君に届け
嬌艶なブラに腕を通しホックを留めると、谷間に手を突っ込んで胸を寄せる。
ブラウスを着込んで楚々たる長髪を整えると、ミニスカートに白く長い脚を通しファスナーを上げる。
ファンデーションにマスカラ。そしてリップを塗ったつやつやの唇を、貝のようにぎゅっとつむいでぷるんと突き出す。
鏡に映る色っぽい仕上がりにうっとり――
なんて、いつも夢見ている。
実際鏡に映る自分の姿はちっちゃくて、化粧気もなく、谷間なんてありはしない。
絶望した。
鏡に手をつき寄りかかると、思わずこうべが垂れる。
女の子の成長期というのは早いはずなのに、高校二年になったわたしにはいつ訪れるのかな。
それでもやっぱり牛乳は嫌い。魚は苦手。
だから大きくなれないんだと、皆が言う。
いいじゃん。いまの世の中にはサプリメントというものがあるんだから。
しかも最近髪を伸ばし始めた成果、中学生に見られなくなったんだから――高校二年生なんだけど……ね。
鏡に映る童顔な自分とにらめっこして、毎度のことながらはぁーとため息がこぼれる。
「麻美。陽ちゃんが来たわよ」
お母さんの呼び声に弱々しく「はぁーい」と対応し、かばんを肩にかけた。
陽くんとは隣に住む幼馴染。
おぎゃーと産まれてからの付き合いだ。
だから陽くんのことはなんでも知っている。
おへその横にホクロがあること。
大きい目の輪郭がチャームポイントだということも。
中学生から身長が伸び始めたことも。
人懐こく、優しくてまわりから人気があることも。
機嫌が悪くなると言葉数が減ることも。
そんな彼は、今年からおんなじ高校に通うことになった、一っこ下の男の子だ。
入学祝なにがいい。そう尋ねると、映画に連れて行ってほしいとのこと。
そんなの友達と行けばいいのに。
でもそれじゃお金は自分払いだと、陽くんは言っていた。
まぁ映画代ぐらいならというわけで、春休みの今日、一緒に行くことになったのだ。
「おはよ、麻ちゃん」
玄関で手を上げるさわやかな少年。陽くんだ。
昔はわたしよりちっちゃかったクセに、いまは百七十五センチと、わたしより三十三センチも背が高い。
「麻ちゃんと出かけるなんてすっげー久しぶり」
「この前も言ったけど、そのちゃん付けやめてよ」
わたしは靴を履きながら陽くんへ唇を突き出す。
「なんで?」
「なんでって、わたしのほうが年上なんだから」
「知っているよ。だからなんで?」
しれっと言う陽くんが腹立たしい。
中学時代、「昨日年下のお前の兄貴を見かけたぞ」とか、「麻美の年下のお兄ちゃん」とか言われて、ちっちゃな自分がどれだけ傷ついてきたことか。
でもそのことを陽くんに説明するのが、年上のお姉さまとしてすごく悔しい。なんか負けた気がする。
「いいから、これからは『ちゃん』付けで呼ばないように」
人差し指を突き出し――三十三センチ上の、麗らかなフェイスの陽くんに憤怒してやると、
「へ? べつにいいじゃん」
なんて呆れた答えが返ってくる。
ぜんぜん威厳ナッシング?
年上だぞ!
先輩だぞ!
お姉さまだぞ!
むきー!
「麻ちゃんどうしたの? 足の裏でもかゆいの」
バカにした陽くんの言葉が、わたしの怒りに油を注ぐ。
人を、水虫持ちみたいなことを言わないでほしい。
「ち、がーう。地団駄踏んでいるの」
「なーんだ。そうなんだ」
三十三センチ上で大笑いしている陽くんにあんぐり。
なにが原因で怒っているのか、わかっちゃいない。
それ以前に、怒っているとさえ思われていない?
呆れて反撃の言葉も出ない。
「もういい! 陽くん行くよ。映画始まっちゃうでしょう」
そう声を荒らげ、わたしは先頭を切って玄関を出ることにしたのだった。
緑の若葉。色鮮やかに咲く花たち。舞い踊る蝶々。まばゆい陽だまり。
すっかり春に包まれている。
ついこの間まで、寒さで身をかがめて俯いていたのがウソみたい。
「こうやって二人で出歩くのって、すげー久しぶりだね」
その声に、目に映る春から後ろにいる陽くんへ振り返る。
三十三センチ上。春の日差しを浴びた陽くんが、陽気にほほ笑んでいる。
「そうかな」
わたしは顎に手を添えて考えてみた。
小学校のころはよく、一緒におつかいへ行っていた。
中学になってからは……そう言われてみると、玄関先でたまに声をかける程度になっていて……出かける時間帯も違ったし、部活とかもあったし……
「本当だ。家の前ではよく見かけていたから、そんな感じがしなかったなぁ」
「麻ちゃん。髪伸ばしているんだね。前は肩までもなかったのに」
にこやかに言われ、胸まである横髪をすくってみた。
髪を伸ばせば少しは大人っぽく見えるかなと、浅はかな考えで伸ばしているなんてこと、恥ずかしくて言えるわけがない。
「ま、まあね」
はにかむように自嘲する。
「手入れとか、すごく大変なんだから」
ふーんと唸りながら、陽くんが覗きこんでくる。
「なんか高校生って感じ」
「な!」
小さいとバカにしているもの言い。
と言うか、高校生だということ忘れていない? あんたより年上だよ!
「ちょっと! 陽くんが今度、わたしの学校に入学するんでしょう」
「え? あ、そっか」
頭を掻きながら嘲笑う陽くん。
その余裕っぽさに腹が立ち、むきーと地団駄を踏んだ。
このままバカにされていたんじゃ、年上としての――数日後、先輩としての威厳が……
先を進む陽くんのジャケット姿を睨みつけ、なにか言い負かせるものはないものだろうかと考えてみた。
――彼女とかいないの?
その前にわたしに彼氏がいない。質問を切り返されると逆砕してしまう。
――年少組までオネショしていたよね。
わたしのほうが治るのが遅かったような。
――図体でかくなったね。
落ちつけわたし。そんなこと言ったら元も子もないよ。
わたしは近くの電柱に手をつき、こうべを垂れて落ち込む。
「麻ちゃん、どうしたの。気分でも悪いの」
「べつに」
わたしはため息交じりに返事しながら、そっぽを向く。
もしかして、わたしって陽くんに勝るものは、なにもないの?
そう絶望するしかなかった。
「大丈夫? 日改めようか」
「気にしないで」
手のひらを見せて、大丈夫だと紡ぐ。
「気にするよ。せっかく必死こいて受験クリアして、これから遊びまくるってときに」
必死? 受験?
わたしはハッと閃いた。
こう見えても、わたしは県内でも名の通っている進学校に通っている。
自慢ではないけれど、成績は上位クラスにいる。
一方陽くんは、わたしが知っている限り、あまり成績は良くなかったはず。小学校のときなんて、通知表を隠して両親に怒られていたぐらいだ。
にやりと口の端に力が入る。
「陽くん。よくうちの高校に受かったね」
「だろう。チョー勉強したんだぜ。中学の担任なんて、顔を合わすたびに受けるのをあきらめろとか言われたし」
「ほぉーほぉー」
あっけらかんと笑っている陽くんを、訝しげに見つめる。
わたしにはあった。陽くんに勝てるものがあった。
心中でこぶしを握り締めるとゴングが鳴った。
「うちの学校って、授業、結構速いし、難しいよ」
まずかるくジャブジャブ。
「え。マジ」
「あと、宿題とかも多いし」
「げー。マジかよ」
髪をわさっと掻きあげ、空を仰ぐ勉強嫌いの陽くん。
苦しんでいる。苦しんでいる。効いてきた効いてきた。
「それに予習復習もしていかないとね。ついていけないよ」
「なにそれ、勉強ばっかじゃん」
「そうだよ。勉強が苦手な陽くんなんか、二宮金次郎みたいに教科書とにらめっこしていないと、授業についていけないかもね」
「麻ちゃん。やばくなったら勉強教えてよ」
と、手を合わせる陽くん。
キタキタキタキタああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!
いまなんて言った? 頼んだ? 拝んだ?
ふつふつと笑みがこぼれる。
「どうしようかな。わたしもいろいろと忙しいし」
空の青を上目遣いし、平静を装う。
内心は、どうやってとどめを刺そうかと、穏やかじゃない。
「マジ。麻ちゃんでも余裕ないの? やばいな」
え? そこは進路に後悔の念を感じるところじゃなくて、わたしにひれ伏せるとこだよ。
考えあぐねている陽くんに、おいおいと手招きする。
「オレ、ついていけっかな。受験だけでもいっぱいいっぱいだったのに。三年間も勉強漬けなんて……」
三十三センチ上で翳りをつくる陽くん。不安で、本気でビビっている。
後輩に恐怖を誘ってどうするの、わたし。
「えーとね、陽くん? でもね、結構楽しいよ」
あたふたと、与えた恐怖を解きほぐす。
「勉強ばっかなのに」
「そうだけど……でも、友達とか作って教えあいっこするとか」
そうだ。わたしも友達とよくテスト勉強をする。それに一年も経てば、彼氏彼女とか出来て、二人で仲良く勉強する子も増えてきている。
「バカだと相手にされないかも」
「だ、大丈夫だよ。陽くん人懐っこい顔し、人に好かれるキャラだし……そうだ。陽くんも彼女とか作って、その子に勉強でも……へ、なに?」
人が一生懸命、負の空気を追い払っているのに、陽くんの顔が急に険しくなった。
わたし、なにか粗相でも……。
もしかして彼女がいたとか? そうだったら、知らなかった。
と、思わずぎょっと尻込んだ。
「べつに」
とげとげしい口調を吐き、陽くんが歩き始める。
ちょっとちょっと。
わたしはあわてて陽くんのあとを追いかけた。
「ごめん陽くん。なにか気に障った?」
横に並び、陽くんの大きな歩幅に合わせながら覗きこむ。
もしかして、彼女となにかあったとか。地雷踏んだとか?
「べつに怒っていないよ」
陽くんの歩くスピードがそうは言っていない。
一先ずここは遠まわしに。
「勉強のこと? 心配しなくても、きっと大丈夫だよ。がんばって高校受かったんだから、その勢いで――」
「そんなんじゃないよ」
やっぱり。ってことは……
「じゃ、その、彼女のこと。もしかして彼女いたの? ごめん知らなかったから」
「いないよそんなの。いたら彼女と映画に行っているよ」
え、ああ、そりゃそうだ。
もしかして、わたしが知らないうちに――なんて思ったけれど。
でもそうしたら、なんで急に機嫌が悪くなったんだろう?
と、そこで思考が薄れてきた。陽くんの歩くスピードにだんだん息が切れてきたのだ。
「ちょっと陽くん」
思わず陽くんの服の裾をつかむ。
「は、速いよ」
陽くんが立ち止ると、わたしは両手を膝につけ、肩で息をする。
陽気な日差しの中、早歩きするのはちょっとした運動だ。
女の子には酷ってものだ。
「ごめん。わたしなにか悪いこと言ったんなら謝るから」
「だから怒ってないって」
「うそ! わたしは陽くんのことなんでもわかるんだから」
そう。機嫌が悪くなると……。
「からかい過ぎたんだったら謝るから。ごめん」
「からかう?」
「え? 違うの」
体を折ったまま陽くんを見上げる。
「勉強できない陽くんをって……あれ?」
きょとんとしていた陽くんの顔が少しずつ曇り出す。
なんかべつの地雷を踏んだみたい。
「なにそれ?」
「あれれ」
ジト目の陽くんから視線をそらす。
「じゃ、いったいなにに怒っていたのかなぁ?」
と、チラ見で訊ねてみた。
え? 今度は陽くんの瞳が逃げていく。
「べ、べつに怒ってなんかいないってば」
いつもの陽くんに戻っているけど――もうわかんない。
悔しい。陽くんが考えていることがわからないなんて。
そう唇を尖らせた。
「な、なんで麻ちゃんが怒っているの」
「べつに怒ってなんか……」
拗ね顔のままそっぽを向く。
「ウソだ」
「本当」
そうウソをついて、唇の先に力を込めたままわたしは歩み始めた。
隣についてくる陽くんが、やれやれみたいに大きく息を吐く。
「やっぱ怒っているじゃん」
「怒ってない」
「ウソだ。麻ちゃんが怒ると歩くスピードが極端に遅くなるじゃん」
かちん。
わたしはわざと足取りを広げた。
「ほら、意地になった」
むきー。
「もう! 陽くん」
「だからなんで怒っているのさ?」
そう言って陽くんが、地団駄踏むわたしをなだめてくる。
「だって陽くんが怒っていること教えてくれないから」
本当は陽くんの考えがわからないから――そうは言えない。
「ええー。それって、ギャクギレじゃん」
「うるさい。早く言いなさい。ほれ言いなさい。すぐ言いなさい」
食ってかかるわたしに、両手のひらでどうどうと抑えてくる陽くん。
わたしは小動物じゃない。
グルルーとにらみつけてやると、陽くんが渋る。
「……だって」
「だって?」
「だって……麻ちゃんが、人のこと軟派っぽく言うから……」
え?
照れくさそうな陽くん。
なんだ、そういうことか。
と、安堵した。
わたしは無意識にもっとひどいことを言ったのかなと、気になっていたのだから。
「ご、ごめん」
軽い気持ちで言ったことが……そんなに傷ついたなんて。
もじもじと落ち着きのない陽くんを、まじまじと見つめた。
でも容貌容姿ともに悪い方じゃないのに――性格だって――その気になれば彼女なんてさくっと出来そうなのに――
まぁ身長だけでなく、いつの間にか心も大人になったってことか。
大きくなった陽くんに、うんうんとうなずいていると、
「麻ちゃんは?」
と、意味不明なことを言ってきた。
「へ? なに?」
「麻ちゃんは、彼氏とか、いるの?」
なんだって!
驚きのあまり飛び上がりそうになった。
それは、スリーサイズの次に、いま訊かれたくない質問ベストツーに入る。
「ええっと」
どうする。ここで威厳のために見栄を張るか、それとも本当のことを言って、チビでモテないということを晒してしまうか。
わたしはしばらくいじいじとしてから覚悟を決めた。
「い……いないけど」
小さな声で答える。
ウソをついても、どうせ陽くんが入学したらバレる。
身長なんて一晩で伸びるわけもなければ、彼氏も出来やしないし。
さあ笑え。
さあ貶すがいいさ。
どうせわたしは陽くんみたいにスラリとしていないし、胸もないさ。
どうせ男も言いよってなんか来ないさ。
もうやけくそで、腰に手を添えて胸を張ってみせてやる。
しかも高笑い付きだ。
「そうなんだ」
あれ? 意表な返しにがくり。
「なーんだ。『陽くんも』っていうから、麻ちゃんに彼氏がいるのかと思った」
「なにそれ」
わたしのややこしい言い回し。
陽くんの勘違い。
わたしたちは春の麗かの中、笑いあった。
「てっきり麻ちゃんに」
「違う違う。最近、まわりのみんながそんな空気だから」
わたしたちはいつもの速度で歩み出す。
わたしの歩幅に合わせた、お互いに無理のない速度。
小さいころに身についた、懐かしいリズムだ。
「ああー。映画間に合わないね。次の上演でいい陽くん」
「べつに観れなくてもいいや」
「なにそれ」
頭の上で手を組む陽くんを見上げる。
「実は映画なんて口実で、久しぶりに麻ちゃんとこうやって、歩きたかっただけだから」
「なに言ってるの。高校になったら一緒に登校できるでしょ」
「そうだけど」
「でも、よくウチの高校に受かったね」
「ダメだと思った?」
「ううん。そうじゃないけど。お母さんから聞いたとき、本当に受けると思わなかったから」
三十三センチ上で、陽くんが自嘲気味にほほ笑む。
それは春の暖かな空気に似た笑みだ。
優しくて、心温まる笑みだ。
「オレも。オレも、マジで受かると思っていなかったよ」
「なにそれ。落ちていたらどうするつもりだったの」
「あきらめるつもりだった」
「一体なにを?」
「……あのさ、麻ちゃん」
陽くんが突然足を止めて、話を紡ぐ。
目的があるというのは、すごいことだと思った。
わたしみたいに、ただ夢見ているだけではなにも叶わないんだと思った。
そして、いつの間にか陽くんの考えていることが、わからなくなっていると思った。
そして、陽くんを初めて男の子だと思った。
春のそよ風に髪を梳かれながら――
火照った顔を両手で隠しながら――
高鳴った鼓動に苦しめられながら――
三十三センチ――この差はすごく大きいと思った。