17.無限背進
生きていてほしいと願っていたけれど、願いは届かなかった。
きみには全てが見えていた。破壊された燐も、魔王に捕食された無残なロサエッテの姿も、その遥か上空で飛び回るふたつの超生命体の激闘も。
「あーっはっはっは! 死ね! 死ね! 死ね死ね死ね!」
四枚の翼を生やして飛翔していた安瀬倉が、歓喜に震えながら破壊の炎をまき散らす様も、もちろん見えていた。
彼女はたったこの一日を夢見ていたのだ。安瀬倉の役目はまず魔王を倒すことであった。それが達成されてようやく、舞台に立つことができる。だから安瀬倉は14年間で習得した全ての天使の力を使って、魔王を殺すためだけに戦っていた。
一呼吸の間に数千の光線が放たれ、瞬きの間には数万の破壊の意思が飛び散った。
彼女が歓喜の因子から引き出し放つ“神霊力”は凄まじく、その輝きの前には魔王ですら力負けするほどであった。
「あーっはっはっはっは! 楽しい! 楽しい! 破壊するのって楽しい!」
「っだークソ! てめえのパワーは底無しかっての! あんな雑魚どもから魂を吸い取ったところで、腹の足しになりゃあしねえ!」
白と黒の光輝が激突を繰り返し、離れ、再び接触し、火花を散らす。その超越的な戦闘は物理法則の手を離れ、他のあらゆる生命体であろうとも干渉することのできない高みに到達していた。もしふたりが地表付近で戦闘行動を行なっていたのなら、初を除く参加者の一切は余波に巻き込まれて死滅していただろう。
《天使》安瀬倉ジゼルの強さの真髄は、彼女自身が永久機関のひとつであることに由縁する。彼女の生命核の中心に埋め込まれた“歓喜の因子”は、安瀬倉が愉悦を感じ続ける限り、永遠にエネルギー“神霊力”を供給する。その力は魔王の防壁を突き破り、その胸に剣を立てる可能性を秘めていた。
同等以上のパワーを持っていたはずの魔王であったが、永久機関を持たない生物である彼は天使の猛攻を受け続けることができなかったのだ。エナジードレインが安瀬倉に通用さえすれば、ふたりは果てることなく終わらない死闘を繰り広げていたろうが、聖なる属性を持つ安瀬倉は魔王の糧とはならなかった。
だが、互いにまだ切り札は隠し持っている。単純にエネルギーとエネルギーのぶつかり合いだけでは済まない何かをだ。互いに機会を伺い、必殺の一撃を繰り出すその一瞬を見計らっていたのだ。
「良い気になってんじゃねえぞ……! 小娘が……! ああ?」
先に気がついたのは魔王であった。彼は飛翔を停止する。
「……ンだ? これは」
頭に血が昇った安瀬倉が口を開いてなにかを怒鳴っているのが見える。だが彼女の発した声が耳に届かない。それは音速が世界に追いつかず、時空がねじ曲げられている証拠であった。超高速で戦っているときには、一秒が長く感じるほどの時間の流れを体感することはできる。だが、魔王は宙に停止している最中だったのだ。
何者かが時空を操作している。物理法則を超越した何者かが、だ。
それを引き起こしたのは、他でもない。
きみだ。
きみが、ふたりの前に現れる。きみは燐光を放ち、その黒髪は長く伸びていた。初と瓜二つの姿を持つきみは、天使と魔王の間で浮遊をしていた。
『なんというかね、嫌なんだ』
きみは彼らに向けて、思念で告げる。
『友達を殺すのに、いちいちさ……ごめんねとか、申し訳ないからとか。自分が生きるための理由を正当化する気はないんだよ。そういうの、もう疲れたんだ』
ロサエッテのように空っぽになれたなら、どれだけ良かっただろう。しかしきみには、どれだけ傷つき、傷つけられても、守らなければならないものがあったのだ。
『同感だわ! 死ね!』
安瀬倉が手のひらから熱弾を放つ。神霊力の塊であるそれは、きみの前で見えない壁に阻まれて爆砕した。赤い火花が散った後、きみはまったくの無傷である。それは言うなれば、格の違いだった。
『だからさ、安瀬倉。きみもぼくのことを恨んでくれよ。そのほうが、たぶん、嬉しい』
『それさあ、まるで勝ったような口ぶりよねえ、人間がさ。どうやってそんな力を手にしたのか知らないけど、使い方がわからないようじゃただのヒトガタでしょ!』
安瀬倉の頭の上のエンジェルリングが高速で回転を始める。それとともに彼女の翼がまばゆい輝きを放ち出した。
『まあ、そうだね。でもさ、ぼくもずっとずっと鬱憤が溜まっているから、凄惨を極めることになっちゃうと思うけど』
きみは両手からそれぞれ小さな光球を呼び出した。ピンポン玉のような大きさのそれを見て、安瀬倉と魔王は顔を歪めた。彼らはこれがなにかを知っているのだ。
『マジかよオイ……そいつをどうしようってんだよ、少年よ……』
『嘘でしょ、毅右のくせに……』
彼らは今、きみを畏怖していた。それは、きみが燐やロサエッテに感じていたそれと、まったく同じ性質のものだった。唯一違うところがあったとしたら、きみが彼らに一切の加減も、躊躇も、慈悲も持ち合わせていなかったことだろう。
魔王が両手からフィガロのものとは比べ物にならないほどの雷撃を繰り出してくる。空一面を覆い尽くすほどの稲妻も、きみには触れることすらできない。続いて安瀬倉が四つの翼を羽ばたかせて竜巻を発生させるが、やはりきみには当たらなかった。衝撃波も光の奔流もまるで無駄。空間の軸をずらしたきみには物質はおろか神霊力・魔力すら干渉できないのだ。
今度はきみの番だ。
安瀬倉と魔王の周囲を円形の空間で覆い、隔離。彼らの動きを止めるとともに、その結界の内部に先ほど発生させた両手の太陽を転送させる。
『なかなか強引なやり方するじゃん!』
『一気にカタをつけるつもりかよ!』
脱出を図る彼らは、渾身の一撃を繰り出す。魔王は右腕から竜を模した魔力の塊を、安瀬倉は胸の前から虹色の矢を。そうして見事に結界を打ち破ったふたりは、すぐに愕然とした――
結界を破ったそこには、更なる結界があり、その外側には綿々と内外を隔てる空間の断裂が、クラインのツボのように続いていたのだ。
『そんな』
安瀬倉は絶句していた。時間を歪ませる術を持っていたきみが、さらに空間をも支配することができる事実に。
きみの――“超越者”新垣毅右の想像力は無限大だった。破壊のイメージは力であり、その全ては実現するのだ。
『じゃあね、安瀬倉。また会えたら、今度は普通の友達同士になれるといいね』
安瀬倉がなにかを叫んでいたが、きみの耳には届かなかった。もしそれが命乞いの言葉だったら、きみはどうしていただろう。もはやきみの目には、彼女が人の形をしているようにすら見えていなかったのかもしれない。
きみは彼らの結界内に転移させた太陽を、起爆させる。安瀬倉と魔王の顔が照らされ、同時に彼らは光に飲み込まれた。
――空に太陽がふたつ輝いた。
彼らの断末魔は断絶された空間により、やはりきみには届かない。
何もかもが白色で塗り潰された世界で、きみは目を閉じ、そうして時を数えた。変身の種を飲み込んで一秒が経つ。光は未だ収まっていない。
安瀬倉と魔王を焼き尽くしたきみは、それだけには留まらない。やらなければならないことが、まだあったのだ。
知覚を総動員させる。だが闇の帳の向こう側を巧く探ることはきみにはできなかった。きみは可能な限りに時間の流れを停滞させながら、市街エリアを目指す。
転移を繰り返し、きみは人ならざる力を最大限に利用して翔んだ。
戦うことに比べて、探すのは骨が折れた。時の流れを認識すると二秒が経過してしまう。きみは焦燥に頭痛を覚えながらも、少女を探し尽くす。
『いた……!』
黒髪の少女は、森の中にいた。きみは全速力で接近し、そして手刀を振り下ろした。回り続ける彼女に向けて。
燐が全身全霊をかけても傷ひとつつけることができなかった冥王星を、きみは一刀両断する。なにが起きたのかわからないという忘我の表情で、少女はこちらを見つめていた。目が合う。彼女はなにかを訴えかけてくるようだった。
どうしてだか、その時になって初めてきみの中に罪悪感が鎌首をもたげた。汚泥の泉がぽこりと泡立ち、ぞくりと悪寒が走る。冥王星の胎内が赤く光る。ただの惑星でしかない彼女は、恒星のように赤色巨星となることもなく、その体はみるみるうちにメタンの氷に変わり溶けてゆくのだ。きみはなぜだかその姿から、目を離せなかった。
冥王星がこちらに向かって精一杯の指を伸ばしてきた時、彼女の変化は終わった。斜めに裂かれた姿のまま蒸発してゆく彼女は、すぐにこの世から完全に消えてなくなった。
そして、きみに与えられた時間は、そこまでだった。
長かった黒髪が抜けて落ちてゆき、きみは元の姿を取り戻す。
「……もう、終わり、か……」
先ほどまでの全能感が手のひらから霧散してゆく。拳を握ると、心配していたような副作用はなかった。だが、取り返しのつかないなにかを失ってしまったような気もする。
めまいがした。体が上手く動かせない。きみは森の草むらで大の字になって寝転んだ。
「……これで、全部、かな……」
すると急に視界が回った。めまぐるしく変わっていた知覚情報の残滓が、きみの中枢神経をおかしくさせている。目に入る景色がチカチカと輝き、きみは思わずその場でえづく。
「さ、あとは……さーちゃんを、探さなきゃ……」
そうして、
そうして、
きみは、左香を殺すのか?
「……さーちゃんを、探さなきゃ……」
うわ言のように繰り返すきみは、いかなる決断を下そうとしているのか。
立ち上がり、足を這うように進めるきみの学生服はもはやボロボロで、何年もの旅路を歩んできた冒険者のようであった。
顔は泥にまみれて、その面持ちは険しく、それでも一歩一歩と進んでゆくきみは人間の尊厳を皆に知らしめているようだった。
「さーちゃんが、きっと、ぼくを……待ってて……」
もしかしたら、初の力を使えばこの空間から逃げ延びることもできたのかもしれない。それでもきみは、そうしなかった。
きみはこう思っていたのだ。
左香がいない世界で、ひとりで生きるのならば――
誰も存在しない世界で、たったふたりで生きていたい――と。
なにも生物のいないこの世界で、姉とふたりで生き続けるのだ。姦神が許してくれるのなら、永遠に。姉はきっとわかってくれるだろうときみは思う。きみがどんなにわがままを言っても、姉は最後には必ず賛成してくれた。
「さーちゃんはホント、甘いんだから……」
何年でも、何十年でも、ふたりなら過ごせるだろう。この世界には色々なエリアが広がっている。近未来エリアなら高層ビルに住むことだってできる。左香とくだらない話をしながら生きていこう。きっと籠の中の鳥のように幸せでいられるはずだ。
「ふふふ……さーちゃん、今、迎えに行くから――」
微笑するきみの耳に一匹の獣の咆哮が聞こえたのはそのときだった。
心臓が締め上げられるような気がした。きみは思わず立ち止まる。
「……え?」
致命的な間違いを犯してしまったのだ。こんなはずではなかった。全身が冷える。
左香が虎を槍で刺し、燐がスライムと魔術師を消し去り、燐とロサエッテが魔王に喰われ、きみが初を刺し、安瀬倉と魔王を焼き尽くし、冥王星を割って――
それで9名だ。
残るは、毅右、左香――
――そして、ケルベロス。
「は……」
決して忘れていたわけではない。そうだ。これは手違いだ。だって燐があの魔物にミサイルを撃ち込んでいたではないか。死んでいなかったなんて知らなかった。確認ミスじゃない。普通は死んだと思うはずだ。それが当然の考えだ。自分は間違っていない。
残る道具はたったひとつ、紙を切ることしかできない【カッターナイフ】だ。
「はは、はははは……」
全身から力が抜けて、きみはその場に膝をつく。
きみはなぜだか、笑ってしまっていた。まるで感情のタガが外れてしまったように、そしてなにもかもが壊れてしまったかのように。
「あはははははははははははははは」
笑い声がノドの奥から、まるで自分のものではないかのように、溢れ出ていた。臓腑から流れ落ちる血のように、止まらない。痛みもまた、続いてゆく。
しばらく経って、息が続かなくなったきみは、軽い酸欠状態に陥る。
「……ハァ、ハァ……ハァ……そっか。きみもまだ生きていたんだね、ケルベロス……」
きみは、それでもまだ、立ち上がるのか。
どうして、歩き出すことができるのか。
「じゃあ、やるしかない、よね……さーちゃんを探すのは、それからでも、遅くはないんだから……」
自分のためか、左香のためか、あるいはもっと違うなにかのためか。
きみは自分の身体に血の匂いが染みついていないかどうかを確かめる。汗や泥でもう汚れまみれだ。左香がシャワーを浴びたのが、遠い昔のように思えた。
「まだ、時間も十分ある……あの犬に見つからないでくれよ、さーちゃん」
きみは苦難の路を辿り、その鋼鉄のような意思で、諦めることを許容しない。