沈む記憶、浮かぶ存在
「記憶が沈むとき、存在は問いに変わる。」
私は、今日まで普通に生きてきた――
少なくとも、そう信じていた。
誰もが生まれた瞬間を完全に記憶しているわけではない。
むしろ、そんな記憶を鮮明に保持している者こそが、特殊な部類なのだと私は思う。
時間が遡るほど、記憶は曖昧になる。
一年前、二年前、十年前と、過去へ向かうにつれ、思い出は霧のように薄れていく。
それはごく自然なことだ。
だが、小学生の頃より前の記憶が、まるで存在しないかのように抜け落ちていることに、私は最近気づき始めた。
自分が何者なのか。
そんな疑問が、頭を離れなくなった。
きっかけは、些細な出来事だった。
ある日、脇腹に奇妙な感触を覚えた。
指で触れると、皮膚が薄く、ひらひらと剥がれている。
まるで日焼けした皮がめくれるように。
私はそれをそっと剥がした。
すると、剥がれた皮膚の下から、信じられないものが見えた。
コンセントの穴だ。
二つの細長い穴と、丸いアースの穴が、肌に埋め込まれている。
驚きに目を見開き、剥がした皮膚を手に取ると、それは白く細長い半紙のようなものに変わっていた。
黒と朱の墨で、複雑な文字や図形が描かれた、お札のようなものだ。
もし私の体がこのような「お札」で覆われているのだとしたら、私は人間ではないのだろうか?
だが、コンセントの穴を除けば、私の肌に異常はない。
滑らかで、どこにでもある普通の肌だ。
そう思った瞬間、冷や汗が滲んだ。
私は、自分の顔を見たことがあるのだろうか?
自分の姿を、鏡で確かめた記憶が、まるでないことに気づいた。
いや、そもそも自分の姿を想像することすらできない。
頭の中で、自分の顔を思い浮かべようとしても、そこにはぼんやりとした空白しかない。
鏡を探さなければ――
私は辺りを見回した。だが、ここには鏡らしいものなど一つもない。
あるのは、埃をかぶった奇妙な置物ばかりだ。
木彫りの仏像、色褪せた人形、錆びた金属の器。
薄暗い部屋は、まるで時間が止まったような静けさに満ちている。ここは物置小屋なのだろうか?
私は何かを探しにここへ来たはずだ。だが、何を?
その目的すら、記憶の底に沈んでいる。
鏡のある場所へ行こう。
私は体を動かそうとした。だが、足が動かない。
腕も、指先すらも、ピクリとも動かない。
まるで体が石膏で固められたように、完全に硬直している。
「これは、どういうことだ…」
声にならない声が、頭の中で響く。動けない。動かない。
私の体は、まるで操り人形の糸が切れたように、ただそこに存在しているだけだ。
パニックが胸を締め付ける。
だが、その恐怖すら、どこか他人事のように感じる。
まるで私の心自体が、誰か他の者に操られているかのようだ。
ふと、遠くから音が聞こえてきた。低く、単調な響き。
木魚の音だ。
それに混じって、抑揚のない声が呟くように響く。
お経だ。
音は徐々に近づいてくる。
木の床を踏む足音が、ゆっくりと、だが確実にこちらへ向かってくる。
私は気づいた。ここは物置小屋ではない。
薄暗い部屋の奥に、ぼんやりと金色の光が見える――仏壇だ。
そして、部屋の隅に積み上げられた無数の人形が、暗闇の中でじっと私を見つめている。
そのガラス玉のような目は、まるで私の存在を嘲笑うかのようだ。
そうだ。私は人形なのだ。
記憶が、断片的につなぎ合わされる。私は人間ではない。
この体は、布と木と漆で作られたものだ。
コンセントの穴は、かつて誰かが私に施した呪術の名残かもしれない。
お札は、私を封じるためのものだったのだろう。
だが、なぜ私はここにいる?
なぜ、こんなにも「生きている」ように感じる?
足音が止まった――扉が、ゆっくりと開く。
暗闇の中に、僧侶の姿が浮かび上がる。手に持った数珠が、かすかに音を立てる。
僧侶の目は、私を――いや、この部屋に並ぶ無数の人形たちを――静かに見つめている。
その視線は、まるで魂を見透かすようだ。
「お前も、供養の時が来た」
僧侶の声は、低く、どこか慈悲深い響きを帯びていた。
だが、その言葉は私の心を凍りつかせた――ここは人形供養の寺。
私の「人生」は、誰かの手によって作られた幻想に過ぎなかった。
私は、ただ、お経を聞かされるために、ここに存在しているのだ。
木魚の音が再び響き始める。
お経の声が、部屋を満たす。私は動けないまま、その音に飲み込まれていく。
私の意識は、徐々に薄れていく。
だが、最後に一つだけ、はっきりとした思いが浮かんだ。
私は、誰だったのだろうか――そして、お経の最後の響きと共に、私の「記憶」は永遠に闇へと沈んだ。
読んで頂き有り難う御座います。




