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7.囚人のジレンマ

 

 きみと左香の不動産屋との粘り強い交渉の結果、手にすることができたのは、水鏡小学校の近く、木造のオンボロアパートだった。

 きょうからきみと左香は、たった六歳のふたりで生きてゆくのだ。姦神はきみたちを保護してくれたが、保育する気はないようだった。


 お腹が減ったと嘆くきみに、左香は給食のパンを差し出してきて、こう言う。


『きーちゃんは、ずっと、おねーちゃんが守りますから』


 左香は何度もそう言った。泣くきみの頭を撫で、あるいは不便を悲しむきみの前で、底抜けの明るさを抱いて笑う。

 両親の知り合いの元に拾われたきみと違い、左香は――姦神に確保されるまでの間――数カ月、“施設”に閉じ込められていたのだときみはしばらく後になって知ることになる。


 以前の姉の口調を思い出せなくなるほどに、彼女は改造されていた。誰に対しても敬語を使う癖は、もはや心根の奥に刻み込まれたのか、治る兆しすら見えていなかった。

 それでも左香がきみの前で泣き言を吐いたことなんて、なかった。


『きーちゃんは、なんにも心配なんてしなくていいんですよ』


 実際、その通りにはならなかったが、それでもきみは“ひとりではないこと”にこれから多く感謝をすることとなる。

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 虎を退治した後、きみたちはどこへ行くともなくその場を離れるために歩いていた。槍での騒ぎに上空を飛び回る怪物の注意を引いてしまったのではないかと思ってのことだ。

 ただ、きみは固く握り締められた右手を、妙に重く感じてしまっていた。

 離してくれとはとても言えないが、肩越しに振り返る。泣き疲れた左香が目を腫らして、もがくように左右の足を動かしているのだ。


「ねえ、さーちゃん……そろそろ、落ち着いてきた?」

「……あ、は、はい……じゃまですか……?」

「いや、そういうんじゃないんだけど」


 きみは「大丈夫かなと思って」と尋ねようとしてやめた。左香のことだ。大丈夫と答えるに決まっている。

 左香はこの状況に、まだうまく適応できていなかった。だから相当ナーバスになってしまっている。きみの仮死。虎殺し。そして唯一無二のアーティファクト・レジェンダリを使用してしまったことに対する自らへの呵責。それらが全てないまぜとなって、左香を苦しめているのだろう。

 きみはどうすればいいかと思索し、それでも今のこの状況に向き合うしかないだろうと思い当たる。


「さーちゃん、約束しよう」

「……やくそく?」

「ああ。生き残るための、約束だ」


 きみは低い声でつぶやく。


「もしきみになにがあっても、ぼくになにがあっても、お互いにまずは自分が生き残ることを優先しよう」

「えっ……」

「できれば、同意してくれると助かるんだけど、だめかな」

「……でも……」


 無理矢理にでも言い聞かせる。


「たぶん、お互い同じ気持ちでいると思うんだけどさ、ぼくはさーちゃんが自分の身を犠牲にしてまで助けてくれても、ちっとも嬉しくないよ。きみだってそうでしょ」

「……」


 左香は小さくこくりとうなずいた。


「だからさ、さっきみたいなのはもうなしにしよう。お互い、その場を生き残るために全力を尽くす。それでいいじゃないか。だから、生き延びていたらそのときは、後悔とかもなしにしよう」


 左香は目を指で拭う。なにかを思い出したような顔をした。


「“囚人のジレンマ”ですね……」

「なんか、聞いたことあるような」

「姦神先生から借りた本に、書いてました。『自白すればお前だけを釈放する』と言われたふたりの囚人が、結果的にはグループによって損な選択をしてしまう、というジレンマです。自分だけが助かりたいと思ったら、それがかえって不幸な事態を招くんです」

「なるほどね」


 きみはうなる。


「さしずめぼくたちは、『相手の利益を追求するあまり、お互いにとって不利益な結果を生み出してしまう』ってことかな……」

「自分のためじゃないだけ、難しいですね……」


 きみたちはジレンマを抱えながら進む。そのことに悩んでいられる今が、まだ幸せなのだと気づけぬまま。繋いだ手に力を込めるのだった。

 

 

 しばらく歩いていくと、きみたちはやがて真っ黒な帳に突き当たった。劇場の舞台を閉ざす幕のようなものが、見渡す限りに行く先を塞いでいたのだ。


「なんだろう、これ」


 触れてみようと手を伸ばすと、すっと抵抗なく中に入った。引き戻した指先に異変はない。日陰と日向の境のようだ。


「これ、次の世界へと続く境界かな」

「向こう側、よく見えませんね……」

「そうだね、まあ入ってみればわかるんじゃないかな」


 きみは経験上、姦神がルール以外の罠を設置することはないのだと知っている。だから、ほとんど無防備に足を踏み出そうとした。だが、強く腕を引かれてしまった。


「だ、だめですよ! きーちゃんを危ない目には合わせられませんっ。お、おねーちゃんが先に入りますからね!」

「あ、そう? じゃあ、お先どうぞ」


 きみはあっさりと場を譲る。こんなことで左香に貸しをひとつ作れるなら安い話だ。左香は真っ青な顔でうなずいた。


「は、はい……あ、ありがとうございます……」


 左香は恐る恐る足を突き出す。しかし出しては戻し、戻しては出すの繰り返しだ。いい加減にしびれを切らしたきみは「早くしなさい」と告げるも、左香はおっかなびっくりの姿勢を崩さない。蹴り込んでやろうかとも思ったが、さすがに自重する。


「……」


 きみは左香の背中を抱いて、一緒に帳の中に飛び込んだ。耳元で左香が叫ぶ。


「ひゃあああああああああ!」


 共に侵入を果たすと、世界の光景が一変していた。

 日差しは明るく降り注いでいて、道端に落ちたガラス片が乱反射してきらきらと光っていた。そこは荒廃したビル街だった。きみの目の前を風が通り過ぎてゆく。土と草の匂いに代わって、黒鉛のいがいがしい空気が漂っていた。


「なんだこりゃ……ぼくたちの世界じゃ、ない、みたいだな」


 地面に両手両膝をついて、突っ伏した姿勢のまま固まっている左香の横を通り、きみは辺りを観察する。

 道幅は広く、車道はない。アスファルトではないもので舗装されたらしき道路は真平らで、明らかに現代とは違った科学が活用されているようだった。


「まるで、未来の世界だね。文字通り『近未来』エリアかな。……ん? 未来? そういえば、そんな参加者もいたな……アンドロイドだっけ」


 ならばここがその未来人たちの世界なのだろうかと、きみは推察する。


「さーちゃん、いつまでも座っていると、肌を切っちゃうかもしれないよ。さあ行こう」

「………………」


 と、きみはうずくまったままの左香の様子がどこかおかしいことに気づいた。


「……さーちゃん? ちょっと、さーちゃん、どうかした?」


 もしかして、と。いやそんなはずはない、と。ふたりのきみが言葉を交わし合う。思わず左香に駆け寄ろうとして、それからきみは立ち止まる。


「さーちゃん……その、きみ……」


 左香のスカートから、地面にぽたりぽたりと液体が染み込んでいるのが見えた。それはまさしく、まぐれもなく。彼女が失禁してしまった事実を示唆していた。

 髪の間から覗く左香の顔は真っ赤で、突っ伏した姿勢のまま彼女は立ち上がれずにいて。


「……うぇぇえ……ふぇぇぇぇぇぇん……」


 きみが顔を手で覆う前、左香はまるで赤子のような大泣きをし出したのであった。


 

 左香とともにいて、空気の重さを味わう日が来るとは思わなかった。

 着替えもなかったため、左香はぐっしょりと濡れた下着を捨てて、スカートの下になにも履かないままで移動することとなった。

 少しでも突っつけば破れてしまうシャボン玉のような左香に、きみは声をかけることができずにいた。


「……こんな環境に放り出されたら、誰だって無理もないことだとは思うんだけど……かといって、ぼくが理解を示すのも……」


 と、きみは後ろの彼女には聞こえないようにつぶやく。少し元気になってくれたと思った矢先の出来事だ。結局、触らずにいるまま他ない。

 スカートを抑えながら死にそうな顔で歩く左香の唇から、時折「うう、おねーちゃんはだめなおねーちゃんです……もうだめです、もうだめです……」といううめき声が漏れていたりもする。時々くしゃみを漏らすのは、やはり寒いのだろう。実際、近未来エリアはきみたちの世界に比べてわずかに気温が低いようだった。

 貧窮も楽しみに変えて暮らしてきた芯の強い左香のことだから、機嫌を損ねて歩けなくなってしまうことはないだろうとは思いつつも、きみはうなる。


 無人の都会を行く双子。片方は腕組をしつつ考え込み、片方は俯いて悲哀を撒き散らす。左右に立ち並ぶモノリスのようなビル群も、きみたちを奇妙がっているかのようだった。

 このままではらちがあかない。きみはビルの一角に当たりをつける。


「さーちゃん」

「……はっ、はい!」


 ぎゅうぎゅうにスカートを握り締めながら、左香がきみを見やる。きみは努めて平然を装い、ドアが破壊された高層ビルの入口に立つ。


「ぼくたちの住む世界じゃないのがちょっと不満だけど、とりあえずここらへんに身を潜めよう。ぼくも少し休みたいしさ」

「えっ、えっと……! お、おねーちゃんは、まだ、全然、大丈夫ですよ!?」

「それに、ほら」


 きみは親指でビルの中を指す。明かりの灯った正面入口には小さな噴水があり、今も水の華を咲かせていた。外観に比べて中は損傷が軽微のようだ。


「ご丁寧に、電気も水道も無事みたいだからさ。シャワー浴びれると思うよ」

「――っ」


 火が点いたように顔を真っ赤にする左香。彼女は自分の身体を抱きながらしばらく「うー……うー……!」と悶えていたものの、結局はビルの中へと駆け込んでいった。


「二名様ご案内……」


 きみはため息をつきながら、左香の後を辿る。とりあえず噴水で手を洗ったらしい左香は、いまだに耳を赤くしながらも、それより内観の立派さに衝撃を受けているようだった。


「す、すごいですね……きーちゃん、これが『豪華マンション』なんですね……!」

「そうだね。世の中にはこんなところに住んでいる人もいるんだから、ホント不公平だよね」


 さすがに老朽化したエレベーターを使うのは怖かったため、きみたちは横手の非常用階段から上階の住居部屋を目指す。かたくなに左香がきみを先に登らせたのは、言うまでもないだろう。


「ねえ、さーちゃん。今、こんな状況だけどさ、ちょっと気分転換をしようよ」

「き、気分転換……ですか?」

「ぼくたち、あんなにボロっちいアパートに住んでいるけどさ。大人になって自分たちでお金を稼げるようになったら、引っ越したいって思うんだ」

「そ、そうなんですか? おねーちゃんは、あのアパートもキライじゃないですけど……」

「せめて共同トイレじゃないところがいいんだよ。いちいちトイレットペーパー持っていくのも面倒だし、セキュリティだってよくない」

「セキュリティ、ですか?」


 きみはちらりと左香を見たが、その視線の意味は彼女には伝わらなかっただろう。


「ただ、一軒家なんて手が届かないだろうし、だからそういう意味ではこういうタイプのマンションはぼくの理想に合致していたりするんだよ」

「えっと、つまり……?」


 不安定な状況で話に集中できていない左香に、きみは微笑みかける。


「とりあえず、その、将来がどうなっているかわからないけどさ。さーちゃんが好きな人を見つけて、その人と結婚するかもしれないし」

「お、おねーちゃんはきーちゃんをひとりになんてしませんよ! ず、ずっとずっと一緒なんです!」

「じゃあ、ぼくに好きな人ができてその人と一緒に暮らすかもしれないし」

「えっ……お、おねーちゃんも、一緒に住んじゃ、だめですか……?」

「いやどう考えてもおかしいでしょ」


 不安げな顔をする左香に、やんわりと否定の言葉を投げつける。


「でも、そうならなかったときはさ、ぼくが会社に勤めて……さーちゃんも、その、なんとかしてパートかなにかをかろうじてクビにならずに厚意で働かせてもらっていて……」

「おねーちゃんのifがあんまりにも夢がなくないですか!?」

「そんな感じの将来で、こんな感じのマンションに住めたらいいな、って思うからさ……今は、その、物件を下見に来たような気持ちで散策するのは、どうかな、って思って」


 そこまで言ってから振り返ると、左香は頬を赤くして視線を斜め下に落としていた。だが先ほどまでの羞恥に耐えていた表情とは、雰囲気が違っているようにきみには思えた。


「……こんな状況で、さすがにおねーちゃんも浮かれた気分にはなれないですけど……」

「まあね。でも緊張しっぱなしも良くないと思って」


 硬質的な足音を鳴らしながら階段を登り終え、開けっ放しのマンションの一室を覗き込んでいたきみの手を、左香がぎゅっと握ってくる。


「……いいと思います」

「うん?」

「おねーちゃんも、きーちゃんとこういう部屋に住めたらなって思います、から」

「あはは、だよね」


 きみは朗らかに笑い、塵ひとつないマンションの一室に土足で上がりこみ、部屋の間取りを見回す。


「さすがに、いつまでも寝床が隣同士っていうのは、年頃の男女としてはありえないっていうかさ――」


 きみの言葉を遮って、左香が叫ぶ。


「お、おねーちゃんはそれは別にいいと思います!」

 

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