8.チューリング・テスト
温水シャワーが出ると騒いで喜んでいた左香を浴室に押し込んで、きみはベランダのあるマンションの一部屋に座り込む。
5Fまで登ると部屋からの眺めは悪くない。さすがにこの見晴らしが索敵の役に立つとは思えないが、それでも密室ではないのだという安心感がきみにわずかな居心地の良さを与えてくれた。見つからなければ、最後までずっとここに隠れ続けていてもいいぐらいだ。
道具袋は手首にきつく巻きつけておいた。これで転んだ程度で落とすことはないだろう。
「さて、やることをやっちゃうかな」
シャワーの水音を聞き流しながら、きみは道具袋からいくつかの道具を取り出す。最初に出したのは【カッターナイフ】。見た目は完全に百均ショップで売っているそれだ。
「回数無制限で何度でも使える代わりに、生き残りたいという意思が威力に反映される、か」
きみはカチカチカチと刃を出して、それから念じつつ、壁を切りつける。
「欠けた!」
カッターナイフの刃の一枚が音を立てて弾けた。続いて床に突き立てるも、その威力ではフローリングをわずかにひっかく程度が精一杯だった。
「これって……完全に文房具の威力だ……」
頑張れば、すごく頑張れば人ひとりぐらいなら殺傷できるかもしれない。だがそれがなにになるだろう。せいぜい男子中学生の兇行がテレビニュースを賑わせるぐらいだ。
きみは自分の『生きる意思』とやらに失望を覚えつつ、次なるアーティファクトの実験に移る。
「【暗黒棒スラップスティック】……ホントひどいネーミングセンスだ、姦神さん……」
脱力しつつ取り出すと、その見た目はまともな日本刀だった。軽いし、力のないきみでも簡単に振り回すことができるようになっていた。だがやはり、壁や床には傷もつけられない。
きみは恐る恐る、切っ先を自分の指先に押し当ててみた。ただ冷たい感触が跳ね返ってくるだけで、模造刀というよりはただの尖ったプラスチックだ。
「……これは本当に、条件を整えないと効力を発揮しないタイプの武器なのか」
その他には、ロクな装備がない。
やはり肝心なのは武器だった。最終的に相手を殺さなければ勝利が手に入らないこのルール上、武装は絶対条件だ。
きみは思わず頭を抱えた。弱音が漏れそうになる。
「どうすりゃいいってんだよ……」
決して左香の前では見せないきみの素顔が、そこにはあった。
残る参加者が何人かは知らないが、きみが使える魔神基は残り七種。なにもかもが攻撃の要には成り得ないものばかりだ。殴れば機械が言うことを効く手袋だとか、キスした時間だけ効果の伸びるバリアーだとか、まるで姦神の悪ふざけの展示場のようだ。
相手の数は決まっていて、きみの使えるアーティファクトの数も決まっている。きみはリソースを消費して戦わなければならない。どうしても道具は有効利用しなければならない。常に最小の消費で最大の成果を求められる。最低レベルの虎ごときに魔槍を使ってしまったというのは、考えられる限り最悪の空費だった。
それなのに。
シャワーの音が止まって、洗面所から左香の声がする。
「どうしましょう、きーちゃん……バスタオルがないです……あ、あと下着も……」
消え入りそうな左香の声に、現実を直視したばかりのきみが思わず苛立ってしまったのも、無理のない話ではないだろうか。
「それぐらい別に、濡れたままでもいいでしょ……」
マンションに誘ったのは自分だというのに、それも勝手な言い草だ、ときみ自身思う。
「そ、そうですね……ごめんなさい、おねーちゃん下らないこと聞いちゃって……」
声に潜んだ一ミリの棘すらも鋭敏に感じ取った左香は、そそくさと着替えを始めたようだ。衣擦れの音がする。
はぁ、ときみが言葉にもならない歯がゆさをため息に乗せて発散させようとしていたその時だった。
――新たな参加者が鉄火を呼び、現れたのは。
水しぶきが上がるように光輝が舞ったのは、窓ガラスが突き破られたからだった。さざ波のようなガラス片とともに、丸まった影が部屋に飛び込んできた。
「え」
欠片に紛れて、紅く光るふたつの光点があった。それは両眼であり、きみたちの命を奪わんとする意思を宿していた。銃弾で強化ガラスをたやすくぶち抜いた相手は、やすやすとビル内に侵入を果たしてきた。
「ここは5階なのに!」
きみは叫ぶ。すぐさま身を翻した。転がるようにして、駆ける。
背後でマズルフラッシュが輝き、続いて弾丸が壁をえぐる。急き立てられるようにして逃げ延びた先は、玄関だった。
飛び交う弾の隙間から振り返るが、硝煙と銃声によって状況は何もわからなかった。
心臓の鼓動が耳の奥を激しく叩く。身の毛がよだつ。
「これじゃ、さーちゃんが」
洗面所にいたはずの左香には、逃げ場がない。敵が左香に気づいた場合、彼女が撃ち殺されるのは今この瞬間なのかもしれない。
しかし、忘れただろうか。きみと左香はつい先ほど誓いを交わしたばかりなのだ。自分の身の安全が確保できてから初めて、相手を助け出すのだと。
きみが相手になにか対抗できるだけの手段を持っているというのだろうか。それならば出て行ってみすみす蜂の巣にされるよりは、ひとりでも逃げ延びたほうが左香も喜ぶのではないか。
きみは目を瞑る。迷っていられるだけの時間は、一秒だってない。
道具袋はここにある。一体なにを持っていくべきか。もう槍がないのだから、相手をどうこうできるアイテムはもう……
きみはまぶたの裏で、かすかに見た相手の正体を思い出す。
「そうだ、あれは確か……やってできないことは、ない、のか……!?」
間違ったら、いや、よしんば全てが上手くいったとしても、ひとつの命を落としかねない勝負をきみは閃いた。リスクに見合ったリターンも得られる。だがそれよりもなによりも、きみは左香を助けることができるその可能性を見出したのだ。
助けに行くのに、勇気は必要なかった。見捨てることに比べたら。
きみは道具袋の中からひとつのアーティファクトを掴んで、躍り出た。
リビングでは、肌に張りついた制服をまとった濡れ髪の左香に、ひとりの小柄な人間が銃を突きつけていた。
「……きーちゃん……どうして、出てきて……」
ぎこちなくこちらを見る左香。息も絶え絶えだ。
対面してみると、相手の正体がより鮮明に確認できた。美しい銀髪を持つ細身の少女だ。年は自分たちとそう変わらないだろう。少女の手には、口径の大きな黒鉄の拳銃が握られている。その特徴が一致するのは、参加者の中ではひとりしかいない。
彼女こそが参加者第七位――30万ヒューマンパワーを持つアンドロイドだ。
「さーちゃんに指一本触れてみろ。ネジの一本まで解体してやるからな」
目視、確認、識別、分析、照準までを0・1秒に満たない時間で済ませたアンドロイドは、冷たい瞳できみを刺す。それから、硬質的な声を発した。
「これで全員か。なら、もう用はないね」
その言葉から、きみは左香が囮にされていたことに気づく。
アンドロイドはきみから視線を外さぬまま、銃口を左香の額に押しつけた。「ひっ」と左香が悲鳴をあげたそのとき、きみは拳を握って走り出した。
「だからそうはさせないって!」
攻撃行動を取ったきみに対して、アンドロイドの対応は極めて迅速で、的確だった。まるでリズムを刻むように、ドン、ドンドンと立て続けに三射だ。
頭、胸、下腹を撃たれたきみは、凄まじい衝撃に押されて、真後ろに倒れた。
「きーちゃん!」
きみは血を吐き出しながら、「痛いなあ……」とつぶやいた。さすがにノーダメージとは行かないようだ。命の線が途切れ、そして魂は再接続される。
なにも問題はない――
アンドロイドはビニールの人形を見つめていた。その内部では、脳を司る回路が高熱を出していた。確かにこれは数万分の一秒前まで人間であったはずだ。アンドロイドはそう考えていた。さらに二射して反応を伺う。
穴だらけになってしぼんでゆくそれを見て、アンドロイドは不可解な思いを抱く。一体どういうことか、わからなかった。当然だ。先例がない。
数秒が経ち、戦線で棒立ちをしていたアンドロイドは、理解を諦める。
だから彼女が下したのは、もっとも原始的な処置――そのビニール袋を粉々に粉砕することだった。罠だろうが誘いだろうが、滅却させてしまえば問題はない。
双肩のパーツが上に開くと、人間では間接が収まっているべき場所に、スピーカーのような二つの穴が空いていた。それらが真っ青な輝きを放つ。13次元の空間から膨大なエネルギーを引き出す際に、エネルギーに変換しきれなかった残滓が光となって発散されているのだ。
光が収束していく。その行いを遮るかのように、ひとりの人間が飛び出してきた。
きみだ。
きみは黒い手袋をはめた手で、人間と変わらないアンドロイドのその顔の頬を殴りつける。
顔を打たれ、その勢いで身体ごと肩がひねられたことによって、少女の武装があらぬ方向を向いた。そして直後、真っ青な光が放たれる。
次の瞬間、光線に照らされたビルの上部が、熱と光と化す。五階より上の十数階が、まるで白い絵の具で塗り潰されたように根こそぎ消滅してゆく。
やがて光の放射が収まると、アンドロイドの肩から大量の蒸気が噴出された。左香は座って固まったまま、空を見上げた。真っ青な綺麗な青空が、眼前に広がっていた。
一方で、きみは荒い息をついていた。
「どうかな……!」
「きーちゃん、なにしたの……?」
アンドロイドは殴られた勢いで床に倒れたまま、微動だにしなくなった。
「……勘違いしないでよ、さーちゃん。きみを助けるために助けたんじゃなくて、勝算があったから飛び出してきたんだよ。最後のスペア命と、アイテムをひとつ消費する見返りがあると思ったんだ」
濡れた身体を抱きしめながら、座り込んでいた左香はくしゃみをひとつして、鼻水をすすりながらもこわばった笑みを見せた。
「……ありがとうございます、ね……きーちゃん」
「だから、別にお礼を言われる筋合いは……それにまだ助かったとは限らないんだから」
「えっ……」
きみが右手につけていたのは、【叩けば直るぞ手袋】であった。この道具は、『殴りつけることにより、あらゆる機械をその人の指揮下に置くことができる』効果があった。アンドロイドが機械かは、そのものの設定に寄るところが大きいだろう。ふたりの前に倒れている少女の外見を持つ参加者がどうなのか、いまだきみは知らずにいる。
「……でも、だからって殴っただけで動かなくなるなんて、それじゃあ打たれ弱すぎるだろうから……だから、ねえ、機械なんだよね、姦神さん……」
一度使用したアーティファクトの手袋が、光となって溶けてゆく。待つこと数秒。きみには何時間にも感じられたであろう時が過ぎる。
びくりと震え、アンドロイドはゆっくりと身体を起こす。
鏡のように澄んだ紅色の瞳に、きみの呆けた顔を映す。まばたきふたつ。長いまつげを上下に動かし、彼女は辺りを見回した。それから思い出したように、殴られた頬を手で押さえる。
「うー、いてて」
スペア命は、もう、ない。
緊張の一瞬だ。
アンドロイドは後頭部を抑えながら、ぼんやりとつぶやく。
「あーなんだろ、このカンジ……寝ぼけているみたい……あ、おっはよ、てか、あれー、燐、どうしてここにいるんだろー?」
彼女の人間じみた脳天気な声色に、きみの中の張り詰めていたものが一気に解けた。叫び声をあげるには手頃な空が広がっていたが、きみはその場にへたり込むことを選んでいた。