月の光
『不在=音楽/残響(反時計回りの堕胎)』という個人的な漠然とした制作テーマに基づいた作品の一つ。
是非、新しい文学を志す仲間に届いてほしい。
〈月〉〈膝の上のスケッチブック〉〈4Bの鉛筆〉〈缶ピース〉〈青いライター〉〈督促状〉
(君は見慣れた机をぼんやりと眺める。次第にいくつかの想念が生まれる。それは見慣れた机という仮の舞台の上に登場人物として演技を始める。君自身は大きな眼となる。今や君を見慣れた登場人物として鳥瞰する月のように。)
……夕焼けはもう、どこかの地平線に沈んでしまって、遠い底にある光源が空に残したものは、赤く、懐かしい、ほんの十数分の夢だった。
「茫洋さ」
「ぼーよー?」
「前途。前途が、ボーヨーなんだ」
後ろで陶器の割れる音がした。それでも僕たちの会話が調子を乱すようなことはなかった。僕たちは現在に推し黙ったまま、何かのカケラを探そうと記憶の底に沈んだり、ふと鮮明になった何らかの記憶が大切なものなのかどうかをじっと考えたり、途切れがちな会話をごく自然なやり取りとしていて、僕と中原はこの居酒屋にいて硬い椅子に腰掛けていながら、各々が自分だけの知る美しい湖に指先を浸しているかのような没入に身を委ね、まるで期待のように気まぐれに通り過ぎていく声を気の向くままにつかまえたり、誘惑するように手のひらを見せてその言葉を口にしたり、あるいは胸にしまったりもする——
(回想。それは君において、また月においての回想である。朧げな回想。不安定なイメージ。憂鬱が表現を得る寸前の、片隅に立つある心地良い実感。君が持っていた眼はいつか閉じてしまうだろう。そうして君は舞台上の彼という人物を了解する。完全な意味での別れを君から告げることなどできはしないということをも、朧げに理解してしまう。)
——懐かしい海が目に浮かび、描かれる。
(不安定なイメージ。)
海と空が向かい合う 月は程よく贅肉をつけている 二人の持ち寄った菓子パンを月が廻転し続けながら食う 一人は架空線のように力を抜いている 一人は女のように悲しんでいる 疑問は妙法寺まで来ている 二人は疑問を追っている それなのに疑問に追い付かれないよう懸命な選択を貪っている 乞食のように 頭頂骨に目玉をつけた男女にとっての夜のように疑問は二人に逃げ場を与えない 波が同じ数字を繰り返し呟く 3 3 3 3 汀はその残響音となる 月が廻転し続けながらあくびをする 海はつられてあくびをする 一人の胸元にはまだ太陽の唾液が残っている
(朧げな回想。)
そう、僕や、彼や、そこの海——朝霧の海——や、砂浜や、その波打ち際に座る僕たちを吹く風や、そこから見える明石海峡大橋や、あの日見た夕日や、これまでに見た夕日や、僕たちの仲間であるかのように海岸に座ってじっとしている妙な男や、恋仲の学生、それらが僕に短編小説の題を考えさせてきたのだった。僕はそういう分子の集合によって隔てのない切実な存在を知ることになる。
疑問は朝霧駅で入鋏を済ませた 月はすっかり眠っている 煙突が少し粗い霧の写真を一枚現像する 一人は架空線のようにだらけている 一人は女のように笑っている 青い色が絶えず死なないでいる 海は空間の伝え方だろうか? 青い布が顔を覆ってしまう 一人は抽象的に笑っている 一人は疑問の気配を感じ取る 海は眠れないでいる 十九世紀の浮遊物を運びながら 3 3 3 3 とまだ繰り返している
この居酒屋の漆喰壁をじっと見ていると、朝霧の海を思い出す。あるいは、黒い海に合成樹脂のような輝きを与えていた月の光をも思い出す。あの月光は確かに、柔らかい砂を透かした波打ち際と同じように、十九時半の夜空や、足音を立てずに時間をかけて空を渡る明石海峡大橋や、依然として物思いに耽る妙な男や、恋人に寄りかかる処女や、隠しきれない秘め事や、それら全てを吹く風や、僕の懐で安らかに横たわっている『善悪の彼岸』や、僕の隣にいる彼の真っ白い寝顔や、さらにはこの手で握りしめた柔らかい砂をも!……この手をすり抜けた冷たく柔らかい砂をも、あの月光は確かに揺らぎを与え、ある瞬間には作り物にさえ思える途方もない輝きを与えていた。
……夜はいつも夢から醒めるという行為に正しい意味を求めていた。彼はもう一度瞳を閉ざそうとし、少ししてから全身の溶解を訴える。彼にはもう見られない夕焼けを、どこにいる誰に願おうかと。
——中原と僕は奇妙に意思を通じ合う。神妙で、不安そうで、それでいて時に恍惚とした表情を見せ合いながら、ほとんど黙ったまま。まるで若いピカソが描いた盲人のように。
「若い頃のピカソが描いた盲人の青だ」
「つまりは半透明でありながら、あくまでも青い、と」
「……」
「ほら、飲めよ。酒は優しくはないが、大抵の感情には付き合ってくれる」
僕はお手本を見せるように勢いよくビールを飲んだ。中原は僕を真似するようにグラスに残っていた冷酒を一気に飲み干して、今度は熱燗を注文した。
「こうも暗いと、さぞ不味い酒が飲めるだろうと期待するが、いざ飲んでみると、決して暗いわけではないらしい、俺は」
中原は気障なハット帽を深く被ったまま訥々と呟いた。彼の頭に巡るのもやはり言葉ばかりであったのだが、日頃から観念に浸って酔いしれている彼にとって、割れた瀬戸物の破片が足元に滑り込もうとそれは単に事象であることに過ぎず、そのカケラが片眼に映り込もうと、そうでなかろうと、彼が浮かべている言葉の流れが僅かな影響を受けてしまったり、心の外側から現前してきたような声が漏れ出たりすることなどは決してないのであった。ただし僕はそういう実体を得る以前の声をほとんど聴いている。それが僕たちにとっての会話という行為だったから。
大切なものを差し出すことが彼を傷つけてしまったり、胸の中にしまい込んだ大切な記憶そのものに棘があったり、つかまえた言葉がいたずらな蝶みたく不本意に唇をすり抜けることもある。一度手放してしまった蝶を——まるで僕の手の中のあたたかみを享受し尽くしたかのように、いやに冷め切った態度で外界へと飛び立った蝶を——もう一度つかまえて安らぎを分かち合おうなんて、誰にとって静寂で、どんな貧しさが待っているだろう?
(君の周りには登場人物だけがいる。君は天井に貼り付いた楕円形の鏡を見上げる。君はそのまま夜を明かす。その一夜が必然であったかのように舞台上の演者は芝居を始めている。そして君は昨夜そうしないではいられなかった不眠の根源のようなものに魅了される。鏡に映るはずだった空を君自身の想像力で押しつぶしながら。)
「こういう夜は、むしろブラックのデッサンってなもんだ。薄明と入れ替わって白紙になる。そしてお前は詩人。詩人なら、白紙を愛せよ」
「そういう言葉はどうしても小説家の私見に聞こえるんだ。決して没個性の純粋小説家の言葉には思えないにしても……」
「馬鹿言うな。俺は小説を書きはするけどな、小説家なんかと一緒にされちゃ困るぜ。文章を書いた夜はぐっすり眠れるけど、絵を描いて眠れた試しはない。要は『ゲージュツ家』なんだ俺は。げいじゅつかじゃないぞ。カタカナでゲージュツ、漢字で家、だ。ミケランジェロほど堅くはないが、北斎ほど軽くもない」
「詩を書く夜は、ただ茫洋としている……」
……夢から醒める時、月の光が空間の説明を始める。何もかもを仄白く。月は我々を通じて光を得たかのように千切れている。葦原は僅かに揺れ、沈黙を分子に変える。沈黙はイコールの先に仮の語を添える。彼ならば、漠然とした喪失感に見舞われて、画集を開く、ペンを手に取る、外に出る、叫んでみようとする、両手で顔を覆い尽くす。仄白いスポットライトに照らされて眉を顰める。眉間が「空」という字を書く。
漆喰の模様は海のための装置であるかのようだった。僕はその装置に出力された海岸の片隅で、「誰もが迷わなくなればいい」と言う。僕でない誰かは「君は迷っているの」と言う。僕はもう一度「みんなに迷って欲しくない」と言う。僕でない誰かが「君は迷っているんだね」と言う——「迷いのないところへ行きたい」——「君は君の中の迷いを信じない?」——「僕は誰もが迷わなくていいところを作りたい」——「君もそこでは迷わない?」——「僕はもう二度と迷わない」
黒いハット帽が彼の目元を隠すように青い影を落としていた。鉛のように重たい影だった。僕の眼はいつの間にか俯いた彼の姿に釘付けになっていた。詩を書かずして詩的な憂鬱を体現する彼の姿が魅力的だった。
僕はふと、写真を撮りたいと思った。僕たちが十八歳の頃、彼が今よりも遥かに詩人だった頃、僕たちは互いの肖像を撮り合った。僕はトリスタン・ツァラを模した片眼鏡をかけて、中原は今と同じ真っ黒い帽子と外套を身につけて撮影した。僕はその写真を今も大切に持っている。たとえ見返すことはなくとも、どこへも行けない過去であるとしても、写真の中の僕たちは永遠に偽ることを知らないのだから。
[Portraits de la poésie.]
過去を見つめるのが人間だ——過去を見つめるが人間だ。
閉鎖されたキャバレー・ヴォルテールを目指して無一文でいた頃の、作と鑑賞と批評を一身に請け負っていた頃の、仮定し得る限りの全ての不幸を求めていた頃の、現在に推し黙る僕たちの重たい影になって偽らない二人の肖像。時の本意に説き伏せられてしまった僕よりも、どうしてもそのままでいる彼の写真を撮りたいと思った。
「精神に依存していると、書くための指先が怯えてしまうらしいんだ」と、いかにも希薄な視線でテーブルの木目をなぞりながら、誰に言うともなく中原は呟いた。
「そうか……精神ときたか……」僕は彼を疑った。「精神……?」
自分の中に芽生えてしまった疑念を罪悪として認識してしまった時、僕は決まって言葉を選び間違える。彼を無条件で信じていたいがために。
「精神なんてものは……」
綺麗なアゲハ蝶が僕の喉を通って飛んだ。
「精神なんてものは、全部嘘っぱちだ! くだらないものに取り憑かれている暇があるうちは幸福なんだ……」
僕の口から飛び立った蝶は僕の体液に濡れていて、ふらふらと情けない線を描いて中原の膝の上に落ちた。アゲハ蝶はかろうじて生きていた。脈打つような仕方で不規則に動く翅に一条の青緑色が澱んでいた。そこに透けて見える翅脈が妙に不気味に感じられた。
中原は死にかけている蝶を手のひらに乗せてやり、初めて微笑んだ。
「嘘に取り憑かれないなんて、詩人に産まれた甲斐がないだろう」
君が取り憑かれているものは、精神よりも、もっとぴったりと君自身に重なるもの、それはまだ人間に言葉を与えられていないものなんだ。僕はそういうことを言いたかった。
(君は君自身にぴったりと重なる人物を舞台上に発見する。その人物はギターを弾きながら君に向かって歌い始める。それは知らない歌で、君が産まれた時からずっと知りたがっていた歌である。君はその欲求をメロディの中に確信している。
やっと着いたよ(Bm) 待ってたんだね(C#m) 坊ちゃん(F#m)
君の手を引っ張って(Bm) 三時の列車に(C#m)乗り込む(F#)
素敵な海が(Bm) 僕らを笑って(C#m) いるよ(F#m)
いつも気づかない(Bm)フリして(C#m) 何を読んでるの?(F#)
君はこういう歌を通じて『確信』する。君自身が君を誘惑している。舞台では弾き語りが続いている。同じメロディとフレーズが繰り返されている。熱を帯びる歌うたいを月の光のようなスポットライトが助長する。)
中原は死んだアオスジアゲハをそっと卓上に置いた。僕はその蝶の死骸を見て、幼い子が描いた夜空みたいだ、と思った。中原は遠くを見つめているようで、僕の背後で無作為に鏝波を描く漆喰壁を見ているようでもあった。僕はそんな彼の様子を眺めて、また同じ海——朝霧の海——を思い浮かべた。……人工の砂浜に巨大なハット帽が落ちている……僕たちの頭上には雲から自生した薔薇が逆さに花をひらいている……。
僕たちの頭上には雲から自生した薔薇が逆さに花をひらいている。
〈燃え滓〉〈デッサン用練り消しゴム〉〈灰〉〈封筒に入った札束〉〈二七五回の「吠えろ」〉〈木炭紙〉
……霧雨に覆われていたものは懐かしい十数分の夢らしかった。彼は最後のつもりで目を閉じたが、彼の眼は逆流してある地点へと帰ってしまう。月の光は便所に流れる。彼、あるいは彼である誰かは逆走する。彼である誰かは白く分解されながら逆走し、淡い空に投げられた乱雑な太陽をもう一度追いかける。彼である誰かが走ると太陽は垂れていく。とめどない唾液が地平線に落ちていき、彼である誰かはどうしても夕日に追いつきたかった。彼である誰かはどうしても夕日が沈む前にどこかへ辿り着きたかった。
(君はどこで待っているのだろうか?)
「そもそも、詩が病的なものでないのなら……」と、またひとりでに中原が呟いた。その先の言葉が用意されているようでもあった。
僕はもうそんな議論を続けるつもりもなく、足元に置いていた鞄からカメラを取り出した。PENTAX67、東京は、秋(春)。中原中也、黒いハットに、儚く、空は、曇り模様(土砂降りの模様)。僕はちょっと顔を顰めた。白黒の写真を撮るので空模様はどうだってよかったが、彼と曇り模様(土砂降りの模様)が不釣り合いだと感じたことが自分にとって意外だった。
僕は中原にカメラを向けた。
中原はすぐ僕に気がついて、伏し目がちになり、気恥ずかしさを飲み込むように、黙ってお猪口を舐めていた。
[僕は考えた/意味を失くした/僕はシャッターを切った/彼は映った/彼はシャッターを切った/僕は映った/僕は考えた/彼は考えた]
「そんな写真、どうするつもりだ」
「いいじゃないか、いつか個展をやるよ。この写真と、三つのデッサンと、一枚の絵画を展示する。そして床一面にお前の詩を散らかしてやるんだ。前途茫洋の押し売りさ」
中原はハット帽のつばを人差し指で少し押し上げ、もう一方の手で摘んでいたお猪口をテーブルに置いた。それはあくまで宙に浮いた手を休ませるための仕草であるらしかった。しかし、帽子を押し上げた右手の方は、天からの啓示に従ったかのような必然性を帯びていて、それはいかにも恐ろしいドラマを生き抜いた詩人らしく、無意識というよりはある種持続的な——木と陶器とがぶつかる切実な音が小さく鳴る。
「三つのデッサンはマーク・マンダースだ。『マーク・マンダースの習作』なんてタイトルをつけて、とことん気障なコートを着て在廊してやるんだ。あとは一枚の絵画。まだ途中にしているけど、きっと傑作になるはずだよ」
「モチーフは」
「決まったよ。昨日までは砂の中で眠るニーチェが離れなかったんだけど、今朝目が覚めるとランボオがいたんだ。ニーチェは眠ったままにしてね」
「つまりは肖像画か」
「そう。その肖像画を月の光で発色させたいんだけど……」
「野外でとなると、土の上に詩を置くことになる。それじゃランボオの肖像画が二枚あることになる」
「そうだよなあ……じゃあ、月の光は諦めるしかないか……」
「いや、待て、良い案がある」
「言っておくけど、表現で代用ってのは勘弁だよ」
「そうじゃない、もう一枚の絵を用意するんだ。たとえば、ティレジアスの肖像画に六本の指をコラージュして太陽を創るのさ。焦げついた指先は表現としての太陽になるが、太陽のあるところに月は自ずから現れるだろう……」
……眉間に書いた「空」の下、頬のあたりに雨が落ちる。彼は嘔吐し、神は嘔吐した。胃の中で溶けていた赤光と太陽の唾液が混ざり合って形ある抽象物になろうとする。その美しい交渉が、夕日であるのか、朝日であるのか、一向に見当はつかないが、それは疑いようもなく太陽で、微睡と微笑のような光の中、何者にもなれない僕たちは淡い。
(仮の舞台に緞帳が下りる。君は明かりをつけることも忘れて過ぎ去った想念を追う。君は鉛筆を手に取る。ノートを開く。不可能に抵抗する手段を探る。君という大きな眼はやがて瞼を閉じ、数秒間の呼吸の後に君自身の眼が開かれる。一言も発しない紙の上に顔料を落とそうとする。君の手から鉛筆が滑り落ち、偶然にも君の痕跡が紙の上に残る。明かりのない部屋が妙に明るくて、君は窓から顔を出してみる。涼しい風が吹いている。揺蕩う雲も、雲の隙間からこぼれる月の光も、人知れず消えてしまいそうに淡い。)
「よし、決まりだな。個展が終わったらできるだけ遠くへ引っ越そう。もっとぼーよーとした土地に住むべきなんだよ。俺たちは」
「 」
「いいね。俺は粘土で馬鹿でかいアスピリンを造形するよ」
中原は少し呆れたような微笑を見せ、既に常温になった熱燗を一滴も残さず飲み干して、約束されたような素振りで立ち上がった。
「 」
「 」
「 」
「忘れるなよ」




