないような顔をして、傷ついているのに平気な顔で笑って。自分を誤魔化すことが上手になっていく。
それが大人になるってことなら、私はどんどん嘘つきになるってことなんだろう。
ダメだ、今日は私、晋介君に会えない。このままじゃ平静でいられない。
「帰っちゃおうかな…」
レジを見れば、彼はレジの奥へと姿を消す所だった。たぶん、シフトが終わったのだろう。従業員室で着替えるには少し時間がかかるはずだ。
『ごめん、急用ができた。今日はキャンセルで』
私は彼にメッセージを送り、出口へ急ぐ。中年のおばさんの「ありがとうございました」という声が後ろから追いかけてきたが、無視をしてコンビニを出た。
外は熱を含む空気が充満していて、露出した肌にまとわりつく。べたべたと貼りつくような不快感に眉をしかめながら、私は歩みを速くする。
今頃、彼はメッセージに気がついただろうか。そしてどう思ったのだろう。平気でドタキャンするような失礼な女だと失望したのか、それとも予定が無くなったなと感じただけか。私には想像しかできないけれど、どちらにしろ良い印象ではないと思う。
「これで終わり、かなぁ…」
何が大人の余裕だ。余裕なんかありもしない。特別に可愛いわけでもないのに、身の程知らずにも彼を好きになってしまった。
そう、恋しちゃったんだ。
笑えない。なんて道化なんだろう。4つも年下の子に、陥落して。バカみたいに一喜一憂して。
「本当にバカみたいよね」
自嘲的に笑うと、目頭がじんと熱くなる。
夏だから日の入りには少しだけ時間があって外は明るい。夕焼けに染まる空は朱色の絵の具を溶かし込んだみたいに鮮やかだ。
「玖美花さん!」
一番聞きたくて、一番聞きたくなかった声が私を呼んだ。
何で、どうして、なんて考える時間もなく、呼ばれた次の瞬間に私の体は逞しい筋肉質の腕に抱き締められる。
「どうして来てくれたのに帰っちゃうんですか…っ!」
「…っ!離して!!」
逃げようと体を捩れば、彼の腕は更に強く私に絡み付いてくる。
なんで…?なんで、こんなことするのよ?
頭の中で言葉が意味を成さずグルグル回っている。
「私なんか、放っておいてってばっ!」
「嫌だ!」
思わず叫ぶと、彼がそれを拒絶した。駄々っ子のような声色に少しだけ悲痛な色が混じっている。そんなことが分かるくらい彼の近くにいたんだと思ったら、また胸が痛んだ。
「放っておけるわけないでしょう…僕は貴女が好きで好きで仕方ないんですよ。今だって、これきりで会わないって言われたらどうしよう、僕は何をしたんだろうって考えてるのに」
肩に彼の額が乗せられた。こんな真夏に抱きつかれていたら暑くて仕方ない。でも火傷しそうなくらいの熱を身体中に感じて、じんわりと喜びが広がっていく。
「ねぇ、玖美花さん。僕のこと、どうしても好きになれませんか?僕じゃ、貴女に相応しくないですか?」
くぐもった声が震えている。今だって強く抱き締められているのに、抱擁がもっときつくなって骨が軋んだ。
「晋、介く…」
痛いよ、離して。
それは言葉にならない。なる前に彼に遮られてしまう。
「僕は、どうしたら良いですか?どうしたら好きになってくれますか?お願いです…教えてください」
「そ、そんなこと」
教えられるわけない。もう私は彼に落ちてる。名前も知らない女の子に嫉妬して自信を無くすくらい、好きになってる。
不意に彼の腕が緩み、私は檻のような拘束から解放された。驚いて振り返れば、そこには俯いた彼がいる。前髪が目を隠してしまって表情が見えない。
「晋介、君」
「すみません…感情的になりすぎました。こんな子供っぽいから、玖美花さんは振り向いてくれないんですよね。
分かってたんです、初めから。玖美花さんみたいに大人な女性が僕なんかを相手にするわけないって。でも、会う度にどんどん好きになって。一緒にいられるのが嬉しくて、舞い上がってた。玖美花さんが僕に合わせてくれてるって忘れて、ただ幸せで。
今日のデートもすごく楽しみで、ここ数日は友達にからかわれるくらいソワソワしてました。さっきだって、姉貴が」
「ま、待って!姉貴…?」
さっきの女の子って、もしかして。
彼は顔を上げてこちらを見た。唇を噛み締めて、今にも泣き出しそうな表情をしている。切れ長の目は細波が立ったようにゆらゆらと揺れた。
「僕には1つ上に姉貴がいます。今さっき、僕が実家に忘れた物を渡すためにコンビニに来て、レジにいた僕をからかうだけからかって帰っていきました」
「う、そ」
「え?」
嘘…でしょ。あれ、晋介君のお姉さん…?
私、彼のお姉さんに嫉妬したってこと?
なんだか頭がくらくらする。恥ずかしさで体が沸騰しそう。
仲睦まじく見えたのは当然だ。だって姉弟なんだから。自分の勘違いに目の前が真っ暗になった気がした。
「そんな。さっきのがお姉さん…?私、てっきり…晋介君のことを好きな子なんだと…。それに二人がすごくお似合いで」
そう言うと、彼はひどく嫌そうな顔をした。
「姉貴とお似合い……絶対嫌だ…。有り得ないです…笑えないこと言わないでください」
「ご、ごめんなさい…」
「まさか、玖美花さん…僕と姉貴の仲を疑って、それで逃げたんですか?」
呆然と呟く彼。何も言えずに私はコクリと頷いた。
恥ずかしすぎて、居たたまれない…。
穴があったら入りたいっていう人の気持ちが、初めて分かった気がした。私も穴があったら入りたい。むしろ埋まって視界から消えたい。
長い長い沈黙の後、彼は深く息を吐いた。
「玖美花さん、他の女性と僕が仲が良くて嫉妬してくれるくらいには、僕のことを好きだって自惚れて良いですか?」
彼の目はまっすぐに私を捉えた。その目に先ほどは見られなかった熱が籠っている。蕩けそうなくらい、熱い眼差し。
私はただその視線を受け止めた。何か言わなきゃと思うのに、言葉が文になる前に意識から零れ落ちていく。
「ねぇ、お願いだから僕のことを好きになって」
甘えるように、囁かれて。耳に流れ込んで脳が、体が緩く痺れていく。
蓋をした彼への想いが静かに溢れだしていく。
「好きだよ。私、晋介君のこと、好きなの」
吐息のように微かな告白。伝えただけで、胸が震えた。
「玖美花さん…」
そっと包み込むような抱擁に、私は身を委ねた。ここが人通りのある道路の脇で、通りすがりの人の好奇の目を感じたが、もうどうでもよくなっていた。
たぶん、バカップルが痴話喧嘩して仲直りしたのかな、って思われてるんだろうな。
明日からこの道を歩けないかもしれないな。ぼんやりと考えて、それでもいいかと私は彼の胸に額を押し付ける。この温もりがあれば、なんでもいい。
「好きです。玖美花さん、好きだ…」
彼の想いがあれば、なんでもいい。
彼がいれば、それでいい。
胸がいっぱいでお腹は空いてなかったけれど、私たちは予約していたお店に向かうことにした。さっきのやりとりを思い出すとなんだか気恥ずかしくて、お互いに言葉数は少なかったけれど、指を絡めて繋いだ手から伝わる熱を感じるだけで十分だ。
初恋のように辿々しくて、不器用な恋。純粋な愛情に私はゆっくりと蕩けていく。きっとこれからもそれは変わらないんだろう。
だから。
「私も、」
晋介君を優しく包んで、甘やかしてあげたい。少しだけ子供っぽい彼が、幸せだと笑っていられるように。
だから、よろしくね。
絡めた指に力を込めれば、彼はぎゅっと手を握り返してくれる。
その幸せがずっと続きますように。見上げた先に見えた星空にそっと願いを込めて、私は彼の腕に勢いよく抱きついた。