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1.ラプラスの魔

 

 姦神洵子かがみ じゅんこは学校に棲む。


 妖怪や、怪異、そういったものの類ときみは考えていた。もしそうであったなら、信じられないほど位の高い化け物なのだろう、とも。少なくともきみは、姦神を自分と同じ人間だと思ったことは一度もなかった。

 きょうの授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響く。ホームルームが済んで、部活や帰宅にと急くブレザーの生徒たちに紛れ、きみは鞄を肩にかけて、姦神の待つ部室へと足を進める。


 そのときふと、新垣毅右あらがき きゆう、と誰かに呼ばれたような気がして、きみは振り返る。

 だが、きみを見ているものは誰もいなくて、きみは空耳だったのだろうかと思い直し、頬をかく。あるいはそれは、姦神に早く来いと急かされたのかもしれない。彼女ならそれもやりかねない。思わず背筋を正してしまう。


 放課後の開放感と倦怠感を存分に味わう生徒たちの間をかき分けながら急ぐ。部室に向かう途中、伸びた前髪をきみは鬱陶しそうに二度ほど払った。

 伝統ある中学校、公立水鏡中学は特別な部屋を持つ。そこは招かねざるものは足を踏み入れることのできない、奇妙な領域だった。


 二階の校舎裏側の廊下。特別教室が寄り集まっているエリアの、放課後は特に一部の部活動の生徒しか利用することのないトイレ。それも女子トイレに、きみは辺りを窺いながら足を踏み入れる。誰もいない。薄いピンク色の壁紙が一種独特の雰囲気を漂わせているような気がする。息苦しさにきみは小さくため息をつき、三つある個室のうち一番右奥の部屋へと立ち入る。洋室の便器を見下ろしながら、慎重に鍵をかけた。

 それから戸に背を向けて、つまりは壁に向かい合う。


「やっぱり、いつまで経っても慣れないな、これ……」


 きみは壁にノックする。血迷っているわけではない。変化は直後に訪れた。

 トイレのタイルが一枚一枚、光を放ち出す。一枚のタイルが光とともに消滅すると、残るタイルはまるで意思を持っているかのように激しく動き、やがて全てが光となって失われる。

 壁の消えた先には、真っ暗闇の廊下。そして、その奥に微光を放つ扉があった。その扉は西洋風とも和風とも呼べない幾何学模様が刻まれていた。

 きみはどこまでも落下してしまいそうな暗闇を渡り、その扉に手を当てる。視線の高さには、取ってつけたような中学校らしい表札が見える。


『毅右研究部』――と、描かれている。

 姦神は、そこに潜んでいる。

 

 

 扉を開いたきみの目に映る光景は、なにも変わったところのないような教室だ。ただ、生徒が使用するような椅子と机はほとんど撤去されており、中央に会議室のような大きな平机が鎮座している。どちらかというと、職員室に雰囲気が近いだろう。横手にはホワイトボードが立っていた。その奥に、隣の準備室へと繋がる戸も備えている。

 窓から見える景色は、実質的には二階のトイレからのそれとまったく同等なのだった。だからといって、ここがトイレにある空間なはずもないだろうが。


 そのひどく奇妙な一室において、姦神はいつも通り窓を背に定位置の机に腰掛けて、分厚い本を開いていた。コンクリートブロックのような書物を、姦神は泡を弄ぶように人差し指の一本で持ち上げている。

 足を組みながら、彼女は何かを考え込んでいるようで、時折「ふうむ」といった唸り声を漏らしていた。それはあまりにも演技じみていて、まるでリアクションを求められているような気がしたきみは、ひどく居心地の悪さを感じた。


 黒のスーツをまとう彼女は、ウェーブのかかった金色の髪をしていた。以前の彼女は、もっと違う髪の色をしていたはずだったが、何色だったか急には思い出せなかった。ただ、彼女が部員の安瀬倉あんせらに薦められて、今の髪型に落ち着いたのだということは覚えている。安瀬倉がしばらく『綺麗綺麗』と、そういう鳴き声の犬のようにうるさかったからだ。


 ただ、姦神が綺麗であることに関して、異論を挟む余地はないように思えた。目鼻立ちも唇も、顎の細さも肌の白さも、極めつけは彼女の醸し出す空気までもが、それ以外ではありえないというほどに完成され切っているのだ。しかし、きみは彼女の見栄えが美しい点をそれほど評価してはいない。だが同時に岩のような本を指で支えることを両立できるものはいまい。


「来たね、毅右くん」


 姦神はガラスを指で弾いたような澄んだ美しい声色で、短くつぶやいた。しばらく前から気づいていただろうに白々しい、とはきみは思えない。彼女は舞台上の演者のように、いつだって機を伺っているのだ。

 姦神が本を指で弾くと、伸びたゴム紐が元に戻るように書物は棚に収まった。まるで魔法のような仕業だが、そうであったとしてもきみは不思議には思わないだろう。


「おはよう、きょうの機嫌はどうだい?」


 姦神の玉眼がきみを見つめる。満月にも似た金色の瞳がゆらゆらと揺らめきながら、きみの心の奥底までを覗くように輝いていた。わずかに息が詰まる。


「きょうは、その、普通です」

「普通か。ならば悪くないということなのだろうね」


 正直に言うと、きみは姦神が怖かった。いつまでたっても、この女性の放つ鬼謀の妖気に慣れることはない。部には他にきみを含めて四名の部員がいるのだが、きょうは他に姿が見えなかった。つまりは、きみと姦神だけの密室だ。


「きょうもね、きみという人間を深く掘り下げようじゃないか」

「はあ」

「先ほどの本にもね、人をより知ろうとするときにはその人が何を好きかを学ぶべきだ、と書いてあったのさ。わたしはなるほどと思ったよ。嗜好にはその人が生きてきた経験が反映されるのだから、わたしの目的とも合致する。――とまあ、前置きはそれくらいで良いだろう」


 姦神はパチンと指を鳴らす。

 すると次の瞬間、教室の壁という壁が次々とひっくり返った。四方八方の壁に拳大の正方形のパネルが隙間なく埋め込まれていたようである。何百、何千というパネルには、それぞれにランダムな七桁の番号が振ってあった。きみはその中のひとつを選ばなければならない。


「さあ、今回はどれにする?」


 姦神はきみに選択を促す。姦神は、「もちろんきみの自由意志を尊重するよ」と言っていたが、そんなのは戯言だ。パネルの裏の文字を透けて見ることができる力でもない限り、所詮は天運次第なのだから。

 自分の運命がこれで決まってしまうのかと思うと、なかなか踏ん切りがつかなかった。パネルに記入されている内容は千種万様で、その中には時に、命を賭けなければならないような難題すらあるのだ。

 姦神の視線に晒されたまま、きみは唸り、決断した。窓側の一枚を指す。


「じゃあ、それでお願いします」

「1052807だね。よし、わかった。それじゃあめくるよ」

「……はい」


 身を切るような思いで待っていたきみの前で、その一枚以外が全て反転して元通りになる。選んだパネルは姦神の手元に引き寄せられてきた。それを裏返すと、描かれていたのは、難易度、それに題名。


「難易度、【2】……」


 つぶやいたきみの声には、安堵の色が多分に含まれていた。


「良かった……これできょうも、生きていける……」

「きみが気に掛かるのは、その一点のみかい」

「痛いのや怖いのはごめんですからね。それだけが問題ってわけじゃないんですが……」


 きちんと否定はしておかないと、姦神が次になにを思いつくかわからない。きみは手のひらを左右に振る。


「……というか、なんですか、今回の。なんか、妙に青春映画的な匂いがするんですが……」


 できれば見たくはなかったが、題名を視線でなぞる。


『――毅右の好きな女性のタイプを突き止めよう選手権』


「きみのその表現は、わたしには伝わらないが、ふむ、そうだな。どれどれ」


 姦神がそうつぶやくと、前触れもなくホワイトボードが音を立てて裏返った。きみはそれなりに驚く。

 ボードの裏には姦神が書いたとおぼしき説明書きがあった。


『まともな情欲とはかけ離れた暮らしを送る中学二年生のうら若き男の子! 彼が好きになるような女の子とは一体どんな子なのか! 毅右くんの心の奥の奥を迫る!』


「……」

「ということだ」


 彼女は最初から自分がこのパネルを選ぶことを知っていたのだろうか。それこそが未来を見通す目を持つときみが主張するに足る証拠だと思うのだが、姦神はその疑いを否定し続けている。それはともかく。


「相変わらず、文章だとすごくテンションが高いですね……」

「来たまえ」


 威圧的な言葉で招かれる。椅子を持って姦神と向かい合うように座り直すきみは、落ち着かない様子で視線を動かしていた。


「えーとその、二者面談みたいですね」

「これからきみに、多くの質問を浴びせよう。そうすれば結果として、きみの好みに最適化された少女の姿が浮かび上がるはずだ」


 そんなことをして何になるのかと思いを馳せることはまったくの無駄だった。この点に関しては今までの経験から、きみはアリになろうと決めていた。女王に使われる働きアリだ。そもそも『毅右研究部』なるもの自体が姦神の道楽でしかないのだときみは思っていた。

 きみは自分から進んで口を開く。協力的なのは、ただ単に早く帰りたいだけだ。


「あの、手っ取り早く、こういう人がタイプだ、ってぼくが言うのはNGなんでしょうか」

「いいや、悪くないよ。聞いておこうじゃないか」

「……それじゃ、その。ぼくは、ういちゃんみたいな子がタイプです」


 改めて口に出すと、恥ずかしさがこみ上げてくる。歳の割には落ち着いているとはいえ、きみはまだ思春期まっただ中なのだ。姦神はそっけなく「へえ」とだけ返してきた。

 上無初かみなし ういは毅右研究部の部長であり、きみのクラスメイトであり、きみと同様に姦神の奴隷であった。四人しかいない部活で初が欠席するということはまずありえなくて、恐らくは姦神から何らかの使いを頼まれているのだろう。

 ふたりきりの沈黙に耐え切れず、きみは畏れよりも恥を選ぶ。


「だって、初ちゃんは気配りができますし、優しい上に頭も良くて、なにかあるとすぐ力になってくれて、こないだだって忙しくて間に合わなかったプリントを丸々写させてもらったし……そ、それにもちろん顔もすごくタイプです。つまり、その、初ちゃんで」

「きみは上無初をそう思っているんだね」

「まあ、本人の前では言えませんが……はい、おおむねは」

「なるほど。では、質問に移るとしよう」

「えーと、これで終わりってわけには……いかないんですよね。はい、わかってました」

「これから更に突き詰めていかなければならないからね。きみの意見は参考程度に受け取っておくとするよ」


 きみはウソを言ったつもりも、ごまかしたつもりもなかったのだが。


「では、なにか必要なものはあるかい?」


 姦神がお決まりの言葉を口に出す。きみは少しだけ考えて、それから首を振った。


「別に、ないと思います」

「そうかい? いつも通りきみは欲がないね」

「まあ、きょうは難易度2ですからね……」


 そういえば、最近は低難易度が続いているものだ。平和でなによりだ。

 姦神はどこかからクリップボードを取り出すと、ボールペンを片手にきみに問う。


「では、第一問。髪の長さはどれくらいがいいかな」

「えーっと……」


 姦神の問いに、きみは辛抱強く丁寧に答えを返してゆく。中には相当に答えづらいような質問もあり、それらと真剣に向き合うためには強い精神力が必要だった。


「……恥ずかしいんですが」

「第百十七問。胸の大きさや形についてなのだが」

「そ、そういうのはまだあんまりこだわりがないんですが!」

「そんなことでは困るよ。今ここで決めたまえ」

「……く、くっそう、なんだこれ。心の皮を一枚一枚剥がされている気分だ……」


 きみが陵辱だと感じる時間はまだしばらく続く。

 質問が終わると、今度は姦神がきみの解答を元に模型を作り始めた。これ以上きみに恥辱を味わわせるつもりらしい。自らの妄想が形となってゆく工程を、きみは遠い目で見つめていた。

 結局全てが済んだのは、開始から二時間後。もう日も落ちて暗くなった頃合いだった。きみは姦神が用意してくれた紅茶をすすり、大きなため息をつく。


「以上で本日の活動は終了だ。お疲れ様、毅右くん。さあ、報酬を受け取るといい」


 姦神はフィギュアのような模型を弄びながら、パネルを指す。立ち上がったきみがパネルに触れると、それは燐光を振りまきながら安っぽい角系封筒に形を変える。

 きみは獲物を狙う猫のように掴むと、即座に中身を確認した。封入されているものが賞状やキャンディの包み紙である場合も、少なからず存在しているからだ。

 今回は――現金だった。日本円の万札が数枚。


「……良かった……これで滞納しているアパートの家賃が、今月ようやく払えます……」

「おや、そんなに駄賃をあげていなかったかな」

「ええ。そろそろ本気で姉の制服を売ろうかどうか悩んでいましたよ」

「それは悪いことをしたね。お詫びと言ってはなんだが、そういえば明日は毅右くんの14才の誕生日じゃないか」

「……ええ、まあ」


 姦神の言い方に、きみは引っかかりを覚える。


「記念すべき日だ。きっと、気に入るようなプレゼントを用意しておくよ」

「……そ、そうですか」


 放っておいてもらえるのが、なによりも一番の贈り物だというのに、ときみは思う。

 話が一区切りついたそのとき、狙ったかのように部室の扉が開いた。きょとんとした子犬の目がこちらを見やる。長い黒髪が風もないのに特徴的に揺れていた。


「こんばんは、姦神先生。きーちゃん、終わりました?」


 新垣左香あらがき さきょう。きみの双子の姉にして、唯一の肉親。

 そして、きみがまだ知らない“きみの生きる理由”のすべてである。


「うん、いま終わったところだよ。それじゃ姦神さん、ぼくはこれで失礼します」


 きみは帰り支度を整えて、そそくさと席を立つ。そうしなければならない理由があるかのように。

「いいだろう。気をつけて帰るんだよ」と、姦神がほんの少しだけ教師のような顔をして、きみたちに手を振る。

 きみはうまく左香の視線を遮ろうと動くものの、今回ばかりは通じなかった。


「あれ? どうしてわたしの人形があるんですか?」


 左香はそう言い、きみの肩越しに姦神の机の上を指した。左香が自意識過剰なわけではない。気持ち悪いほどに似ているのだ。きみは苦虫を噛み潰す。


「……これはね、自由意志という名の誘導尋問だよ。ぼくは答えているつもりが、答えさせられていたんだ」

「なんかそういう話あったような……?」


 左香が顎に手を当てながら視線を姦神に向ける。姦神はうなずいた。


「フランスの科学者、ピエール・ラプラスの提唱した確率論だね。通称、ラプラスの悪魔。仮にわたしが宇宙の粒子の位置を全て知ることができれば、不確定要素も含めた今度起きるあらゆることが予測できるという内容だけれど、もちろんわたしにはそんなことはできないさ」


 どうだろう、ときみは疑ってかかる。


「人の自由意志だけは、わたしにもどうすることができないからね。わたしはそこに手を加えることはできない。これは本当だ」


 今の証言が真実だとすると、姦神は宇宙の粒子の位置は知っていることになる。それはなかなか恐ろしい想像だ。

 ともあれ、話を逸らすことには成功したようだ。きみたちは姦神に挨拶をして部屋を出た。左香は気楽に手を振っていたりもする。姉はきみと違って、少しも姦神を恐れていないのだ。

 女子トイレから抜け出すときにはいつもヒヤヒヤした。恐らく誰にも見つかることはないのだろうと思うが、それでもこれは道徳性の問題だ。

 廊下を歩いていたところで、急に左香が立ち止まって手を叩いた。


「あ、ごめんなさい、きーちゃん。わたしちょっと姦神さんに用事がありました」


 左香はどこか抜けている。きみは慣れていた。


「そっか。じゃあぼくはどうしようかな」

「ごめんなさい、お待たせしちゃって」

「いいよいいよ、お互い様だし」


 一緒に行く気はなかった。きみは手を振って左香を見送る。どうせすぐに終わるだろう。

 下駄箱で待っていると案の定、10分もしないうちに左香が追いかけてきた。息を切らしてやってきた彼女に「どしたの?」と聞くと、左香は「本を返して、また借りてきまして」と答えてきた。その笑顔はどことなく、いつもとは違うようにも見えた。


 まあいいやと思い、きみは靴を履き替える。彼女と姦神の間にどんな会話が為されたのか。左香の自由意志を想像したところで、仕方がない。

 

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