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10.トロッコ問題

 左香の様子を見に行くことにした。寝室で寝息を立てる彼女は、もうだいぶ楽になったようだ。呼吸が落ち着いている。

 きみが左香の頬を撫でて手を握ると、彼女は薄目を開いた。


「あ、ごめん、起こしちゃったかな」

「……ううん……大丈夫、です」

「さーちゃんはそればっかりだよ」


 きみのため息混じりの声に、左香は小さく「ごめんなさい」とつぶやいた。

 左香の瑠璃のような瞳を見つめながら、きみは思い出す。


 彼女とたったふたりで暮らし始めた頃は、きみのほうがずっと身体が弱かった。なにかあればしょっちゅう身体を壊し、あるいは泣いたり、暴れたり、左香を困らせてばかりだった。

 きみが乱暴な真似をしても、左香はずっと辛抱を続けていた。きみから喧嘩を仕掛けたことはあっても、左香からは口論ひとつしてこなかった。どんなに不平等なことがあっても、左香は「わたしはおねーちゃんだから」と笑っていた。

 だからきみは強くなった。そうしなければならない理由があった。


 今でもそうだ。

 想いを内に秘めたまま、きみは左香の手を両手で握る。左香は陽を浴びた猫のように、安心しきった表情をしていた。きっと彼女は今でもきみの気持ちに気づいていて、それでもなにも口には出さないのだろう。


「……燐ちゃんはどうしたんですか?」

「あの子なら、外の様子を見に行ったよ」


 きみはなるべく言葉少なげに答えた。だがそれも見透かされていたようで。


「列車とレバーの話、あるんです」

「姦神さんの本を読むんだったら、もうちょっと勉強に力を入れたほうがいいと常々思っているよ」

「制限時間は残り一分。暴走した列車が飛び込んでくる中、あらゆる手を尽くしたペロンチョさんは、最後の選択を迫られていました」

「どうしてもその名前じゃなきゃいけなかったのだろうか……」


 茶化すきみの言葉はスルーされた。


「このままでは先のトンネルで作業をしている40人が轢き殺されます。でもレバーを引いて、列車の走行を別の線路に切り替えたなら、死亡するのはそちらで作業をしているたったひとりで済みます」

「どちらにせよ、人は死ぬのか……」

「ペロンチョさんがなにもしなければ40人が死にますが、レバーを引けばひとりを故意に死なせることになってしまいます。ただそこに居合わせたというだけで、ペロンチョさんにはどちらの命にも責任があるのでしょうか。これもまた、道徳的なジレンマを抱えているんです」

「なんだか、難しい話だね」


 40人の命とひとりの命。合理的に考えれば、ミスター――ミスかもしれないが――ペロンチョはレバーを引くべきだろう。そうすれば、差し引き39人の命は救われる。模範解答だ。だが、事態はもうちょっと複雑だ。左香の言うとおり、レバーを操作すればそれは殺人と同義なのではないだろうか。止む終えないなんて言うのは思考停止だ。

 左香が言いたいのは、つまり、わかっている。


「どちらにも正解なんてないんだ。ぼくはちゃんと考えてレバーを引くよ。最終的に生き残れるようにね」

「……」


 きみの言葉に左香は不本意そうだったが、押し黙る。互いの思っていることがわかりすぎるというのは、時に厄介なもので。


 ――ドアが乱暴に叩かれた。


 ドンドンドン、と早鐘を打つようなテンポで、何度も。

 燐ではないのは間違いない。彼女ならなにも言わずに帰ってくるだろう。きみは身を起こした左香に寝室に留まるよう言い聞かせ、自らは隣の部屋に来た。音を立てぬよう“雷杭”を拾い、ノックの続く入口に向ける。


「なあ! いるんだろ、助けてくれ!」


 扉の向こうから声が届く。張りのある女の声だ。きみは息を潜めたまま、照準を定める。


「このままじゃ三人とも全滅しちまう! 力を貸してくれ!」

「……」

「化物に食い殺されちまうんだよ! わっかんねえのか! オレも、あいつも、お前らの仲間の女もだよ! 黙ってねえで出てきてくれよ!」


 救助を求める声を聞いてやってきた左香を手で制し、きみは沈黙を保つ。これもひとつのレバーだ。

 扉の向こうの女と、その仲間と燐。三人が死んでしまったとして。きみは怜悧な目でこう思う。それでぼくに困ることがあるのか? と。

 むしろ、好都合だ。最終的に生き残るのはただひとりでなくてはならないのだから、脱落者は早めに、多いほうがいい。燐だって、例外ではない。


「きーちゃん……早くしないと、燐ちゃんが……」


 だから、左香に袖を引かれたところで、きみにはひとつだって迷う必要がなかったのに。

 きみの脳裏に、寂しそうな燐のあの笑顔が浮かんでは消えてゆく。きみの腕にはまだ、銃を固定する姿勢を教えられたときに添えられた燐の手の感触が、残っていたのだ。


「……だからって……」


 懊悩が脳内から溢れ、口から漏れ出た。


「ぼくが行ったところで、燐を助けられる見込みなんて、ない……!」


 奥歯を噛み締めながら放ったその言葉に、扉の向こうのノックが止んだ。


「ンだよ。いるじゃねぇか」


 リィィンと、トライアングルのような澄んだ音が響いた。その次の瞬間、扉が斜めに分断されていた。支えを失ったドアは崩れ落ちる。

 月の明かりを背負うひとりの少女がそこにいた。にぃと獰猛な笑みを浮かべて。


「さっさと出てこいよ、うっぜぇな」


 きみは本能的に直感する。この少女は、燐とはまた違ったベクトルの“狩る者”だ。古風な外套で体を覆い、右腕一本で丸太のような大剣を持ち上げている。長い赤髪の隙間から覗く目は、爛々と輝いていた。


「あの女を引きつけている間にな、オレは先にこっちをやらせてもらうぜ」


 頭部から獣の耳を生やした少女だった。声の割にはずっと若い。やはり同年代に見える。姦神の説明書の中にあった『猫耳が愛らしい勇者』とは、彼女のことだろう。愛らしいかどうかの判断は人それぞれだろうが。ネズミを追い回す嗜虐性がそこにはあった。

 きみの銃口はちょうど少女を捉えている。撃つなら今しかない。

 しかし、相手は少女だ。言葉を話し、なによりも生きている。問答無用で殺すことはないのではないだろうか。きみのその逡巡が、“雷杭”のトリガーを引くのをためらわせた。

 その一瞬をきみは後悔する。


 少女は体ごと回り、大剣を横薙ぎに振るう。今度は“雷杭”を撃ち出す時間はなかった。小屋がまるごと横一文字で絶たれ、壁という壁が真っ二つとなったのだ。

 支えを失った屋根が落ちてくる。きみは左香の名を叫ぶ。抱えている道具袋の中に、スペア命はもうない。

 意識が遠のいた。



 

 気を失っていたのは数秒程度だったろう。女が毒づく声がした。


「やっべ、斬ってからにすりゃよかった。探すの面倒だなおい」


 目の前は暗闇だ。きみの手足は満足に動かなかったし、痛みもよくわからない。押し潰されたのか、あるいは失ってしまったのか。今はまあいい。

 ただ、左香がどうなってしまったのか、それをきみは知りたかった。

 ふいに光が差す。視界が開けた。生き埋めとなっていたきみを見つけたのは、大剣を持つ獣耳の少女。彼女は肉食獣の笑みを浮かべる。


「見つけたぜ。とりあえずは、まずひとりだな」


 手も足も動かないのだから、手首にくくりつけておいた道具袋も使えない。少女が大剣を振りかぶる様をきみは見ていた。ここまでだと思った。

 一陣の風が吹いた。刹那、少女が真横に吹き飛ぶ。

 先ほどまで『勇者』が立っていた場所には、息を切らして、頬を真っ赤にして、ところどころ衣服を焦がしながらも、懸命に駆けてきたであろう少女がいた。燐だ。


「だーもう! 油断も隙もありゃしないすねえ! 散れっ、散れっ!」


 加速をつけた飛び蹴りも、『勇者』にはあまりダメージがなかったようだ。燐は倒れた少女に“時雨”による銃弾の嵐を叩きつける。しかし少女は無茶な態勢から腕の力だけで跳躍した。そのまま遮蔽物を利用して一目散に離脱してゆく。燐が舌打ちをした。


「燐……」


 きみの全身から力が抜けてゆく。圧倒的な暴力の恐怖にさらされたきみに、燐はバツが悪そうに笑う。


「いやーどうも相手は二体いたみたいでさ、見事におびき寄せられちゃったんだよね、ハハ……今助けまっすからね」

「ぼくのことはあとで良いんだ……それより、左香が……」

「む、おっけーっす、任せてくだされ」


 燐はそそくさと瓦礫の上に立ち、両肩のパーツを開く。まるで掃き掃除するように、低出力の“天神”で地面を薙いでゆく。自分の手で生活用品を蒸発させながらも、燐はあまり表情を変えなかった。

 予め左香の場所は把握していたのか、すぐに彼女は救出された。


 続いてきみの番だ。掘り出されたきみたちふたりは、奇跡的にも外傷はほとんどなかった。燐はしばらくそのことを自分のことのように喜んでいた。だがすぐに真顔になって、きみたちを急かす。


「じゃあ一刻も早く移動しよ。挟撃でもされたら、今度は守り切れないかも。だからほら、立って立って」

「うん。あ、でも、なにも持っていかないのか?」


 せめて“雷杭”ぐらいはと思って言ったのだが、燐は首を振る。


「そんなの探している暇ないよ。さっきのやつね、とんでもない聴覚センサーを持っているみたいなんすよ。あの大きな耳がそーなんだろうね。ほとんどこっちの行動は筒抜けで、もし相手が何らかの狙撃手段を持っていたら、この瞬間にも燐たち死んじゃいますよ」


 薄氷の上の生だ。それでもこれからを生き残るためには“雷杭”にはかなりの未練があったのだが、きみは言う通りにする。


「まあ仕方ないか。あれだけ特訓したけど、背に腹は代えられないし……うう、もったいないもったいない……」

「い、命あっての物種だよ、きーちゃん」


 貧乏性のきみの手を握って、左香がなだめてくる。


「じゃあ、ちょっとだけ止まっててね」


 燐が指先からシュッと霧のようなものを吹きかけてきた。続けて左香にも。するときみたちの姿はまるでガラスのように透き通ってゆく。そこにあるのに見えなくなる。奇妙な心地だ。


「“潜界”っす。三人分だと120秒しか持たないけど、この場から離れるぐらいなら役に立ってくれるはずなんで」


 燐は心からきみたちの身を案じているようで、その一生懸命さは見るものの心を打つだろう。しかしそれは想いなどではない。ただ単にアーティファクトの効果というそれだけだ。だから特別な感情を抱いてはならないのだ。

 だけど、きみは告げる。


「ありがとう、燐」


 左香の言うようなややこしいことはなにも考えなかった。ただそうしたいから、きみはそうした。感謝の言葉を受けて、姿が消えゆく燐は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべて、すぐに屈託なく笑った。


「よせやい、照れるじゃないすか」


 

 離れ離れにならないように手を繋いだきみたちが走った先には、すぐに境界があった。迷いなく飛び込むと、きみたちは次なる戦場へと到着する。

 誰が列車で、誰が轢き殺されてしまうのか。運命を変えるためのレバーの在り処も、きみはまだ知らないまま。

 

 

 ◇ ◆ ◇ ◆ ◇

 

 

 窓も扉もない真っ白な部屋だった。継ぎ目ひとつない空間には声が響いた。まるで音楽室のようだと、その頃のきみは思っていた。


『上無初……その、9才……』


 きみの目の前には、黒髪の少女がいた。まるで誘拐されたような顔をしている。きみはぶっきらぼうだった。きっと目つきも悪かった。


『……よろしく』


 短く告げた言葉に、初がビクッと体を震わせる。人見知りなのはきみも同じだ。

 きみと初の周りを、モンシロチョウのように一枚のパネルが飛び回っている。そこにはこう書かれている。


『難易度3 初対面の女の子と心を打ち解けるまでどれくらいかかるのか選手権』


 きみが小学三年生のことだった。無理矢理押し込められたから、きみは当分帰れないのだろうと思っていた。座り込んだまま床を見つめていた。ただなんとなく時間が流れるままに任せていたが、本当は見たこともないような可愛らしい子に話しかける勇気がなかったのだ。


『あのう』


 と、初から声をかけられて、きみは目を合わせないまま聞き返す。


『なに』

『えっと……』


 なにかのきっかけがあれば、きっときみも歩み寄れただろう。なんせこれは姦神の命令なのだ。学校の授業よりも大切なものだ。そのぐらいの分別はある。

 姉とは全然違うお人形のような女の子が、キラキラとした瞳をこっちに向けてきている。

 実はポケットの中に、きみは秘密兵器を持ってきていた。これさえ出せばきっと、この難問はいともたやすく解決できるだろう。だが、そのタイミングが掴めない。

 初はきみをじ~~……っと見つめている。きみも誰かにすがりつきたい気分だったが、その対象はこの場にはいない。

 姉はいつもどうやっていただろうか。思い出す。そうだ、彼女はいつだって唐突だった。


『あ、あのさ!』

『えっ、あっ、はい!』


 背筋を正す初に、きみは武器を突きつける。

 手のひらの上に乗った紙の束。夢中になると一瞬で時間を消してしまう魔法の遊び道具。


『トランプ、やろう!』

『えっ、えっ、ええっ!』


 と、ひとしきり初はうろたえた後で、急に落ち着きを取り戻して訊ねてくる。


『……トランプ、って、なんですか?』

『あー、えっと』


 きみは頬をかく。ともあれ、これで目的ができた。いくつか知っている遊びのうち、きみは一番自分が好きなものを初に教えることにした。

 トランプを箱から出して、床に広げる。すぐそばに初も寄ってきて、やはり気恥ずかしくなりながらもきみは説明する。


『まずはね、トランプっていうのはハートとスペードとダイアとクローバーがあって……』

『うん、うん……』


 初が黒髪を耳にかける。さらりとした香りが漂ってきて、きみは急にドキッとした。

 初ときみが親しくなるまで、一日はかからなかった。その後すぐに初は水鏡小学校に転校してきて、きみたちと同じ部活に所属することとなる。

 きみの世界は広がってゆく。それはとても奇妙なものだったが、今のきみの目に入るのは楽しいことばかりだった。

 

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