ジンクスなんかこわくない
欅の影は高校の敷地を優にはみ出して、道路を挟んだ向かい側の民家の庭先まで伸びていた。もうまもなく日没だろう。
真壁怜はその欅の下で人を待っていた。運動部の部員も帰り支度を始める時間らしく、さっきまで校庭を駆け回っていた陸上部員や野球部員の姿はいつのまにか消えていた。
何度ハンカチで拭っても掌がじっとりと汗ばんでくるのは、残暑に合わない冬服の暑さのせいばかりとはいえない。放課後、人気の無くなる校庭の片隅に男子からの呼び出しを受けた――となれば、用件は相場が決まっている。
そのとき、砂を蹴ってこちらへ近づいてくる足音に気付き怜は目を凝らした。すでに暗くなりかけていたので顔ははっきりと見えないが、その長身な体躯は見間違えようがない。
「……わりィわりィ、遅くなって」
二、三歩程度の距離まで近づいてくると、なんとか相手の顔が判った。やはり呼び出し人の藤代直樹だ。
「いいよ。……それで、話ってなに?」
バスケ部の練習を終えて着替えもそこそこに体育館から走ってきたらしい直樹の息が整うのを待って怜は尋ねた。
「……えーと」
直樹は右手で耳たぶを下に引っ張っている。授業中に指されて答えに詰まったときなどにいつも目にするから、直樹の癖なのだろう。
「付き合わない?」
思ったとおりだ。
「……ごめん、嬉しいけど……」
怜は下を向いて呟くように答えた。
「そっか……」
いつもは底抜けに明るいはずの直樹の声は少し残念そうにも聞こえたが、「悪かったな、わざわざ待たせちまって」と答えたときにはいつもの調子に戻っていた。
「じゃあな」
直樹が踵を返して歩き始めたその瞬間、二人の間を隔てるように横風が吹き抜けた。
翌朝、怜は落ち着かないまま朝休みを過ごした。もともと直樹は朝練を終えて始業直前に教室へ駆け込んで来るのだが、今日に限ってチャイムが鳴っても姿を見せない。
やがて担任がやってきてホームルームが始まったが、信じられないことを口にした。
「昨日、藤代が下校中に交通事故に遭った」
怜は頭の中が真っ白になった。
怜が直樹のことを意識し始めたのは、ほんの小さな出来事がきっかけだった。
六月に入って間もない昼休みのことである。怜はいつものように友人の席へ弁当包みと飲み物を持って歩いていたのだが、歩きしなに机の上に乗っていたペットボトルを倒してしまった。はっとして足を止めたときにはもう遅く、蓋が開けられたばかりのコーラがその席の持ち主――直樹の制服と弁当を台無しにしていたのである。
怜は顔から血の気が引くのを感じた。何しろ相手は頭一つ分以上背が高く、怜は日頃からすれ違うだけで漠然とした威圧感を抱いていたほどなのだ。
「ごめん!」
うろたえながらティッシュを出そうとポケットに手を入れてみたが、今日に限って持ってくるのを忘れたことに気が付いた。
「ん? ああ、気にすんなよ」
直樹は自分のタオルで制服を軽く押さえると、「俺購買行くけど、お前何か要るもんある?」と友人に尋ねて何事もなかったかのように教室を出て行った。
その日の放課後、怜は廊下に出た直樹を呼び止めた。
「ごめんね、昼休み。パンのお金払うよ」
「別にいいって。それより、サンキュな」
「?」
小言をぶつけられるならともかく、礼を言われるようなことをした記憶はない。
「俺ピーマン食えねーんだけど、親が好き嫌い絶対許さないっつって毎日毎日弁当にピーマン入れやがんの。けど今日はあのおかげで、食わなくても言い訳できるだろ? 俺にとってはラッキーだったってこと。じゃな」
後に残された怜は、不思議な気分になった。弁当だけではなく制服までコーラまみれにしてしまったのだから、そのことを非難されてもおかしくない。それなのに、良い面にだけ目を向けて前向きに受け止めてしまうその考え方が怜には新鮮だった。
だから怜が昨日「嬉しい」と言ったのは、おざなりの社交辞令というわけではない。
ただ、そのあとに「けど……」と続けたのにも理由があった。
これほど放課後までの時間が長く感じられたことはない。怜は帰りのホームルームが終わった直後に担任を呼び止めて直樹が入院した病院と病室を聞きだすと、まっすぐ病院へ自転車を走らせた。
交差点を渡るたびに曲がって横断歩道に入ってきた車とぶつかりそうになってクラクションを鳴らされたりもしたが、そんなことを気にする余裕はなかった。
十五分ほどして病院に着いたところで初めて怜は手ぶらで見舞いに来るべきではなかったと思ったが、どちらにせよ直樹の好きな花や食べ物はよくわからない。とにかく病室を目指すことにした。
病院自体は地元でも有名だったので名前は知っていたが、実際に来るのは初めてである。棟数は外からざっと見た感じでも怜の高校以上ありそうだったので受付で病室の場所を訊いてみたが、「個人情報のためお答えできません」と、にべもない返事がかえってきた。
仕方なく案内板を頼りに探すことにしたが、そもそも怜はあまり方向感覚に優れている方ではない。行きつ戻りつしながらなんとか「藤代 直樹」と札のかかった病室の前に着いたときには、二十分以上経っていた。
ノックをして中に入ると、直樹はドアを入ってすぐ右手のベッドにいた。上半身を起こして雑誌らしきものをひざの上に広げていたが、怜に気付くと「よぉ」と笑顔を見せた。左腕を吊っている三角巾が痛々しかったが、割合に元気なようである。
「怪我、大丈夫?」
「ああ、明後日あたりには退院できるらしいから。しばらく通院はしなきゃなんねーらしいけど」
「ごめんね、私のせいで……」
直樹はしばらく不思議そうな顔をしていたが、「ああ、昨日のことか? ……ショックっちゃショックだったけど、別にお前のせいじゃないって。気にすんなよ」と答えた。
「そうじゃなくって……」
怜は息をつくと、思い切ったように口を開いた。
「私、死神だから」
最初は祖父だった。怜が生まれる少し前から肝臓を患って入院したのだが、母が孫の顔を見せにと生まれたばかりの怜を抱いて見舞いに来たその翌日、急に容態が悪化して帰らぬ人となってしまった。
その次は幼稚園で仲良くなった女の子。怜の家に遊びに来た帰り道、誘拐事件に巻き込まれて死体が見つかった。半年後に犯人は逮捕されたが、それまでにやはり同じクラスの子が二人犠牲になった。
奇妙な出来事は年を重ねるごとに増えていき、プール開き、運動会や体育祭、夏休み、校舎の改築工事などのときはもとより、普段でも交通事故が起きたりして怜の周りでは次々と人が死んでいった。
そうして、怜が五十回目の葬儀に参列した頃からだろうか。怜は「死神」だという噂が流れ始め、学校でも避けられるようになった。
いたたまれなくなった怜は同じ中学からは受験者のいなかったこの高校へ入学し、忌まわしい噂に煩わされることもなくなった。そんなとき、今回の事故が起こったのである。
「んー……」
怜が顔を上げると、直樹は耳から手を離した。話を聞いている間ずっと引っ張っていたのか、右の耳たぶだけが真っ赤になっている。
「まぁ、中学生までに周りで五十人以上死人が出るってのは確かに多すぎだな」
「やっぱり?」
昨日の直樹の告白は嬉しかった。しかし、自分に近づいたために直樹の身に万が一のことが起きたら……。そう考えると、受け入れるに受け入れられなかったのである。
やはり直樹は離れていくのだろうか。決意したこととはいえ、胸が痛んだ。
「でもさ」
直樹はまた耳に手をやった。
「俺は死んでねーもん。事故ったのとお前と関係あるとは思えねーよ」
直樹の顔がぼやけて見えた。
「あーもう、泣くなって」
直樹はティッシュを箱ごと差し出した。
「怪我治ったら、一緒にどっか行こうぜ。な?」
怜は何度も何度も頷いた。
日は暮れかけていたが、空には星が瞬き始めていた。