act 1.カルテジアン劇場
きみの姿は帰り道にあった。自転車の籠にケーキの箱を乗せている。それは初がきみのために用意したバースデーケーキだった。
やがて家につき、きみはケーキを一口食べると残りを机の上に起き、布団に倒れ込んだ。
きみはそのまま眠りにつく。たったひとりの部屋で、まるで泥のように眠っていた。きみは一体、今夜どんな夢を見るのか。
あるいはきっと、何の変哲もない日常に起床することを期待していたのだろう。
翌日、普段よりも早い時間に起きたきみは残りのケーキにわずかに口をつけ、歯を磨き、支度を整えて学校へと向かった。
自転車で15分。学童に紛れて道を行く。駐輪場に錆びついた自転車を停めると、きみは鞄を持って教室に向かった。顔馴染みの生徒たちに挨拶をするものの、初や安瀬倉、左香の姿はどこにもなかった。
授業は滞りなく進み、世界は異常なほどに平穏だった。窓の外から見える景色もなにも変わらない。クラスメイトたちはテレビやアイドル、スポーツの話をしていたし、きみも相変わらず英語は苦手だった。壊れてしまったのはただひとり、きみだった。
一日が終わると、きみはどこにも寄らずまっすぐ家に帰ることにした。情緒が不安定なのだと自覚していたし、それならひとりのほうが楽だと思ったからだ。
帰宅したきみは洗濯をし、軽く部屋の掃除をしてから、すぐに布団に入った。能動的なことはなにもしたくなかった。なぜだか空腹感を覚えることもなかった。
次の日も、そのまた次の日も、きみは同じ行動を繰り返しなぞった。放課後の暇を潰すのは容易ではなかったが、それも数日のうちは自らの感情を押し殺すことぐらいはできた。
ひとりになって初めての休日。きみにとってはまるで悪夢のような一日だった。なにもせずにただ無為に過ごすこともできず、きみは勉強に没頭してみたり、姉の借りた本を読んでみたが、やがてそれにも飽きてしまった。きみは押入れにしまい込んだ姉の衣類を引っ張り出して、部屋に並べていた。それから、改めて気づく。
きみの部屋には、左香の写真が一枚もなかった。アルバムに思い出を記録するような時間はなくて、今まではそれで構わないと思っていたのだ。きみは愕然とした。
今ではクラスメイトも、担任ですら姉たちが生きていたことを覚えていないのだ。まるで左香が生きてきたこと自体がなかったことになってしまったような気がした。
きみは慌てて、部屋中を探し回った。だがもとより狭い部屋だ。見落としているものなんて、ひとつもなかった。立ちすくむきみは、姉の洋服に目を留めた。
少しどうかと思いながらも、きみは姉の制服に袖を通す。丈の長さはちょうどだった。つい癖で鏡の前に立つと、自分でも驚いた。似ていると揶揄されることがあるけれども、ここまでそっくりだとは思わなかった。そこにいたのは、まるで髪を切った姉そのものだった。姉がこの世界に蘇ったような気がした。悲しみなどという言葉では足りないほどの生理的な不快感がはらわたを圧迫する。苦しくて息ができなくなった。
きみは左香のことをずっと守ってきたと思っていた。けれども、本当にきみを守ってくれていたのは左香だった。左香の行動が姦神の与えた機能だったとしても、そこに愛がないと誰が言えるだろう。人が子孫を残すのは遺伝子に刻まれたプログラムだ。だが、それだけだ。
鏡の中の姉が、少しずつ顔を歪ませてゆく。
口元をわななかせて、目の端から小さな雫をこぼしながら。
震える声で、きみが言う。
「さーちゃんは、泣き虫なんだから」
姉はいなくなったのだと、その時初めて、きみは理解できた。
そして一年半後、きみは水鏡中学を卒業した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
明日には、この街を離れようと思っていた。
暮らしてゆくだけなら、この街は居心地は悪くなかった。恐らくは姦神が手配していたのだろう、アパートの家賃や生活費などは毎月欠かさず振り込まれていた。だからこそ、きみはまるで自分に敷かれたレールの上を走らされているような気がしていたのだ。これは自由意志ではない。
行くならば、都会が良かった。誰も自分のことを知らなければ、喪失感にさいなまれることもないのではないかと思い込んでいた。
きみは卒業証書を持ち、いつも通り帰路につこうとしていた。
今ではきみのクラスでの扱いは変わり、無口な人付き合いを好まないキャラだと認知されていた。はっきり言って浮いている。それでもきみは、人を寄せつける気はなかった。
二年が経ったきみは、少し背が伸びて、さらに痩せていた。目を覆うほどだった髪は長く伸び、後ろ姿はまるで少女そのものだ。教室を出る今だって、興味と好意の熱い視線を感じていたが、きみはそれらを無視した。これも一年半で変わったもののひとつだ。
廊下を歩いている最中、ふと気づいた。というより、なぜ今まで閃かなかったのだろう。
『毅右研究部』には、もしかしたら精巧な左香の模型が残っているのではないだろうか。14才の誕生日の前日、姦神がきみの好みを聞いて作ったものだ。きみはずっと左香の写真を欲しがっていたから、それに似たもののためにならあの部屋に立ち入ることすらも構わないと思った。どうせきょうでこの学校とお別れだ。それならば、ときみは行く先を改める。
たったひとりで年月を過ごすうちに、心はとっくに凍りついていたものの、それでもやはり部室は特別な意味を持っていた。人目を忍んで女子トイレに入り、壁をノックするときには鳥肌が立った。
まだ機能は停止していなかった。壁は複雑な幾何学模様を描き、きみの前に暗闇の道を作り出した。きみはまっすぐに歩き、『毅右研究部』と書かれたドアを開く。
主のいなくなった部屋は、記憶の頃のままだった。
整理整頓が行き届いていて、埃ひとつ積もってはいない。ただ、姦神の遺体だけがなかった。未練か名残か、思わずため息が漏れた。
目を瞑れば、初の笑い声や安瀬倉の悪態、姦神がきみを呼ぶ声がどこからか聞こえてきそうだった。きみは顔を手で覆う。やはりここに来たのは間違いだっただろうか。
もう帰ろう。きみはそう思い、振り返ろうとした。
そこで、ホワイトボードが回った。
まるで、運命の歯車のように。
目を奪われてしまう。
半紙に墨汁が垂れてゆくように、板に文字が描かれてゆく。
『おめでとう、毅右くん。きみは見事、生き残ることができた。といっても、わたしの庇護を離れてもきみが無事でいられるかどうかは、いささか心配している。後任の姦神はわたしの知るところではないから、恐らくはきみに干渉することはないだろう。それでも、不慮の事故というのはどこにでもある。きみが幼い頃に体験してしまったように』
それは紛れもなく、姦神洵子の筆跡だった。彼女はまるでゴシック体のように特徴的な太い文字を書く。何年経ってもひと目でわかった。
まるで姦神がそこにいて、見えないペンを動かしているかのように文字は続く。
『さて、わたしの記憶が正しければ、きみにはまだお駄賃を渡してなかったと思う。わたしがいなくなっても、契約の履行は果たすべきだろうね』
その文面を見て、身構えていたきみは脱力した。姦神らしいと思う。律儀というかなんというか。
「……てっきり、アパートの家賃だとか、口座に振り込まれていたお金がそうだと思ってたんですけどね」
きみはつぶやく。なんだか懐かしい気がした。
『さて、わたしは悩んだ。難易度10を突破できるものにふさわしい品物とはなんだろう。いつものように1億面ダイスで決めてもいいのだけれど、それでは記念にふさわしくないのではないのかな。だからわたしはきみに選んでもらいたいと思う』
「選んで……?」
姦神の机の上、キラキラと白金色に光る一枚のカードが降ってきた。
『わたしは死を選んだ。きみは一体なにを選ぶのか。それを見届けることができないのが、わたしの唯一の心残りだったよ。それでは、きみの人生に幸多からんことを願って』
姦神洵子の結びの文字を最後に、彼女の手書き文字は止まった。そのとき、きみはようやく気づいた。これは姦神の遺書だ。きみが見ないようにしていた、一年半前の。
「……姦神さん」
きみは沈痛な面持ちだった。胸に当てた手をぎゅっと握り締める。
「あなたにはもっと、色んなことを言いたかったのに……」
今なら、ようやくわかる。
きみは姦神のことが嫌いではなかった。愛憎渦巻く気持ちは一言では言い表すことはできなかったが、彼女は紛れもなくきみの命の恩人だった。あの頃のきみにとって、姦神は脅威であり、世界の困難そのものだった。だが、代わりに姦神は色々なものからきみたちを守ってくれていたのだろう。少なくとも、孤独という病からだけは、疑いようもないほど確実に。
姦神は本当に死ぬしかなかったのだろうか。あのとき、姦神とふたりでいたときに、もっと違う道を選べなかったのだろうか。
それは何百回、何千回と繰り返したはずの自問だ。
きみはカードを掴む。これからもきっと、様々な不幸なことが襲ってくるだろう。中学を卒業してすぐに働き出すのだ。きっと辛い生活が続くに違いない。それでも、だ。きみは確信していた。今以上に悲しい気持ちにはならないはずだ。
きみは心の底から願う。失われた日々を今一度、と。
札を握り締めた次の瞬間、それはひどくもろく砕け散ってしまった。
「あ」
その欠片は手の中からこぼれ落ちて、辺りに光の粉をまき散らした。
しまった、と思った。まだどんな効果があるのかすら見ていないのに。
だがしかし、きみがその札の能力を知っていたとしても、結果は変わらなかっただろう。破滅的脅威【難易度10】を攻略したきみに送られたのは、“あらゆる願いを叶える”ためのアーティファクト。レジェンダリーをさらに越えるただひとつのレアリティ――アルメニティ。
姦神の遺した力は、一体きみになにをもたらすのか。
次の瞬間、きみのまぶたの裏で閃光が瞬いた。それはもはや懐かしき、人知を越えた力の発現であった。
きみの身体は輝きに満ちる。