2.合理性の要求
暦の上ではもう冬だというのに、きみは汗だくになりながら錆びついた自転車を漕ぐ。新しいものを買ってもらったらしい初が、お下がりにと小学四年生の頃にきみたちに譲ってくれたものだった。冷たい風が身を切るように耳の後ろへと流れてゆく。閑散とした土手の上は景色すらも寒々しかったが、それでも熱は静まらない。
「きーちゃん?」
後ろからしがみついてくる左香が、身体を傾けながら尋ねてくる。
「おねーちゃんの気のせいかもしれないですけど……すごく、ドキドキしてませんか?」
背中に彼女の体重を感じながら、きみは息を切らせて自転車のペダルを回す。
「売れ残りのパンがなくならないかと、心配なんだ」
「あっ、そ、それは危ないですね……晩ご飯なくなっちゃいますもんねー……」
世界の片隅、ちっぽけなところできみは崖にぶら下がるように生きていた。
なぜ毅右研究部などというものがあるのか、きみは知らないし、知りたくもなかった。ただ生きていくためには、その大いなる意思に身を委ねなければならなかったのだ。
きみという人間を説明するのに、言葉を用いるのは難しい。
目を覆いかねないほどに長い前髪と、華奢な手足。時々姉妹にも間違えられるほどに左香に似た容姿だが、きみの特長はそこではない。きみは複雑で特別な人間だ。
きみの名は、新垣毅右。苦労に苦労を重ねてきたためか、見た目よりもずっと大人びた思想を持つ中学二年生だ。
きみたちは自宅のアパートへと到着した。古ぼけて寂れ切っている木造の二階建てアパートである。アパートの裏の屋根もない場所に自転車を止め、きみたちは201の札が下がった部屋へと向かう。
鍵を差し込み扉を開けば、六畳一間が見渡せる。
物が少ない部屋だ。電化製品の類は、冷蔵庫と古ぼけた炊飯器。それに、左香が拾ってきた扇風機と、冬のあまりの寒さに死の危機を感じて購入した小さなストーブくらいだ。ちゃぶ台の上に載っているアジアンテイストのスタンドライトが異彩を放っているが、これはもうひとりの部員・安瀬倉がかつて誕生日にプレゼントしてくれたものだった。
きみは床に鞄を下ろす。左香が本日の収穫物を嬉しそうにテーブルに乗せた。
「これだけあれば、しばらくは持ちそうですね、きーちゃん」
こんもりと膨らんだビニール袋には、食パンの耳がいっぱいに詰まっていた。パン屋がサンドウィッチを作成するときに本来は廃棄するはずのものを、捨て値で譲ってもらっているのだ。
「そうだね、すぐにごはんにしようか」
「うん。あ、おねーちゃんは先にお洗濯してきますね」
きみは狭いキッチンに立って、冷蔵庫から残りわずかの牛乳を取り出す。駄賃をもらったばかりなので、これくらいの贅沢なら構わないはずだ。
左香は洗い物の入ったカゴを抱えて、表の野外洗濯機へと向かった。あくまでもきみに下着を触らせないようにしているのは、年頃の少女として譲れない一線なのだろう。
フライパンに牛乳を敷いて、とっておきの鶏卵を落としてかき混ぜる。しばらく、ガスコンロをつけたり消したりを繰り返していたところで、きみはミルクのプールにパン塊を沈めてゆく。バターは省略したものの、砂糖の粉を振りかければ、フレンチトーストのようなものの出来上がりだ。すると甘い匂いに誘われたのか、左香が血相を変えて戻ってきた。
「きょ、きょうはどうしたんですか、きーちゃん! マリーアントワネットにでもなったつもりなんですか!」
「わけのわからないことを言ってないで、お皿ちょうだい」
「はい、きーちゃんトワネットさま、ただいま!」
深い容器に牛乳ごと注ぎ込む。使い終わった鍋でアイロンをかけようかどうか迷ったものの、きょうはいいかと熱い鍋はそのまま流しに放り込んだ。
それから、先日家庭科の授業で作った後お持ち帰りしておいたオニオンスープを冷蔵庫から取り出し、冷たいままで器に移す。目をきらっきらに輝かせている左香の前に並べると、彼女は両手を頬に当てて桃色のため息をついた。
「ああ……本当に、きーちゃんは素敵なお嫁さんになれますね……おねーちゃんは、きーちゃんがいるから暮らしていけるようなものです、本当に……」
洗った割り箸を手に、待ち切れないと言った顔の左香だ。きみは首をひねる。
「それについては確かに否定できかねるけど」
「生活力が服着て歩いてます……」
「心から否定したい」
「ひとりで生きていける能力が人間の価値を決める世界だったら、きーちゃんはおねーちゃんたちの王様になれますね!」
「それってつまり祭り上げられた奴隷なんじゃないかなあ」
早口気味にあしらう。なんとなく雛に餌を届ける親鳥の気分で。
「まあまあほら、お腹すいたでしょ、さーちゃん。早く食べようよ」
「わーいわーい」
彼女の前に座り、きみもまた手を合わせる。ここには部室で感じたような恐怖はなく、凪の海のような平穏が満ちていた。場違いなスタンドグラスに照らされた薄暗い部屋で、ふたりの「いただきます」が小さく響き合った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ふぁぁ……きーちゃん、もう寝ましょうよ……」
姦神から借りてきたらしい小難しい本を読んでいた左香が、甘えた声であくびを漏らした。きみはちょうど勉強が一段落ついたところだったため、時計を覗いてその要求を飲んだ。
「そうだね、明日はなんだか疲れそうな予感がするし……早めに寝よっか」
「しましょうしましょう、そうしましょうとも」
嬉々としてちゃぶ台をどかしてから、左香は押し入れから布団一式を取り出してふたつ並べて敷く。ホコリの匂いが部屋に充満してきみは窓を開けて換気した。冷たい冬の風が入り込んできて、身震いする。
「きょうも寒いね」
「ストーブつけましょうか?」
目を合わせる。しばらく迷ってから、視線を逸らす。
「……いや、やめとこう。これぐらいだったら、まだ風邪は引かないはず……」
「毎年恒例の、大自然とのバトルですね」
「そだね。今年もギリギリまで粘って土俵際の強さを見せよう」
パジャマに着替えて、きみたちは並んで横になった。
「おやすみ、さーちゃん」
目を閉じて、夜の世界に身を委ねる。布団は誰に対しても平等に安らぎを与えてくれる。ならば対義語は姦神だろうか。きみはそんなことを考えながら己の内に意識を沈めてゆく。
左香が何度も身じろぎを繰り返す物音で、目覚めた。きみは薄目を開けて左香の様子を伺う。
「さむい?」
「あ、いえ……大丈夫ですよ? おねーちゃんは我慢が一番得意ですから……」
すぐに小さなくしゃみ。きみは身を起こす。
「ストーブ、つけようか」
返事を待たずに手を伸ばす。手首にそっと指が絡まってきた。
「……えっと……あの、きーちゃん、そっちに行っても、いいですか?」
「あ、うん」
きみは少し身体をずらして、左香の場所を空けた。左香はもぞもぞと這いながらやってきて、小さく丸まりながら収まった。一瞬だけ触れ合った足は真冬のドアノブのように冷えていた。
「あったかい、です」
「それはよかったよ」
寝返りを打てば、左香はこちらを見つめていた。その黒瞳は、外から差し込む月明かりによってきらきらと星のように輝いていた。思わず、きみは息を呑む。
左香の顔は――きみとは違って柔和な印象を人によく与えるが――よく似ている。一卵性の双生児だ。それで一緒に暮らしているというのに、性格は似ているところのほうが少ない。
左香はよく言えば思いやりがあり、悪く言えばお人好しだ。隣人に優しさを与えれば、それが巡って世界が徐々に美しく磨かれてゆくだろう夢物語を、本気で信じている少女だ。それ自体は素晴らしいことだと、きみは思う。しかしその分、左香は人の悪意にとても無防備だ。ひとりで生きていけるとは思えない。
きみの視線に気づいたのか、左香は毛布で顔を隠しながら身をすり寄せてきた。彼女のこういうところは、苛立つときもあれば、今のように無性に不安になるときもある。
「許可しておいてなんだけど。狭いよ、さーちゃん」
「暖房費の節約なのです、きーちゃん」
「ああ、それならばと納得してしまう自分が恨めしい」
きみが反対を向くと、まるでぬくもりを追いかけるように左香が背中にくっついてきた。眠れず、囁くぐらいの声で。
「……もうすぐで、姦神先生に拾われてから、八年なわけだけど」
「明日で、ですね」
「え、よく覚えていたね」
「もちろんです。おねーちゃんですから」
自信たっぷりと左香。そこに何の根拠も見出だせそうにはなかったが。
「まあそっか、そうだね。記念日とか、さーちゃんは忘れないんだったね。ていうかちょっとすごいな。もう八年か」
反芻して驚く。それはつまり、父と母が飛行機事故で亡くなってから八年という意味だ。
左香は肝心なことを覚えていない。何度か確かめたから確実だ。八年前のあの日、どうしてきみたちが姦神の元に身を寄せたのか、その過程を。まさか、姦神が父の遠縁と言われて、左香が信じているわけがないだろう。
ともあれ、なぜ姦神がそのような――身寄りのないきみたちを救ってくれたのか、その決定的な理由は、きみも知らない。今でも聞けずにいる。
「小学校の頃から、ずっとです。研究部に入れてもらって、今までずっとお世話になってきたんですよ。とても忘れられるわけないじゃないですか」
「犬も三日受けた恩は忘れないって言うし」
「誰が犬なんですか、誰が」
左香がきみのパジャマの袖をめくって、二の腕に噛みついてくる。痛みはなく、むしろこそばゆかった。「やめなよ」と言って振り払う。
姦神は小学校の隠し部屋にも潜み、きみたちに“活動”と称したわけのわからない題を押しつけ、そうして“駄賃”と題した報酬を与えてくれる。だがきみは、それが決して好意からの行いではないということを、知っている。それが左香との違いだ。
「まあ、なにより身元引受人がいないと、家も借りられないし口座も作れないし。感謝しているよ、法治国家でまともに生きていけることに」
「きーちゃんは現実的ですね……ふぁ……」
左香の声は湿り気を帯びていた。
「望んでこうなったわけではないけどね……」
きみはこれまでの生活を思い出す。
姦神は生きる道をなにひとつ示してはくれなかった。彼女風に言うならば“きみたちの自由意志を尊重”したのだろう。だが6才の子供にそんなものがあっただろうか? 不動産に小学生ふたりで押しかけさせたのは、完全にやりすぎだ。きみたちが小学生でいられたのは校内だけだった。
それでもあの頃、毅右研究部という居場所を用意してくれたことは――彼女が意図していない効果だったとしても――無視できない。だから本当はもっと、姦神を尊敬させてほしいのに。きみは心から思うが、やはり彼女はそれを望まないだろう。『何の意味もない』と一蹴するに違いないのだ。
姦神は一体何者なのだろうか。
きみは何千何万回と己に問いかけた。どんな目的があって、毅右研究部などというものを立ち上げて、きみという人間をこねくりまわしているのか。
彼女は様々なことをきみに行なわせた。時には――難易度により――命を落としかねないほどの危険に晒されることも、あった。きみがじたばたする様を、姦神はただ眺めていた。それが楽しいのかどうなのかさえ、わからない。
「きーちゃん……」
耳元に熱い息がかかり、頭が一気にクリアになった。無感情につぶやく。
「うん、もう寝ようか」
「はい……おやすみなさい」
あれこれ想像を巡らせながらも、ひとつだけ確信していることがある。
姦神はきみと左香を再び引き合わせてくれた。それが揺るぎない事実である限り、きみが姦神に逆らうことは恐らく一生ないだろう、と。
姦神に拾われてからの八年間。ふたりは一日も挨拶を欠かしたことはなかった。
「おやすみ、左香」