act 2.世界五分前仮説
光が止んだそのとき、きみは見知った土地にいた。
何年経ってもきっと、忘れることなんてできないだろう。薄暗い。太陽の光さえも届かないほどの鬱蒼としたジャングルだ。汗ばむ熱気が土の上から立ち上って来ている。
きみはこれが夢ではないかと疑った。だが、指先には姦神のカードを握り潰した後の輝きが残っていて、きみに現実の連続性を主張しているようだった。
となれば、きみは慌てて辺りを見回した。
そう、きみのすぐそばには――
「……う、うぅん……きーちゃん……?」
緑の絨毯の上に、ひとりの少女が倒れている。寝息を立てて、胸を上下させて。
触れるのも怖くて、きみは腕を広げたまま彼女をずっと見つめていた。時間にして二分程度のことだったが、その間きみの思考は完全に停止していた。
ゆっくりと目を開く。少女は視線を何度か動かして、それからきみを見た。
「え、えっと……き、きーちゃん?」
「……」
「あ、えと、おはようございます……って、こ、ここどこですかっ?」
油断すると泣いてしまいそうだった。だから言葉を発する代わりに、きみは左香を抱きしめた。その暖かくて柔らかな感触は、きみを生き返すようだった。左香はそんなきみの想いを知ってか知らずか、怯えた表情を笑顔の裏に隠して、腕を回してくる。
「だ、大丈夫ですよ、きーちゃん……こんなことになっちゃったけど、おねーちゃんが、ついていますから……! 一緒に、一緒にいますから、だから、安心してくださいね」
愛のある言葉を聞きながら、きみはいつまでもそうしていたかった。ずっと彼女に会いたかった。体温を感じていたかった。もう二度と離れたくなかった。
――きみは戻ってきたのだ。あの日あの時に。
「嘘みたいだ……」
そのつぶやきを、左香はどう思っただろう。けれど彼女はなにも言わず、背中を優しく撫でてくれた。それがどんなに幸せなことだったか、この頃のきみは知らずにいた。
何度願ったかもわからない。なにもかもをきみはやり直す機会を得たのだ。ならば、きみは誰にも気づかれていないうちに、素早く行動する必要がある。それはわかっている。
だから、あと少しだけ。
これが、最後だから――
まるで平穏を引き裂くように、どこか遠くから咆哮が聞こえてきた。左香がびくっと身を震わせる。今のきみになら理解できる。戦いの時が迫ってきているのだ。
きみが左香の体を突き放すと、彼女の瞳は不安そうに揺れていた。
「き、きーちゃん。今の、その」
「うん」
きみは近くに落ちていた道具袋を拾い上げて、肩に担ぐ。左香は
「で、でも、きーちゃんのこと、おねーちゃんが、おねーちゃんが絶対に守ってあげますからね。絶対に、絶対ですからねっ」
「……うん」
左香のはちみつのような親愛の情にどういう言葉を返していたのかも思い出せないまま、きみの後ろで茂みが揺れた。
振り返る。
そこにいたのは、タイガーストライプの猛獣。獰猛な牙の生え揃った口を開いて、きみたちに向けて威嚇のつもりか唸り声をあげていた。
ひっ、と左香が悲鳴をあげた。猛虎は今まさに飛びかかってきそうな形相できみを睨みつけていた。視線だけでも人間ならば竦み上がり、被食者の恐怖を思い出すことだろう。
落ち着き払ったきみは、道具袋から一本の【カッターナイフ】を取り出す。
ベンガルドラと目が合う。彼の瞳孔がすっと細くなった。きみはナイフを突きつけながら、虎に告げた。
「――消えろ」
たった一言。その言葉でベンガルトラは明らかに萎縮した。耳を伏せ、尾を丸めているようだった。きみは左香を立たせて、猛虎に背を向けて歩き出す。
「さ、行こう、さーちゃん」
「……え、えと? き、きーちゃん、すごいですね!」
「うん」
肩越しに振り向く。猛虎はもういなくなっていた。空を安瀬倉が飛翔してゆく。きみは左香の手を引いて、境界を目指す。
「さーちゃん」
「な、なんですか? きーちゃん」
左香はきっと、きみが様子が不自然なことに気づいているだろう。だからそんなに深憂を抱いた顔をしているのだ。だが何人もの人を殺してきたきみはもう十分におかしくなってしまっていて、彼女を安心させることはできない。
だから――
「大丈夫だよ、さーちゃん。大丈夫だから。きみのことは、ぼくが守るから」
他に語るすべを、持ちあわせてはいなかったのだ。
時を繰り返すきみは、どんな結末を思い描くのだろうか。
きみの物語は、まだ少しだけ続いてゆく――
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
きみと左香は誰にも出会うことなく、現代エリアにまでやってきていた。燐の部屋で見たカメラの位置を覚えていたからこそ、きみは彼女の監視をくぐり抜けられたのだ。森の中で回り続ける冥王星を横目に、きみが向かう先は水鏡中学校だった。
歩き慣れた学校への道を、ふたり手を繋ぎながら歩く。左香は鬼気迫るきみの気配に飲まれているのか、先ほどから口数が少なかった。あるいはきみの邪魔をしないと決めているのか。
「ねえ、さーちゃん」
「どうしました、きーちゃん」
きみはずっと疑問に思っていた。左香は自らの正体に気づいているのだろうか。いや、気づいていないはずがない。そうでなければ、解説書を見て自分の項目を破ったりはしないだろう。
一体、人間ではない彼女はどんな気持ちでいたのだろう。ずっと、どんなことを考えながらきみと共に暮らしていたのだろう。
「えーと……昔々、あるところにひとつの船がありました」
きみは歩きながら語り出す。
「その船はとてもとても歴史の古いものです。あちこちボロボロなので、何度も何度も補修をされています。するとどうでしょう。そのうち、もともと船に使われていたパーツはひとつもなくなってしまいました」
肩越しに振り返る。左香は小首を傾げていた。
「この船は、かつての船と同じものだと言えるでしょうか」
「テセウスの船」
左香の言葉に、きみは頭をかく。
「なんだ、知ってたか。さーちゃんのくせに」
「姦神さんから借りた本にたまたまあったんですよ。それに、おねーちゃんなんだから知ってますもん」
「その理屈はよくわからないけど。つまり、その。ぼくはさーちゃんがどんなことになっても、ぼくの姉なんだと思うんだ」
「どんなこと、って?」
純粋な目で尋ねられて、きみはうなる。
「そうだな。例えば、虎に噛み殺されてビニール人形と体が入れ替わったり、アンドロイドに撃ち殺されて蘇ったりしても……その、きみとぼくが覚えている限り、さーちゃんはさーちゃんなんだよ。うん」
「なんだかやけに例が具体的ですね……」
左香はちょっと嫌そうな顔をした。だがすぐに、思いついたようで。
「わたしも、きーちゃんがどんなことになっても、きーちゃんだってすぐわかりますよ。おねーちゃんはちょっとすごいんですから」
「そっかあ。さーちゃんはすごいなあ」
素直に認めてあげると、左香は「えへへ」と照れた笑みを浮かべた。それが左香の能力なのだと知っているきみは、複雑な想いだった。
「テセウスの船は船の形を保持している限り、同一の船だと呼べるだろうね。でも、それが例えばボートになっちゃったり、あるいは住宅用建材となっちゃったらどうかな」
「おねーちゃんはきーちゃんがボートになってもアパートになってもきーちゃんだってわかりますよ」
「そこまで言い張られると逆にちょっと怖いんだけど」
若干引きながら答える。自我の連続性がなくてもその本質を断定できるのなら、左香は一体きみをなにで認識しているのか。なにか特別な力があるのか、あるいはただの思いこみか。
「でも、ありがとう、さーちゃん」
どちらにせよ、左香の言葉には力があった。左香はなにも言わず微笑んだまま、きみの手をぎゅっと強く握り返してきた。
きみたちは歩き続ける。誰にも会わないまま、しばらく無言だった。
歩き続けて、数十分。きみたちは無事、学校に到着する。校門を抜けて下駄箱を通り過ぎ、二階の後者裏側の廊下を渡る。
きみは突然、立ち止まった。
「ごめん、さーちゃん」
「はい?」
きみは息を吸い込んだ。落ち着き払った声で告げる。
「ここから先は、ぼくひとりで行くね」
「だ、だめですよ!」
左香は予想以上に強く反発をしてきた。
「お、おねーちゃんと一緒に行きましょ。なにをするか、わからないですけど……でも、おねーちゃんが、そばにいますから。ね?」
「ごめん、さーちゃん」
以前きみは左香と約束をした。逆囚人のジレンマだ。互いのことを思うのなら、自分ひとりだけを犠牲にするのはやめよう、と。だが今回はその限りではない。だからきみは正直にうそをつく。
「ぼくひとりのほうが安全なんだ。きみを守りながらじゃ戦えない。だから、おとなしく待ってて」
「で、でも……」
「頼むよ、さーちゃん」
きみが強く言い聞かせると、最後には左香もうなずいた。結局のところ、どんなときであっても左香はきみに甘いのだ。
「わ、わかりました、けど……変なこと、しちゃだめですからね」
「ありがとう」
微笑み返す。上目遣いでこちらを見つめる左香は、すがりつくようにつぶやいた。
「……信じてますから、ね」
きみはどきりとした。その純粋な視線に晒されて、なにも言い返すことはできない。まるで悪事を見咎められているような気がした。姦神はきみと左香が離れるべきではなかったと言っていた。だとしたら、これも過ちなのだろうか。
それでも、きみは決めていたのだ。
きみは左香に背を向けた。泣き出しそうな姉を廊下に置き去りにして、歩き出す。
レバーを操作して犠牲を選ぶようなことは、終わりにしなければならない。暴走する列車そのものを止めるために、きみは来たのだ。
きみは女子トイレに向かう。個室に入るとノックした壁の先に、闇の中の光の道がある。
『毅右研究部』
姦神洵子は、そこに潜んでいる。
「毅右くんか?」
姦神は、無傷でこの場に現れたきみを見て驚いているようだった。
「どうしてこの場所がわかったんだい? きみは時にわたしの予測を上回ることがあるね」
「そうですか?」
色のない声で聞き返す。姦神はどことなく楽しそうだった。
「的確にこの学校の位置を探り当てられたのは、偶然としてもだね。誰にも見つからずにここまでやってくるのは容易ではないよ」
「……」
きみはどこまで明かすべきか考えていた。ここで姦神を説得できなければ、時を遡った意味はなくなってしまう。よほど慎重に語らなければならない。
ケルベロスに挑むときよりも緊張しているようだ。口を開く。
「姦神さん、ぼくはこの戦いの結末を知っています」
「ふむ」
値踏みするような視線に晒されながら、きみは続ける。
「なぜならぼくはあなたの力によって、今この場に戻ってきたからです」
「それは、きみが未来からやってきた、という意味かな」
「そう思ってくれて構いません。もしかしたら、信じてもらえないかもしれませんが」
「未来人のきみと現代人のきみが顔を突き合わせているのならともかくね。わたしは自分の目で見たもの以外は信じられない性質さ。きみが悪いというわけではない。わたしは観察者なのだ」
「証拠はまあ、確かにないですね」
きみは静かに認める。戻ってきたのは肉体ではなく、きみの意識だけなのだ。それは他の誰にもわからない、きみだけのものだ。
きみはゆっくりと手のひらを握り固める。
「でもぼくは、あなたをこの手で殺してきたんだ」
「わたしをかい?」
姦神の目は興味の色をたたえている。
「それはつまり、この“活動”で、きみとわたしが最後まで生き残ったということかな」
「ええ。あなたはぼくをこの部屋に招いた。やってきたぼくに姉の正体を明らかにして、そうして襲いかかってきたんです」
姦神は机に頬杖をついたまま、きみを見つめる。
「ほう。ならば聞こうじゃないか、毅右くん。そのときわたしは一体なにを使っていたかな」
「大型のハンマーです。ドアもぶち破れそうな。でもそんなのおかしいんですよ」
「どういうことだい?」
「あなたが本気でぼくを殺そうと思ったら、そんなのはたやすいことじゃないですか。だっていうのに、どうしてぼくに合わせてハンマーなんて使うんですか。手加減をしていたのかと思っていました。けれども、本当は違ったんです」
きみは語気を荒げる。
「あなたは死にたがっていたんです。そうでなければ、ぼくなんかに殺されるわけがない」
「きみは面白いことを言う。わたしが自分の役目を放棄するなどと」
上辺の会話を楽しむ姦神に、きみは苛立った。
「面白いとかつまんないとか興味深いとか魅力的だとか、そういうそれっぽい言葉を並べていれば格好がつくとでも思ってませんか、姦神さん。ぼくはもう、そういうのはうんざりなんです。御託は結構だ」
「どうしたんだい、いつものきみらしくない――」
姦神の言葉を遮って叫ぶ。
「――簡単に、死ぬとか言わないでくださいよ、姦神さん! それも、あろうことかぼくにさせるなんて、どうかしています。あなたがどんな存在であっても、ぼくたちにとっては大切な、かけがえのない姦神さんなんだ……それを、どうして……」
きみはまるで泣いているようだった。
こんなに感情をあらわにして怒鳴るきみの姿など、今まで誰も見たことがなかっただろう。
「……この状況はきみにとっても、精神的な負担が大きいようだね」
きみは声を押し殺す。苦み走った表情で理性の率をあげた。
「ぼくは正気だ。ぼくは姦神さんと話がしたいんです。あなたにとって“活動”はそれほど大事なことなんですか? 生きていくために欠かせない行為ですか?」
「そのことについては、昔にもさんざん話したと思うがね」
「あなたは自らの行動によって追い詰められていました。そんなことになる前に、止められないんですか? あなたは変わることはできないんですか?」
姦神は椅子に深々と腰を沈めた。ため息をついた彼女の表情は先ほどまでとは違っていた。こめかみに当てた指は頭痛を抑えているようだ。
「なるほど。わたしが死を望んだ、か」
必死に食らいつくきみを見る姦神は冷めた目をしていた。彼女が時々見せる、あの爬虫類のような瞳だ。
「信じてくれるんですか」
「そういうわけではないよ。ただそれは“事実”でもあるのさ」
「……どういう」
姦神は瞬きをするのも忘れたように、きみを見つめている。
「……【姦神】について、少し話すとしようか」
姦神の語り口が、徐々に人間味を失ってゆく。