ヴァルキリー
それはひどく雨の降った日のことだ。風はさほど出ていなかったが、夕刻だったこともあり、雲の下はかなり暗かった。
哨戒任務に出ていた自分達の隊は、突然、国籍不明の戦闘機から攻撃を受けた。訳の分からぬまま交戦となり、部隊は雲の間に散り散りになる。上から押さえつけられては、雲の上へ上がれそうにもなかった。無線からAWACSの通信士の声が聞こえると同時に、敵機の胴に描かれた赤い星のマークを、雨の向こうに見て取れた。隣国の空軍だ。今回の哨戒も、先日に極右へと政権が交代したその国を警戒してのことで、そして、今日この日、案の定の開戦となった。
自分がこの部隊に新米パイロットとして配属したのがつい二月ほど前のこと、実際の命の奪い合いに、こうして加わるはめになるのはこれが初めてだった。出撃前に悪態をついたこの天候も、今思えば、こんなに良い的を敵に気づかれにくくしてくれているように思えて、緊張の中にわずかに安堵していた。
その時、視界の隅に、紅い炎がきらめいた。
「レーダーから一機ロスト。『ヴァルキリー』はどこだ」
AWACSの緊張した声が、小さな油断をかき消した。気づけば、さほどの距離もなく、後ろにつかれていた。急いで急旋回したが、機銃を数発被弾したようだった。生命の危険を肌で感じながら、隊長がしきりに『ヴァルキリー』に応答を求める声を聞いていた。そこから先は、よく覚えていない。それどころでなかったからだ。
しばらくして、雨雲の中に消えるように、敵機は次々と撤退していった。そして、雨が上がるとそこには、とある一機を欠いた、自分達の部隊だけが残された。
――『ヴァルキリー』。彼女は自分達の部隊唯一の女性パイロットだった。入隊してすぐの頃、夕食に誘われたのを覚えている。美人の上に、軍の広報誌でも度々見かける名パイロットだ。二人っきりで、と誘われたこともあって、随分舞い上がっていたように思う。正直、その日何を食べたか、今思い出せない。ただ、次の日にすぐ先輩のパイロットに他の隊員も一様に誘われていることを教えられ、落胆したことだけはしっかりと覚えている。そして、その『彼女からのお誘い』をただ一人蹴った人物が、我らが隊長であることも、その時聞かされたのだった。
隊長は変わった人だった。いつも人に囲まれていた『ヴァルキリー』と違って、見るたびに一人だった。そして、いつも本を一冊携えていて、ブリーフィングの前にも、窓側の席で誰と話すこともなく、独り、本を読んでいた。三十半ば、独り身だいうその隊長は、かといって人が苦手なわけでもなさそうだったが、ただただ一人でいることを好んだ。不思議と嫌な感じもしないので、一度昼食を一緒にとろうかと声をかけようとしたら、『ヴァルキリー』に止められた。隊長は一人ぼっちがお好きなようだから、と、彼にも聞こえるように、少しトゲのある言い方でそう言った。彼女は断られたのを根に持っているようだ。彼は苦笑していた。そうして、隊長はやはり独りだった。
交戦後、基地についてから『ヴァルキリー』の不在に浮き足立つ部隊内でも、隊長はまた一人、本を読んでいた。ページをくるのが平時より少し遅い気がした。
開戦の日に『ヴァルキリー』がいなくなってから数日、戦いは本格化してきた。休む暇もなく出撃を繰り返し、そのうち捜索隊が何の手がかりもなく戻ってくると、『ヴァルキリー』は皆の心の中から忙しさに掻き消えていった。彼女は死んだ、と誰もが諦めたからなのだろう。任務の合間に、彼女の部屋から段ボール箱が運び出されるのを見た。ずいぶんと少なかったように思う。
運び出されたそれらを追って、外を眺めると空に黒雲がたち込めていた。嫌な予感がした。天候の荒れやすいこの季節を狙ってなのだろうか。敵の来襲を告げるスクランブルが鳴り響き、自分は自室へと向けていた足を、また待機場所へと向けなければいけなくなった。ハンガーへと向かう頃には、雨が降り出していた。
『ヴァルキリー』がいた二番機の場所には、別の先輩パイロット(『ヴァルキリー』の話をしてくれた人だ)が入り、自分はその後方についた。他の機体が編隊を組む間に誰かが、また雨だ、と呟くのが無線に入っていた。風はなく、雲は塗りつけたように立ち込めていた。
《方位三二五。爆撃機二機に護衛の戦闘機部隊、数は――十二》
キャノピーを叩く雨は視界を灰色に染め、すでに遠くなってしまった晴れ間に敵機の翼がかすかにきらめいた。交戦状態になる直前に、単機で向かわぬように、と隊長から無線が入り、二番機の後方につくことになった。今日こそは、と意気込んでいたのに、気付かれていたのかもしれない。
《爆撃機を落としたら、こっちの勝ちだ。とりにいくぞ》
二番機がそう言った。無線の向こうで彼がにやりと笑んでいるのを感じる。自分の意気込みは、ずいぶんと他人にわかりやすいようになっているらしい。ついこの間も誰かにそう言われたのを思い出して苦笑いすると、了解、と返した。二番機が今度は声を上げて、笑ったようだった。
戦闘後。隊長が戦闘中にベイルアウトした隊員の救助要請をしている。見える限り数えただけでも、元々いた数よりは確実に減っているが、この戦いはこちらの勝ちだった。爆撃機を落とし、自分はとうとう初撃墜を成し遂げた(とはいえ、随分と援護してもらったが)。そうして、生きているとなれば万々歳ではないか。隊長がしばらくしてから、よくやった、とただ一言言ってくれたことも、また嬉しかった。雨はまだ降り続いていたが、気持ちは晴れ晴れとしていて、正しく言い直せば、舞い上がっていた。
《全機、基地に帰還せよ。――『バルドル』、『アールヴ』、進路が違っている。すぐ隊列に戻れ》
AWACSからの無線に、はっとして我に返る。よく見てみれば、確かに自分はしっかりと二番機の後ろにくっついていたが、その二番機が編隊と随分離れたところを飛んでいる。自分はすぐ旋回して隊の方へとすぐに戻ったが、来たほうへ精一杯顔を向けると、氷の残る山脈の方へとふらふら飛んでいく、二番機の姿があった。
《『バルドル』、命令だ、隊へ戻れ。応答しろ、『バルドル』。聞こえないのか》
AWACSが繰り返す。しかし、ついさっきまで、自分の初撃墜を祝って、盛んに通信してくれた二番機は今、誰の声にも応えず、ただひたすらに隊から離脱していこうとしていた。雨は勢いを増して、編隊と二番機の間を隔てている。
《……ジェイク=パターソン少尉、それ以上進むと脱走とみなすぞ。すぐに戻れ》
隊長がパイロットの名前を呼んでいる。AWACSの通信から、十数秒。二番機の機影はもう既に鉛色の空の中に消えゆこうとしていた。
《……リ……っ!》
ガリガリと何かを削るようなノイズに、切れ切れにパイロットの声が混じる。
《聞こえるのか、『バルドル』! 応答しろ!》
通信士が声をあげるのを、何ひとつ理解できないままに聞いていた。新人の自分だけでなく、他の隊員達もどうしたらいいのか分からぬままに基地に向かっているようだ。皆、目で二番機の行く末を追っていると、無線が入る。
《よかった、生きていたのか……『ヴァルキリー』》
花のような赤い炎が小さく咲くと、二番機は皆の視界から完全に消滅した。
《――レーダーから『バルドル』ロスト。何が起こったんだ》
答える声はなく、雨はただ暗く降り続けた。
ブリーフィングルームには、今、自分と隊長しかいない。少し前に隊長から入れてもらったコーヒーも味がしなくて、ただ自分の手の中で温くなっている。他の隊員達は自室か、外の見えない部屋にいるだろう。戦況がよくなるほどに、隊内の空気は異様なものになっていった。開戦から一ヶ月。撃墜以外の戦死者は、雨の日の数だけ増えた。ある者は戦いの中で、またある者は作戦空域との行き帰りの間に、ふらり、と雨に霞む中に消えていった。そして、通信記録の中に、消えた女性パイロットのTACネームが繰り返されていく。決まって二番機ばかりが失踪し、彼らの機体は見る影も無い残骸となってあちこちで見つかった。だが、決まって死体はあがらない。脱出した形跡がないにも関わらずだ。今、この部屋を漂う静けさは、先ほどまでのパニックの反動なのだろう。部屋には切れかけた蛍光灯の音と雨の音、隊長がページをめくる音だけがある。今日、二番機に指名されたパイロットがとうとう耐え切れなくなったのだろう、顔を真っ青にして、悲鳴にも似た叫び声をあげて、部屋を飛び出していってしまった。そのパイロットはまだ部屋から出てこない。加えて、また嫌な予感がする。きっともうすぐスクランブルがなるのだ。そして、その場合、二番機につくのは――自分だ。
隊長の方を向くと、彼が背にしている窓も見えた。タバコの脂で汚れたブラインドの向こうは、今日も雨だ。打音が一際大きくなる。少しでも気を紛らわせたくて、隊長、と声をかけてみる。自分の声が案外に小さくかすれているのに気がついて、もう一度、声をかけようと思ったが、もう喉が震えて声がでなかった。それでも聞こえたのか、彼は本を閉じる。北欧神話らしかった。
「……ヴァルキリー、ワルキューレは世界の終焉にむけて、戦場から戦士を集めるんだそうだ」
彼はそう言って、ブラインドを指で押して、外を見た。こちらからはそこが暗いことしかわからない。ラグナレク、と呟くと、彼は頷いた。
「勝利に導くために集めているなら、まだ可愛げがあったのにな」
彼は、そう言って小さく笑った。首を傾げてみせると、同時にスクランブルがかかる。それは死の宣告のように、自分の頭の中で残響を伴いながら、割れんばかりに鳴り出した。隊長は部屋から半歩出て、未だに立ち上がれない新人に振り向く。
「行くぞ。これ以上、あの寂しがりやのお姫様に、大事な戦士を連れて行かせるわけにはいかないからな」
どうやってあの戦火を飛んでいたのだろう。空戦の最中も、これが夢か現かも分からぬまま操縦桿を握っていた。あちこちで赤い炎が咲いている。モノトーンの空間に、一際明るく咲くその赤が、生と死の入り混じった世界を見せていた。時間の流れも季節特有の寒さも感じぬまま、近くをずっと隊長機が飛んでいてくれることだけを頼りに、一心に敵に食らいついていた。
《敵機の全滅を確認。全機、帰還せよ》
AWACSの声に戦いの終わりを確認して、機体を水平にする。管制機は続けて、別地で行われた戦いの結果を通達している。敵国の首都はついに落ち、民衆の中に政権打倒の動きが見え始めたという。戦争は終わったのだ。自分は、生き残ったのだ。
《そうね、本当に強くなったわ、『アールヴ』。見違えちゃった》
AWACSの男声にぶつかるように、聞き覚えのある女性が割り込んだ。コックピットに雨を含んだ空気が流れ込み、背中にぞくりと冷気が走ったのを感じた。自分が悲鳴を上げているのに気付くまでに、ずいぶんかかった。
《なに、悲鳴あげてるのよ。まるで幽霊でも見たみたいに。もしかして、あなたも私が死んだとでも思ってたの?》
彼女は笑った。周りを飛ぶ味方からも、笑い声が聞こえる。中には今までにいなくなったパイロットの声も混じっている。
《みんな生きてるわよ。私がただで死ぬわけないじゃない。あなた達が離陸した後に、やっとこ基地に帰った私たちまでも飛ばさせられたわけ。信じられないなら、その翼の片方でも吹き飛ばしてあげましょうか》
また笑い声。いつのまにか、雨が止んでいる。雲の切れ間から、夕暮れ近い、金色の光が差し込んでいる。綺麗だ。自機の周りを仲間の戦闘機が勝利の余韻を味わうように飛び交っている。そうだ。戦争は終わった。そして、自分は生き残ったのだ。『ヴァルキリー』も。『バルドル』も皆。ほっとして、逆に声が引っ込んで出てこない。そうか、よかった。皆ここにいる。皆で基地に――
――皆?
《さぁ、帰りましょう。みんな一緒に――『アールヴ?』》
違う、と喉の奥から、声を絞り出す。違う。これは違う。いない。ここまでつれてきてくれたあの機体が見当たらない。違う、ともう一度、今度ははっきりと声に出した。そうだ、ここにはあの人がいない。
《『アールヴ』!》
『ヴァルキリー』のヒステリックな声に、彼の、隊長の声が重なった。
雨が激しくキャノピーを叩いている。無線が隊長の声をビリビリするほど張り上げて、自分はすぐさま下を向いていた顔をあげた。遠くに見えていた山脈がかなり近くに迫っていた。どのくらい隊を離れていたのだろう。隊長機の尾翼が自分の上を通って、彼が前に出る。やはり幻だったのか、周りにはさっきまでいた、他の機体が見当たらない。そして、『ヴァルキリー』は山脈の切れ間、真正面からこちらやってくる。
《どうして? どうしてあなたが来るの、隊長。一緒に来る気なんかこれっぽっちも無いくせに》
彼女の声は低く、怒気をはらんでいた。
《いつもそう。特に何をするわけでもないのに、あなたは皆に必要とされる。『アールヴ』も、あなたがいないことにすぐ気付いた》
無線は彼女の意思に呼応するように乱れ、ノイズを含みだす。
《ずるい。ずるいずるいずるい。みんな、私のことはとっとと忘れていたくせに。私がいた場所は、どんどん埋まっていく。私なんてまるでいなかったみたいに》
ノイズから、耳を貫くような金属音が現れる。『ヴァルキリー』が近づくにつれ、それだけで機体をバラバラにしかねないほどに金属音は大きくなっていく。
《それなら、みんな、みんな――》
『ヴァルキリー』とすれ違う。
《――死んでしまえばいいのに》
ノイズと金属音が止み、彼女の声がクローズアップされる。そして、次の瞬間には、割れんばかりのミサイルアラートが鳴り響いた。
《『アールヴ』! 聞こえるか? 方位一五二、全力で離脱しろ。まっすぐ飛ばずに、まっすぐ帰れ。いいな?》
隊長の命令に、やっとのこと、Aye,Sirと返すと、今まで出したこともないほどの全速力で、基地に向かった。隊長も同じく、ミサイルを回避しつつ、後ろについているようだ。
《聞け、『ヴァルキリー』》
無線から隊長の声がする。右へと小さく急旋回すると、後ろに迫っていたミサイルが横に流れていった。
《ひどい思い違いをしているようだから、言っておく。人と生きると言うことは、人間が元々独りであることを認識することだ。自分以外が、個として全く別を生きていることを理解することだ。肩を寄せ合って生きるのもいい、だが、人はお前の寂しさを紛らわせるための道具じゃない。――お前に奴らの命を、時間を奪う権利はないんだ、『ヴァルキリー』》
束の間、ミサイルアラートが止んだ。彼女は笑っていた。
《立派なお説教。ほんとに。あなたはそうやって、理屈で生きていけるからいいの。独りでいる中に、周りを感じていられるから。周りが確かだと分かっていて、独りを確かにできるから。でも、どうしたって、私には独りは独りなんだから。独りでいることは、いないも同じ。まったくの無。だから……だから、みんな、私を忘れたじゃない!》
再びアラートは鳴り始めたが、霞む視界のかなたに基地の明かりが見えた。滑走路をちょうど正面にとらえている。後方に警戒しつつ、着陸へと気を配る。
《……そんなに、独りが嫌いか、『ヴァルキリー』》
隊長が静かに尋ねた。その問いに、アラートが静まっていく。彼女の涙が、無線の向こうに見えた気がした。
《嫌。独りは嫌。お願い、独りにしないで。忘れないで。私はここにいるの、いたの。ちゃんと……》
それ以上、『ヴァルキリー』は何も言わなかった。いなくなったのかもしれない。無線に、再び連絡が入り、自分はそれを取る。
《『アールヴ』、聞け。このまま着陸して、他に伝えてくれ。俺は『ヴァルキリー』を捜しに行く》
同じように着陸態勢に入っていた隊長の機体が、また上昇する。燃料は、行って帰る分も無いはずだ。どんどん離れていく隊長機に、何度も通信を試みたが、無線はそれ以降切られてしまっていた。そして、とうとう機体も見えなくなった。
彼に伝えられないなら、『ヴァルキリー』に伝えなければならないことがある。開戦のあの日、『ヴァルキリー』が消えてから、何度も何度も捜索隊が出された。その全てに参加し、最後まで捜索の打ち切りを渋ったのは、隊長、その人だったのだと。
自分は着いて、隊長からの言葉を伝えるなり、倒れてしばらく寝ていたらしい。仲間の話によると、自分が隊列からそれていった時、他の機に帰還させ、隊長が一機でその後を追ったのだそうだ。彼が着陸態勢に入った後に、急に方向転換したことも基地からも見えていたそうだが、見えたのは、自分と隊長の機体、二機だけだったという。隊長かららしい座標のデータが基地に送られてきて、それが示す場所で『ヴァルキリー』の機体と、彼女の遺体が発見されたそうだ。他の隊員の遺体もほぼ同地点で見つかった。それが、もう昨日の話だ。
急に外が騒がしくなり、寝かされていた医務室に、バタバタと人が飛び込んできた。咳き込みながら曰く、隊長が帰ってきた、と。すぐさま、皆、滑走路へと走って出た。
ヘルメットを外し、機体の横に佇む彼の周りを、すぐ人が囲んだ。彼は、ボーっとした様子で、しばらくして頬を指で掻きながら言った。
「こうして連れて行かれなかったところをみると、俺は、本当にあいつに嫌われているらしい」
そして、隊長は溜め息混じりに笑ったのだった。