13.シュレディンガーの猫
視覚や聴覚ではなく脳波を感知することによって標的を見つけ出すスライムは、おびき寄せるまでもなくきみを追いかけてきた。
きみと左香は見晴らしの良い河川敷に陣取り、スライムを待ち構えていた。しかしあまりの冗談のような大きさを前に、きみはそれが特殊効果によって再現された映像だと言われても信じてしまいそうだった。
体外器官をなにも持たないスライムは、つるんとしていて、まるで青い寒天のようだ。それが体をうねらせながらこちらに向かってきている様はシュールで不快だった。
「きーちゃん、あれ……」
「移動シーンは、なかなか胃に来るものがあるね……」
スライムは根元から何本もの触手を伸ばして身体を浮かせ、そうして車輪のように回転しながら建物を押し潰しつつ進んできているのだ。きみはうめく。
「つくづく思うけど、姦神さんはこんなのとぼくたちを戦わせようとしているんだな……」
最後に残ったのが自分たちとスライムだったら、どうするのか。「死んでくれ」と頼み込んで、彼がうなずくとでも思うのだろうか姦神は。
きみは燐のいるであろう裏山を見た。そこには燐がスタンバイして射程距離限界から“天神”を撃ち込む手はずになっている。その間の時間を稼ぐのが、きみたちの役目だ。
【壁】の効果時間は、合計で3分。これならば、十分に間に合うはずだ。
「し、しっかりついてこいよスライム!」
きみは声を張り上げる。挑発というよりは鼓舞のつもりで。
「ぼくなんて障害どころか完全バリアフリーで足の悪いご老人にも暮らしやすいレベルの物件だけど、姦神さんの持つ超凶悪皆殺し兵器を山ほど持っているマジで! 今のうちに潰しといたほうがいい絶対!」
左香も真似して叫ぶ。
「そ、そうですよ! わたしたちなんて銀河美食大会に出場したら一位間違いないくらい美味しいです! 外はサクサクで中はとってもモッチモチー! なんかすごいまろやか!」
お互いになにを言っているのかよくわかっていないのは間違いない。
だが効果はあったのかもしれない。スライムが体表から触手を伸ばしてくる。掴まれたら最後の無数の腕だ。きみはその軌道を予測しながら、バリアを張るタイミングを伺う。
「きーちゃん!」
左香の声で、きみは振り返った。まさかと思った。視界の端で、青白い光が閃いた。遅れて雷鳴が鳴り響く。裏山の方角だ。
「なんでこんなときに襲ってくるんだよ!」
きみは金切り声で叫ぶ。燐が『魔術師』に攻撃を受けているのだ。チャージ中の彼女は身動きが取れないだろう。彼女を殺してしまえば誰もスライムを倒すことができなくなり、『魔術師』や『勇者』も殺されてしまうだろうに。
もちろん、彼らがそんなことを知っているはずがない。きみの怒りは八つ当たりじみたものだ。しかし生死のかかったこの状況で、誰がそれを責められるだろうか。
「どうすればいいんだ!」
「きーちゃん、燐ちゃんのところに」
それが本当にベストなのかどうか。きみたちが燐の元に行って、それでなにができるというのか。というよりも、スライムから逃げ切れるのか?
きみは選択した。
道具袋からガラス玉のようなものを取り出して、地面に叩きつける。七色の彩光と共に、半球状のバリアが完成した。絶対不可侵の壁だ。
「きーちゃん、燐ちゃんが!」
きみは押し黙っていたが、左香に弁解する言葉を持たなかったわけではない。きみは燐を信じたのだ。一回バリアを張ってしまえば、こちらも逃げられなくなる。燐が救援に来てくれなければ、三分後に待つのは確実な死だ。
きみたちをすっぽりと覆う“障壁”の上に、さらにがっぷりとスライムがのしかかってきた。
てらてらと濡れるゲルが触れられるほどの距離にあり、思わず左香が悲鳴をあげた。
「うわあああ! き、きもちわるい!」
「確かにこれはひどいね……」
左香は今にも泣き出しそうな顔をしている。きみもだ。とても冷静なままではいられなかった。なぜなら、眼前一杯にスライムの腹が押し付けられ、そこから伸びる触手がどうにかしてバリアを破ろうと四方八方から侵入を試みようとしているからだ。それはきみの目から見ても、非常に生理的な嫌悪感を誘う光景だった。
「だ、大丈夫だよな、姦神さん……これ、持つんだよな、絶対に大丈夫だよなっ……」
理性では信じているものの、本能がどうしても拒絶反応を起こしてしまう。もはや視界は360度全てスライムで覆われており、まるで粘着質の牢屋に監禁されているようだった。
「た、食べるならおねーちゃんからにしてくださいー!」
脳が焼き切れてしまうような焦眉の急にも構わず、間違いなくバリアはスライムの侵入を許さなかった。守るだけではなく火花を飛ばして、押しつけられたスライムの触手をも焼き切っていたのだ。
「ぼくたちのほうは、大丈夫そう、だけど……!」
これなら三分は持つだろう、ときみが思い浮かべた途端だった。スライムはきみたちから興味を失ったように急転した。青い粘性の体が引き潮のように去ってゆく、きみはその理由がわからなかった。
「どうして」
しかし、きみはすぐにその行動の意味に思い当たる。
「燐が言ってた、思念を読み取るって……そういうことか……?」
スライムの姿は遠ざかってゆくものの、きみたちはバリアに閉じ込められたままだ。
「バリアは一切の攻撃を通さないけれど、それがただ考えを読むだけだったら……?」
「燐ちゃん!」
左香が叫んだ途端だ。なにかを探し回っているように動いていた触手が、加速した。矢のような速度で“裏山”に伸びてゆく。
この時、きみたちが稼いだ時間は126秒。燐のチャージ完了の2/3である。スライムを追いかけるように手を伸ばすものの、その指は障壁によって遮られる。もっと遠くに――ときみが願ったその時、きみは奇妙な体験をした。
力を入れた腕はどこまでも伸びてゆく。まるで手の先に目があるかのように、きみの視界は広がっていった。スライムの思考ときみの思考が混じり合い、魔手は山間を撫でるように突き進む。きみから盗んだ思念は今やきみの命令であり、人影を見つけたきみは不穏な動作を行なっている彼女を握り潰そうと迫り――
――やめろ!――
きみは精一杯叫ぶが、触手は止まらなかった。きみの意思はもはやきみではない。
だがその手が触れたのは、アンドロイドではなく“回り続ける銀髪の少女”だった。次の瞬間、魔手は圧壊し、原子の粒へと変換を余儀なくされた。きみの口から叫び声が漏れた。
そこにいたのは、冥王星と、そのそばで疲弊して大地に寝転んでいるローブ姿の少年――恐らくは『魔術師』だけだった。アンドロイドの燐はいない。どこにも、見当たらない。
――え?――
スライムときみとの接続がロストする。きみは自身とその視界を取り戻す。そして、我に返った次の瞬間、きみはアンドロイドを見つけたのだった。彼女はすぐそばに、いた。
「え?」
光学迷彩粒子“潜光”を解除した彼女は、背中から制御棒を生やした姿勢で告げた。
「180秒、チャージ完了――いくよ、最大出力の“天神”――」
放射された光の濁流は、なにもかもを飲み込んでゆく。
燐はきみのすぐそばに隠れていた。それを察知できなかったのは、彼女が対PK兵器の一種であるからだ。彼女が自ら判断した作戦をきみに話さなかったのは、きみたちは思考をたやすく読まれてしまうからだ。全てはきみのためだ。
燐が放った“天神”は、恐らくスライムごと他の参加者を消滅させただろう。いまだ接続が完全に途切れていないきみの脳裏には、死にゆくスライムの想いが注ぎ込まれてゆく。
膨大な量だ。隕石に乗り、星から星へと旅を続けるスライム。気が遠くなるような時間をかけて彼らの母は地球に到達した。巻き起こる大戦争。文明の破壊。そして少年は生まれ、人と想いを通じ合わせながら幸せに生きてゆく幻を見て、憎まれ、争い、殺し合う。
彼らの神、姦神は言う。『もしきみたちの想いで繋がることができれば、人ときみたちが共存することも叶わぬ夢ではないだろう』と。しかしその夢想は、実現しなかった。人間はきみたちの思念を受け止めることはできずほとんどが死に絶えて、遺されたアンドロイドとの終わりなき戦争が始まった。
それでも少年は、誰かと想いを交わし、生きていたかった。ずっとずっと、独りきりだったとしても、希望があれば生きていられた。
きみの瞳からは、涙が溢れていた。視界はぼやけて、すぐになにも見えなくなる。頭の中は混迷して、なにも考えられなかった。ただ、どうしようもなく悲しかった。それだけがきみの心を捉えて離さなかった。
泣き続けるきみを、左香が後ろから抱き締めてくる。
「ど、どうしちゃったんですか、きーちゃん。どこか痛いんですか……!」
「……わからないんだ……ただ、胸が絞めつけられて……」
声にならない声で応える。バリアに包まれたきみたちの前に燐がやってきて、頬をかきながら笑う。
「へへ、なんとか巧くいったね」
「……よく、考えたね、燐」
「へへ、まーね。毅右くんから話を聞いたときに、これなら大丈夫だって思ったんだ。燐の役目は、あくまでもふたりの命を守ることだからさ」
「いい性能だよ、ほんとに」
きみは嗚咽を漏らす。手の甲でごしごしと涙を拭い、改めて燐を見やる。きみに褒められた燐はなぜかとても嬉しそうで、泣いているきみの前で無邪気だった。
その燐の笑顔が、横に崩れた。
なにが起きたかわからなかった。燐の体が斜めに裂かれて――
遅れて、きみたちを包む【バリア】に、ざんっ! と剣撃が叩きつけられる。
「燐――!」
その後ろから、ゆっくりと現れたのは獣耳の獣人。大剣を肩に担ぎ、喜色満面の笑みだ。
「よし! やった、やったぞ! イェイ!」
燐であったものは真っ二つに引き裂かれ、内部から大小様々な部品の欠片を散らばらせた。上半身は河原を転がり、二度三度バウンドしてから仰向けになって止まった。その真っ赤な目は見開かれて、光は失われていた。
涙が両頬を伝う。それはまるで、燐を奪われてきみの心が号泣しているようだった。
「燐ちゃん……燐ちゃん!」
左香が狼狽して手を前に突き出す。その次の瞬間、きみたちを取り囲む【バリア】が消し飛んだ。三分の制限時間が過ぎたのだ。
完全に無防備となったきみたちの前で、獣人の少女は心から喜んでいた。
「あたしはまだ生きているぜ! 見えない矢を放つ女を、この手で倒してやった! 正直いけすかねえやつだったけど、フィガロ、お前の仇は取ってやったぜ! イェイ!」
彼女の表情は生命の輝きに満ちていた。今あるこの生の充足を十分に味わい、謳歌していた。それは原始の狩人のあるべき姿だった。
きみは泣きながら告げる。
「さーちゃん、逃げるんだ」
それが最善かどうかはわからない。きっと合理的な行動ではなかっただろう。だがきみは、迷わずレバーを引いたのだ。
「で、でも、きーちゃん、燐ちゃんが、燐ちゃんが」
「逃げるんだ、早く!」
歯を噛み締めて叫ぶきみの目を見て、左香もまた決意を固めたようだ。
「おねーちゃん、必ず、ジゼルちゃんか初ちゃんを呼んでくるから! だから!」
本能的に左香を守ろうとしたきみと違って、左香の行動は理性的だった。なるほど、ときみは納得した。確かにそうすればきみたちは救われるだろう。道具袋を持つきみが足止めをして、左香が救援を呼ぶ。理に適っている。
すると一転、獣人は眼の色を変えた。きっとスイッチが入ったのだ。鋭い眼光で、駆けてゆく左香の後ろ姿に視線を突き立てる。
「なにしようとしてっか知らないけど、やすやすとそっちのターンにはさせねえよ」
大剣を振りかざした獣人の前に、きみは立ちはだかる。
「ダメだ。左香だけは、絶対に、させない」
「なあに泣いてんだよ。そんなのあの女が大事だったのか? 意味ねえな」
きみはカッターナイフを取り出し、魅せつけるようにその刃をチキチキチキと伸ばしてゆく。彼女が眉をひそめた。
「それ、嫌な匂いがすんな。一応、警戒しとくか」
「……そりゃあ、姦神さんの作った道具だからね」
「へえ。マザーの?」
獣人の耳がピクピクと揺れる。その目がスッと細まった。やはり彼女もまた姦神を知っているのだ。ならば、やりようもある。話の通じない相手ではない。
「そんなのが、いくらでもあんのか?」
「きみを倒すだけの備えはあると思うよ」
「そういうことかいね」
すると獣人は無防備に近づいてきた。その余裕にきみは狼狽する。仮にも、姦神が作ったアーティファクトと聞いて、その威力を想像できないわけではないだろうに。
「あたしさ、見ての通り、“耳”がいいのさ。相手の心音から、そいつがなにを考えているのか、大体わかるぐらいにはな。あんたのはハッタリだよ。音が不安でいっぱいさ」
「来るな」
カッターナイフで威嚇する。少女はたやすく避けると、きみの腹に拳をめり込ませてきた。骨が軋む音が耳の奥で弾けた。きみの視界が真っ赤に染まる。
「が――」
それは今まで生きてきた中で、最上の痛みだった。骨が折れたことも筋肉の繊維がちぎれたことも何度かあったが、それとは比べ物にならない、苦痛のみに特化した一打であった。
息ができなくなり、きみは膝をついた。目の前に立つ獣人に魂の底から屈服してしまいたくなる。こんなのを何度も受けたら、とても精神の均衡を保っていられる自信がなかった。
「どうだい。効くだろ。どんなに威張っている大の男でもね、ここを打ってやりゃあ、泣きながら大人しくなるのさ。あんたみたいなのじゃ、とってもじゃないけど」
きみはそれでも、目の前の少女を見上げた。震える腕でカッターナイフを掲げる。
「……それでも……ここは、通せない……」
彼女は口笛を吹いた。
「へえ、意外と根性あるじゃないか」
再び拳を固める。それでもきみは臆さない。左香を守るのは理屈ではないのだ。うわ言のように繰り返す。
「……ここは通さない……左香に手出しはさせない……」
獣人はきみとカッターナイフを交互に見やると、突然敵意を霧散させた。
「やめた」
「……」
「あんた、なかなかイイ音させてるじゃないか」
自分の胸を叩いて、彼女は笑う。
「あんたみたいなのでもさ、いないよりはマシさ。マザーの道具を使えるというのなら、なおさらね」
どうやら彼女はきみと交渉をしたがっているようだ。信用ならない。慎重に聞き返す。
「……それ、どういうことだよ」
「別に断ってもイイけど、それはお互い損するだけさ。あたしはあんたを殺して、今すぐさっきの子を追いかける。それが嫌ならあんた、あたしの仲間になれよ」
「なんだって……」
駆け引きでもなんでもない。これは脅迫だ。きみに自由意志は許されていない。
獣人はニィと笑う。戸惑うきみを置き去りにして。
「あたしの名前は、ロサエッテ。あたしには似合わない名前だなんて言うなよな。これでも生まれはイイところなんだぜ」