14.冷たい方程式
謎の空間に連れてこられたきみの前には、首を鎖に繋がれたひとりの少女――安瀬倉ジゼルがいた。金色の髪を伸ばした青い目の美少女だった。きみは外国の女の子を見るのが初めてだったため、わずかに緊張をしていた。真っ白な部屋に入るのは、初と出会ったとき以来だ。
小学5年生の春。それは、きみが初めて姦神からの要求を達成できなかった日の記憶。
『難易度5 敵意をむき出しにした少女をきみは手懐けることができるのか』
この頃はきみも少しずつ姦神の無茶にも慣れてきて、大きな失敗もなく、世の中は結局なるようにしかならないのだと悟り始めてきた。一番幸せな時期だったのは間違いないだろう。
きみは――動物園のクマに餌付けするような気持ちで――ゆっくりと彼女に近づいてゆく。
『えーと。ぼくは新垣毅右。きみは?』
『がうっ!』
『お、おおう!』
差し伸べた手を噛まれそうになった。なんて獰猛な生き物なんだ。
『えーと。ぼくは新垣毅右で……』
『うー! うー! ぐるるるるる!』
『ぼくはぁ……』
『きしゃあああああああ!』
『……』
ついには押し黙ってしまう。少し考えた後、再び口を開く。
『日本語、わかる?』
『バカにしてんの!?』
『なんかそれで怒られるのはずいぶんと不条理な気がするんだけど……』
うめく。これもやはり取り合ってもらえないと思っていたが。
『ハッ、アンタがのそのそと生きているのが悪いんでしょ』
『自分で言うのもなんだけど、毎日かなり切羽詰まった生き方をしていると思う』
『姦神サマに聞いたわ』
安瀬倉は汚らしいものを見るような目できみを睨む。
『アンタもう、口に出すのもおぞましいほどの超変態なんでしょう。なんで服着てるのよ。ちょっと、アタシを見ないでよ。潰れなさいよ目』
『ひとつ聞きたいんだけど、姦神さんってきみに何を吹き込んだのかな……』
『はあ? それをアタシに言わせて楽しもうっての? なんなのもう。もうやだ。こんなののために人間界に落とされるだなんて。最悪。もう滅ぼしたい』
投げやりになってゆく少女。いまだ名前を聞き出すこともできずにいる。
きみは少し離れたところで立ち尽くす。初のときは大活躍をしたはずのトランプも、きみのズボンのポケットの中で居心地悪そうにしていただろう。
初日も無理で、二日目も無理で、三日目にはきみたちは疲労の果てに倒れ込んでしまった。ついに姦神ですら「もういいよ」と諦めるほどにひどい有様だった。
翌日、ようやくきみは彼女の名前を知ることができた。初のときと同じように唐突に転向してきた少女は名乗る。「安瀬倉ジゼル」と。
即日、『毅右研究部』にやってきた安瀬倉は誤解が解けたにも関わらず、決してきみには心を許そうとはしなかった。彼女と世間話ができるようになったのもそれから一年近くも先で。
それでもきみは、安瀬倉をずっと友達だと思っていた。その後『難易度7』の砂金探しを経て完全に姦神を畏怖の対象として見ることしかできなくなっても関係なく。
初と安瀬倉は仲間だった。姦神の被害者としての連帯感がきみたちの結びつきを強くしてくれた。きみはずっとそう思っていた。
実際は、どうだったのだろう。本当に嫌いではなかったと、言ってもらいたいのだが。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「あたしは生きて帰らなきゃいけないんだ」
ロサエッテは言う。そんなのはみんな同じことだ。彼女が特別なわけではない。
きみはロサエッテの後ろを歩いていた。逃げ出すような素振りを見せたら、彼女には全て心音でバレていた。まるできみは考えが読まれているようだと思う。
肩まで伸ばした赤髪。褐色の肌。背中には剣を背負い、すっぽりと体を覆うローブを着ている。ときおりちらちらと見える赤い縄のようなものは、尻尾だろうか。体格は小柄ではないが、それも同年代の少女たちと比べてだ。間違いなく子供そのものである。
意外にもロサエッテは喋り好きだった。ひっきりなしにきみに話しかけてくる。どう対応すればいいかわからず――自分がどう対応したいのかわからず――きみは生返事をしていた。
どこへ向かっているのだろう、ときみが疑問に思うと、ロサエッテは肩を竦めた。
「あてのない旅さ。他人を見つけて斬り殺す。それを繰り返すことが今回のクエストだろう」
また思考を読まれてしまった。ロサエッテは小さく笑い「今回のはわかりやすかったさね」と面白そうに種明かしをした。
やがてふたりは次のエリアの境界へとやってくる。
「戦いはなによりも先手さ。そして自分のペースで戦うこと、これに尽きるぜ。待つだけの戦いは死を待つことと変わらない。わからないか、キユウ」
「……」
ロサエッテは自信に満ちている。今まで相当な修羅場をくぐり抜けてきたのだろう。参加者の中で実力は限りなく下位に近いというのに。きみは黙り込む。
次のエリアは、岩石の転がる荒野だった。赤い月だけが頂点に輝く闇の世界だ。蒸し暑い。どうやらここは、魔界と呼ばれるエリアのようだ。ロサエッテは辺りを見回すと、戸惑うことなく歩いてゆく。
ぼくはなにをしているんだろう、ときみは自問する。左香をひとりきりにして、こんなところで。
「フィガロっつーのが、さっきまで組んでたあたしの仲間でさ」
「……」
燐にスライムとともに灼かれた『魔術師』のことだろう。
「正直、すっげーヤなやつでさ。自信家で己の実力を鼻にかけるくせに、危ない橋は渡りたがらない臆病者で、いっつもビクビクしてたよ。そのくせギャーギャーとうるさいもんだから、こんなところじゃなきゃ話しかけたくもなかったね」
「……きみだって、ずいぶんとお喋りみたいだけど」
「嫌なやつとは喋りたがらないよ」
そんなことを言われても困る。きみは彼女に人質として扱われているはずなんだから。
岩石だらけの魔界は歩きづらく、梅雨のような暑さは容易に体力を奪ってゆく。ロサエッテは時々きみを気遣いながらも、笑っていた。
「だらしないね。あんたみたいなのが戦いに参加しているだなんて、拍子抜けだよ」
「体は、丈夫なほうだと、思っているんだけどね……」
「そいつはどうかな。ま、心はマトモみたいだけど?」
一歩でたやすくロサエッテがきみの間合いに踏み込んでくる。その馴れ馴れしさがきみには不快だった。ロサエッテに軽く胸を押されて、きみはその場に尻餅をつく。
「もうふらふらじゃないか。限界だよ、認めな」
「……まだ、平気だ」
「あたしの“耳”にも、さっきの女は入ってこないよ。近くにはいないみたいなんだから、焦ってもしょうがないってば」
その言葉にきみは驚いた。ロサエッテも左香を探してくれていたのだ。あてもなくさまよっているわけではなかったと知り、きみは問いかけた。
「どうして」
ロサエッテは鼻の頭をかく。
「味方になりそうなやつは、味方にしといたほうがいいからさ」
弾除けの間違いではないだろうか、ときみは思う。
だが、こうしている間にも左香が襲われていないとも限らない。それならばロサエッテの耳は役に立つ。彼女がきみを利用するように、きみも彼女を利用すればいいのだ。嫌な考えだが。
きみは疲れていた。立ち上がろうにも、足に力が入らない。
ロサエッテは肩を竦める。
「ま、きょうはここで休みとしようかね」
きみに体力の限界が訪れたということは、きっと左香も今頃は休憩しているはずだろう。きみはそう考えることにした。
ロサエッテは火を起こし、野営の準備を始めていた。「この暑い中どうして」と尋ねると、彼女は額の汗を拭いながら「こうしないと落ち着かないんだ」と笑った。
焚き火を囲みながら、旅慣れたロサエッテは聞いてもいないのに冒険の話や、今までに訪れた街、倒した怪物や出会った仲間たちの話を語り出す。14才という若さにも関わらず様々な経験を積んできたロサエッテの話しぶりは軽妙で、こんな出会い方さえしなかったらと、きみは思わずにはいられなかった。
「わかるさ、気にしているんだろ?」
「……なにが」
「あんたを襲ったことや、あの少女を殺したことさ」
鋭利な言葉がきみの心をえぐる。きみの動揺は心音によってロサエッテに伝わってしまう。
「別に、あたしのことを好きになってほしいなんて思ってないさ。ただね、誰だって生きなきゃいけないんだ。この手で他人の人生を終わらせてもね。当然だろ? 生きるってことはそういうことなんだから」
それは全くの正論で、きみは返す言葉を持っていなかった。きみ自身も割り切っていたはずなのに、燐を失った悲しみは理屈では表せられなかった。
「悪かった、だなんて言わないよ。あたしはずっとこうして生きていたんだ」
ロサエッテの表情にわずかな陰りが見えたその時、そうか、ときみは改めて思った。ロサエッテはひとりで話し続けていたのではない。きみの心を聞いて、その反応を相槌として受け取って、きみと本当の意味での会話をしていたのだ。
ならば、黙り込むことは無駄だろう。きみは重い口を開いた。
「そういうの、開き直りって言うんじゃないのか」
「なんだっていいさ。自分の心と折り合いをつける必要はあるだろ?」
自分が納得できるだけの理由を持つことは、大切だ。それは時に信念と呼ばれることもある。きみにはそれがなかったから、こうしてロサエッテを殺せずに彼女と共にいるのだ。
「あんたはどうだか知らないけれど、あたしは今までたくさんの人の死を見てきたのさ」
「……そんなの自慢になるかよ」
「あたしのスタンスの問題だってば」
理路整然と道筋を立てて話す姿には、高度な教育を受けてきたのだろうとさえ実感する。
「結局のところ、どうするのが自分が生きやすいかってことさ。故人を忘れずにいるのだって、切り替えて自分の人生を生きるのだって、自分に合ったやり方をすればいい。他人がとやかく言う問題じゃない」
「……」
ジレンマを持ったまま戦い続けるのは辛い。ロサエッテはそう言いたいのかもしれない。きみはどうだろう。両親が亡くなって、どうしてきただろう。左香との暮らしで精一杯だったきみには、そのことに真剣に向き合う時間もなかった気がする。
「人の命を奪ったところで、同じことさ。そのことでいちいち自分を責めて、そのたびに理由をつけては立ち直ったりを繰り返す面倒なやつもいたよ。見てる分には面白かったけどね、自分がやろうとは思わないさ」
「……ぼくは、正当化したりしない」
きみは爆ぜる火を見つめながら、つぶやく。
今まで一度もこの手で人を殺めたことはなかった。だが、もしそうすることがあったとしても、姦神に仕組まれたことだとしても、やらなければならないのならやるしかない。そうしなければ、左香を守れないのなら。
ロサエッテが薄く笑う。
「あたしも同感だよ」
彼女はきみをじっと見つめる。深い色をした鳶色の瞳だ。
「あんたはまるで、小さなナイフみたいだね」
「え?」
「薄くて簡単に折れちまう。でもやりかた次第で人だって殺せるんだ。そんなだから、見ていると楽しいよ」
「……」
そんなことを言われたのは初めてだ。もしかしたらこの戦いの中で、きみ自身が大きく変えられているのかもしれない。
「あたしはね、もうなにも考えないのさ。意味を求めるのは、もう飽きた」
「……それが、スタンス?」
ロサエッテは枝を折って焚き火の中に放り込む。
「そうさ、あたしは人の思いによって作られるのさ。誰かが望むことを果たす。そうしてあたしは生きることにした。人の歓びがあたしの歓び、だなんてことは言わないよ。あたしには、なにもないからね」
「……それは“自由意志”なのか?」
「放棄することも許された選択のひとつだろ? あたしは迷いたくない。時間の無駄だ」
ロサエッテの言葉からは深い孤独の匂いがした。彼女の肩書きは『勇者』。どんな世界に住んでどんな生活をしているのかはわからないが、人々の希望を担う存在のはずなのに。
彼女はなんの頓着もなさそうに言い放つ。
「あたしは誰かの願いを叶えるための剣さ。あたしになにかを託して死んでいった男たちの念で、あたしの心はもう埋め尽くされている。だから、生きていかなきゃいけない。そのためには卑怯なことだってなんだってやるよ。あたしには美学やポリシーなんてものはないからね」
静かな口調だったのにも関わらず、その言葉を聞いたきみはドキッとした。
強い少女だ。きっと、きみなんかよりはずっと。
「……すごいな」
きみはつぶやいてしまった。ちらりとその顔を見たロサエッテは、意地悪そうに笑い、きみの隣にやってきた。
「ナイフみたいな男が、空っぽのあたしを認めているんじゃないよ。真逆さ。あたしはあんたみたいなのが好みなんだ。一途でさ、羨ましいよ」
彼女はきみの手に腕を絡ませてくる。いきなりの行動にきみは面食らった。
「な、なんだよ、ロサエッテ……」
「ロッテでいいよ。仲間にはそう呼ばせることにしている」
「ぼくときみが、いつ仲間に」
「気持ちが高ぶるとね、いつだってここが切なくなるんだ」
ロサエッテは胸を抑えながらきみを見つめていた。彼女が脱いだ外套の中は、まるで水着のようだ。滑らかな灼けた素肌を直視してしまい、きみはドキッとして目を逸らした。
「よくわからないよ、どうしてこんなことを」
「決まっているじゃないか。あたしかあんたか、あるいは両方か。すぐに動かなくなって、なにも言えなくなるんだよ。だったらその前に、出会った人のことぐらい覚えていたいだろ?」
「そんなことをしたって、どうにもならない!」
みんなが死んでしまうのなら、忘れたほうがマシだときみは叫ぶ。だがロサエッテは首を振る。
「そうかい。なら、コレはあたしの趣味さ。空っぽだから、せめて記憶したいんだよ。言葉も、息遣いも、温もりもね」
ロサエッテがゆっくりと身を寄せてくる。その唇がきみに近づいてくる。
「だからって、こんなやり方じゃなくても……」
「時間や言葉なんかよりも、こっちのほうが確実で早いのさ」
きみはロサエッテの肩を押し返す。しかし彼女は上手にその手をすり抜ける。きみの眼前に近づいた瞳がそっと閉じられて、きみと彼女の唇が触れ合う。
きみは顔を真っ赤にして離れた。柔らかいその感触は、左香のものとも燐のものとも違っていて、瑞々しかった。口元を拭う。
「……や、やめてくれよ、そういうの」
「なにを言っているのさ。あんただってもう子供が作れる歳なんだろう。子孫を遺さずに死ぬのは、無念じゃないのか」
ロサエッテは腰の引けたきみの上に、覆いかぶさってくる。
「いいだろ、キユウ。あたしたちは、闘争の中にいるんだ。こうして生きている歓びを、今わかちあおうじゃないか」
「おかしいよ、そんな……ぼくたちは動物じゃない……」
その否定の言葉は、ロサエッテには届かない。彼女は“行為”に対して、なんの思いも抱いてはいない。きみとは根源的な考え方が違う。それこそ、獣と変わらないのだ。
「ロッテ、ぼくはきみとは、そういうことはできない」
「へえ。あたしのことが憎いからか?」
「違う、そういうのじゃない」
きみはロサエッテの下から抜け出る。ロサエッテは不満そうな表情を浮かべていた。唇を尖らせたそれは、まるで童女のようだった。
「じゃあどうしてだよぅ」
もしかしたら、あまり拒否されたことはなかったのかもしれない。きみは背を向ける。
「別に、意味なんてないよ……さーちゃんが見つかっていないのに、そんなことをする気にはなれない、って話だよ……」
「ふぅん」
ロサエッテはきみを後ろから抱き締める。柔らかな少女の感触に、否応なくきみは本能を刺激されてしまう。
「あんたがどうだって、このまま無理やりしちまってもいいんだよ」
少女の髪の香りが、鼻孔をくすぐる。
「……きみは、それで満足なのか」
「そうさね、とりあえず体の疼きは収まるだろうね」
ロサエッテがきみの耳元で囁く。舌の感触が耳朶を這い、背筋がざわついた。
「ロッテ、ぼくは――」
彼女を払いのけようと振り返る。目と目が合う。ロサエッテは薄く微笑んでいて、それは妖艶というよりもむしろ、ひたむきに生きようとした命の輝きがあって。
そのとき、ぽたり、ときみの頬に水滴が落ちてきた。きみとロサエッテは同時に空を見上げる。暗雲が空を覆い尽くしている。
「……雨、か。文字通り、水を差されたね」
ロサエッテは不愉快そうにつぶやいた。耳を左右に揺らし、顔を歪める。
「うるさいな……」
彼女の聴覚はこれでほとんど役に立たないのかもしれない、ときみは思った。ロサエッテはきみから離れて、ため息をつく。
「姉、か……そんな家族みたいなものがいれば、あたしもちょっとは違っていたのかもしれないね。考えたって仕方ないことだけどさ」
「……」
そのとき、ふときみは引っ掛かりを覚えた。燐もロサエッテも孤独だ。ほとんど同じ境遇のはずなのに、なぜ自分だけに家族がいるのだろう。それは、小さなささくれのように一瞬だけ心を煩わせて、すぐに消えていった。
ロサエッテも、つまらなそうに頭を振る。
「いいさ、もう。興が削がれた。少し休んだら、また歩くから」
「……」
ロサエッテは火を消し、その場に横になった。
燐を殺した相手と一緒にいて、あともう少しで心を飲み込まれそうになり、きみは佇んでいた。この戦いは想像以上に厳しい。きみはもう、どこまで自制できるのかわからなくなってしまっていた。