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15.カルネアデスの板

 きみはいつの間にか、眠っていたようだ。よほど精神的な疲労が蓄積していたのだろう。

 薄目を開く。雨はいまだに降り続いている。暗闇の中、ロサエッテがこちらに尻を向けて屈んでいた。きみが身じろぎをすると、彼女は振り返りながら口元に人差し指を立てる。


「静かにな」

「……どうかしたの?」


 きみがロサエッテの隣に並ぶと、彼女は顎で前方を見るよう促した。そこには、蠢く影があった。あまりにも巨大で、距離が上手く把握できない。まるで闇そのものが躍動しているような気さえした。


「なん、だ……?」


 徐々に目が慣れてゆく。すると、その全貌が明らかになっていった。まず黒い毛に覆われた巨大な前足があり、その輪郭を追うと、長い胴から後ろ足へと続いていた。再び視線を戻す。頭部はかなり高い位置にあり、それは真っ赤な輝きを帯びていた。一対の――いや、三対の両眼だ。揺れながら動く赤い光は、全部で六つあった。


「わからない。ただ、こちらにはまだ気づいていないみたいさ」


 あれは三首の怪物――ケルベロスだ。


「このまま、やり過ごす?」ときみが聞いたものの、ロサエッテは答えなかった。その目つきは鋭く、ひどく集中しているのがわかった。

 彼女は戦うつもりなのかもしれない。そう感じた瞬間、緊張感が場を包み出す。

 ロサエッテは目をケルベロスから離さず、大剣を引き寄せる。渋い顔をしていた。


「ゼンッゼン隙がないな……あれをひとりで倒すのは、骨が折れそうさ……」


 彼女は自身と相手の戦力差を図っているようだ。


「命がけの戦いになっちまいそうだな……今は、やめとくか。先にキユウの姉を探してやんないといけないしな」


 ケルベロスは地面を揺らしながら、荒野の先へと消えてゆこうとしている。

 警戒を解いたロサエッテが振り返ってくる。きみを見て、眉をひそめた。


「どうした、キユウ……あんた、戦いたかったのか?」

「え?」


 考えてもいないことだ。きみは己の頬に手を当てた。


「どうして?」

「そういう顔をしていたぜ」

「ぼくは、ただ……」


 ケルベロスを放置してしまえば、もしかしたら左香が襲われるかもしれないと考えただけで。どきん、と心臓の音が高なった。走り出した不安は止まらない。離れてみて初めて、きみはどれほど左香のことを心配していたのかと気づいてしまった。


「……そんなに、あの女の子のことか大切、なんだな」

「そういうわけじゃない、と思うのに……」

「心は素直なもんさ」


 ロサエッテが言うなら、それは真実なのだろう。肩を軽く叩かれる。そうだ。人にはできることとできないことがある。


「大丈夫、わかっている。無駄死するわけには、いかないんだ」

「そりゃそうさ。まだ子供も作ってないんだから」


 お腹を撫でて笑うロサエッテに、きみは赤面した。


「やめてくれよ、ぼくをからかうのは。そういうの慣れないんだ」

「いやだね。面白いからやり続けるよ」


 つい先ほどまで命を取り合っていた少女と、今はこうして笑っている。自分はなんていい加減なんだろうと思う反面、少しだけ楽になってしまう。きみはもっと自罰的にならなければならないと思いながらも。

 そのとき、ロサエッテが弾かれたようにケルベロスの去っていった方向を向いた。彼女の耳がぴくぴくと動いている。


「なんだこれ……聞いたことない音だぞ」


 その声の低さで、状況の深刻さを感じ取る。


「どうしたんだ、ロッテ」

「初めて聞くタイプの……とにかく、奇妙なやつがいる。音をまき散らして、ったく、なんて騒がしいんだ。癇に障るぜ」

「それって――」


 言いかけたところで、咆哮が聞こえた。耳をつんざくような雄叫びだ。ロサエッテの耳を持っていなかったとしても、そこに込められた感情が理解できた。怒りだ。

 きみとロサエッテは目配せをし、走り出す。ケルベロスとなにものかが戦いに突入したのだ。ということは、その二匹を同時に倒すチャンスでもある。


 ふいにきみは既視感を覚えた。これこそまさに、燐とスライムが戦っていたときのロサエッテの思考そのものではないか、と。

 主義も主張も持たない玉虫色の自分の愚かさに絶望しながらも、走る。

 雨はいつの間にか止んでいた。頼りない月の明かりの下、きみはなんども滑る地面に足を取られそうになったが、そのたびにロサエッテが支えてくれた。地面の凹凸さえも、彼女は聴覚で感知しているかのようだった。


 開けた場所。ケルベロスと対峙していたのは、赤い双眸の巨人であった。その二体が向かい合っている姿は、まるで神話の中の決闘のようだった。今まさに戦いの幕が開ける。その瞬間にきみたちは居合わせていた。

 ケルベロスの真ん中の顔が口蓋を開き、その奥から火炎を吐き出した。辺り一面が真っ赤に染まる。きみとロサエッテは離れた場所で顔をかばう。

 その炎により、巨人の正体が明らかになった。両脚が非常に大きいのは、二足歩行で己の体重を支えるためだろう。体は金属で作られているようで、右腕と肩には重火器が装備されていた。そして、その中央にさらに小型の人が収まっている。


「――燐!」


 きみは思わず叫んだ。身を隠すことも忘れて。

 パワードスーツを身にまとったアンドロイドは、まさしく死んだはずの燐だった。


「あいつは、あたしが真っ二つにしたはずの!」


 そう、確かに胴体を分断した。だが、アンドロイドがそれで機能を停止しなければならない道理はない。燐はきみたちに見向きもしなかった。ケルベロスが動き出す。

 ケルベロスが燐に向かって体当たりをする。燐は激しい駆動音とともにケルベロスを受け止めて、その頭蓋に右腕のガトリングを押しつけた。

 マズルフラッシュ。ケルベロスの頭からおびただしい量の血が噴き出た。魔犬の叫びが闇にこだまする。


「それより、なんだあの武装は……あんなの、一言も……」


 燐はケルベロスを圧倒していた。確かに700万ヒューマンパワーのスライムを撃破した燐だが、あのときは単独ではなかった。それが今では、二倍の力の差を埋めて余りあるだけの戦闘力を手に入れている。

 ケルベロスの返り血を浴びて真っ赤に染まった燐は、こちらに――いや、きみに銃器を向けてくる。


「燐! ぼくだ、わからないのか!」


 きみの悲鳴は、多銃身による発射音によってかき消される。間一髪のところでロサエッテがきみの首根っこを掴んで飛び退いていたおかげで、きみの命は救われていた。

 薬莢が地面を叩く。今度はケルベロスは燐に向かって稲妻を浴びせていた。共に、ロサエッテが跳ぶ。獣人の勇者の振るう剣は、たやすくパワードスーツの左腕を斬り飛ばした。


「図体がデカくなっただけなら、的じゃねえか!」

「違う! ロッテ、離れて!」

「ああ?」


 燐がパワードスーツを身につけていることの恐ろしさを、きみだけが理解していた。彼女は見る限り、指先と頭部に繋がったコードによって機体を制御しているようだ。ということは、燐は単独で“天神”を放つことができる――

 辺り一面に閃光が瞬いた。全方位に放たれた光は、燐の周囲を根こそぎ消失させていた。ケルベロスは頭のひとつが失われており、ロサエッテの姿はどこにも見えなかった。


「……そんな……」


 絶句するきみに向かって、燐は口を開いた。


「毅右くん、仲良くなれそうだったのに、残念だな」

「――! 燐、きみ、意識が」

「うん、あるよずっと。おかしなことじゃないでしょ」


 傷だらけのケルベロスは、きみたちに背を向けて走ってゆく。燐の肩口のミサイルポッドが開き、撃ちだされた多弾頭がその後を追跡する。ケルベロスは逃げきれなかった。遠くで大爆発が起こり、衝撃波と熱風がきみの髪を揺らした。

 燐はきみを見下ろし、きみは彼女を仰ぐ。


「燐、目が覚めたんだよ。あと少しで自己修復プログラムも間に合わないところだったけど、運が良かった。おまけに“極神”の解除コードだって、ドライブの底から見つけられたし」


 燐がきみの言葉を聞き入れなかったのはハイマスターガードも破棄されたからだ。つまり今の燐は、彼女がずっと過ごしていたときの、最も自然な姿なのだ。

 ガトリングガンをきみに向けたのも、彼女の意思ということだ。


「燐、ぼくを殺すのか」

「……そういう言い方、されても困るし」


 だって、と彼女は言い訳めいた言葉を口にする。


「そうしなきゃ、いけないんでしょ。燐、姦神先生の言うことには、逆らえないよ」

「皆殺しにしろ、だなんて言われてないだろう!」

「でも、だからって、そういうことなんでしょ! 別に、生きていく理由なんてないけど、またひとりぼっちになっちゃうの、ヤだけど、でも、でも!」


 抉られた大地。薬莢の転がる荒野。真っ赤な月が輝く夜。燐ときみは対峙する。


「さーちゃんが、言ったじゃないか。一緒に、逃げようって……そういう、そういう道だって、あるはずじゃないのか、燐……」

「っ」


 燐はきみを睨む。


「こんな燐を拾って、生かしてくれたのは姦神先生なんだよ! だったらこの命は、姦神先生のために捧げるべきだって、思わないの!?」

「――」


 燐の指摘したことは、きみが思っていたことだった。姦神はきみたちを自分の所有物としているのではないか、と。だからこそここまで好き放題ができて、それでいて――きみもまた、遠からずそれを認めてしまっているのではないか。

 歯を食いしばり、こちらを見つめてくる燐は、まるできみそのものだった。


「姦神先生が、燐たちのもがくさまを見て、それで喜んでいるんだったらさあ! できることは、その役目を精一杯果たして恩返しすることぐらいじゃないのかなあ!」

「――違う!」


 きみの怒声が燐の金切り声を上回る。


「ぼくたちの命は、ぼくたちのものだ! 誰にだってそれを好きにする権利なんてない! 生きていたいなら、生きればいいんだよ! それがあの人の言う“自由意志”だろう! そうしたら、きっと、姦神さんだって……」


 そうだ。きみはまだどこかで姦神を信じている。この“活動”には意味があり、姦神なりの解法があり、自分たちは道を間違えているだけなのだ、と。


「先生が……」

「姦神さんは、得体が知れなくて、怖くて、ゾクッとするような目をすることもあるけど……でも、ずっとぼくたちのそばにいてくれたんだ……生きるための手伝いをしてくれた。それが、ぼくたちの死を看取るためだなんて、そんなの、悲しい話じゃないか……」

「……」


 燐はゆっくりとガトリングを下ろす。


「そんなの、わかんないし……」

「ぼくたちがそう考えるのは、ぼくたちの自由なんだ。そうだろう、燐」


 訴えかける。燐はまるで泣いているようだった。


「……短い間だったけど……燐は、左香ちゃんとか、毅右くんとかと、もっとお喋りしたり、いろんなことしてみたいと思う……」


 燐は自身の上下に斬り裂かれた服に目を落とす。それは左香が彼女にプレゼントしたお下がりだった。その姿をしている限り、燐はどこにでもいるような女の子だった。

 きみは魂の奥から燐を肯定する。


「できるよ、燐!」

「そうかね」


 剣閃のような声がきみを否定した。瓦礫の下から現れたのは、大剣を担いだロサエッテ。外傷は見当たらなかったが、左足を引きずっていた。


「ロッテ! 生きてたんだ!」


 喜ぶきみに、ロサエッテは淡々と答える。


「ああ、なんとかね。あの光を放つときの音は、前にも一度聞いたことがあったからさ。人間ってのは経験だよ、つまり」


 ロサエッテはきみをねめつけるように見やる。


「それよりもさっき、生き残る道があるとかなんとか、言っていたみたいだけど」

「あ、そ、そうなんだロッテ、実は――」

「いい。そいつは後で聞くよ。この女をもう一度真っ二つにしたあとでさ」

「……」


 燐がじり、と後ろに下がった。

 きみはロサエッテに詰め寄る。


「ど、どうして! 逃げるなら、一緒に逃げれば! 燐だって、やりたくて攻撃をしていたわけじゃ!」

「でも、そいつはフィガロを殺したんだ」


 その声は、暗闇の中で妙に大きく響いた。


「それだって、仕方のないことだったんだよ!」


 きみはロサエッテの肩を掴む。ロサエッテはそれを振り払った。


「どんな事情があっても、あたしには関係がない。あたしには意思なんてないんだ。ただ、フィガロの仇を討つ。それだけがあいつにしてやれる、手向けさ」

「そんなことに意味なんて」

「ないだろうね。知っているよ。それがどうしたって言うんだい。邪魔をしないでくれよ、キユウ。あんたを斬るのは、なるべくなら最後がいい」


 ぞっとした。ロサエッテは間違いなく本気だ。


「そんな……燐も、なんとか」


 振り返る。燐は間合いを広く開けていた。臨戦態勢だ。


「毅右くん、巻き込まれないようにしてね。お願いだから。すぐに終わると思うし」

「うそだろ……なんでそんな……」


 ロサエッテの髪はまるで炎のように揺らめいていた。命がけの言葉も届かない今、彼女たちを止める手段がきみには思い浮かばなかった。

 まるできみの心臓に剣を突き立てるように、ロサエッテが告げてくる。


「キユウ。仲良くだとか、一緒に逃げようだとか、あんたはそんな言葉を言い続けるしかないんだろ」

「――」


 やめてくれ、ときみは願う。

 その先の言葉を、聞きたくない。


「認めるわけにはいかないのさ! それができなかったら、あんたは最終的にサキョウを殺さなきゃいけないんだからな!」

「あ、ああああ……」


 自らの髪を掴む。意味のないつぶやきが口からこぼれ出た。

 それはきみの頭の裏側にカビのようにこびりついていたひとつの考えだった。


 戻れるのが“本当に”たったひとりだったとしたら、どちらかしか生き残れない。先に殺すか、後に殺すかの違いだ。姦神が本当にそれを望んでいるかに関しては、どちらとも言えないというのが本音だった。この“活動”に参加する前はそこまではしないはずだと思っていたが、今はもう無理だ。願うことしかできない。


 だが、それでも――


 自分が理想論に生きている子供のように思えてしまっていても、きみは本当に左香を守って、この悪夢を脱出するのだと信じていたのだ。

 だが、信じたところで願いは叶うだろうか?

 そんなことを、本気できみは思っているのだろうか?

 左香がそばにいてくれないから、きみにはもう、信じるものはなにひとつなかった。


 そう。

 彼の出現もまた、続く悪夢の一ページに過ぎなかったのだ。


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