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私から全てを奪ってきた妹が、ついに夫まで欲しがり出しました。その男、私が緻密な根回しで『優秀な当主』に仕立て上げていただけの無能なので、喜んで差し上げたいと思います!

作者: ヨルノソラ
掲載日:2026/03/31

「──離縁だ、フィオナ」


 夕暮れの書斎に、ニシウスの声が響いた。


 窓から差し込む茜色の光が、彼の整った横顔を照らしている。金糸のような髪、すらりと伸びた背、仕立ての良い深紅の上着。絵画から抜け出たような美丈夫だ。


 ──中身さえ伴っていれば、の話だけれど。


「リリアーナと結婚し直す。お前はもう用済みだ。今日中に荷物をまとめて出ていってくれ」


 ニシウスの背後で、フィオナの妹──リリアーナが唇で弧を描く。

 上目遣いの視線と一拍のあいだを置いてから、小首を傾げてみせた。


「お姉様、ごめんなさぁい。ニシウス様のこと、大好きになっちゃったの。本当にごめんなさぁい」


 その声には甘い蜜が塗りたくられていた。勝ち誇った目の奥に隠しきれない愉悦が覗いている。


 幼い頃からずっとこうだった。フィオナが大切にしていた人形を「欲しい」と泣き、フィオナのために仕立てられたドレスを奪い、両親の愛情すらも独り占めしてきた。そして今度は、フィオナの夫が欲しくなったらしい。


 度を超えた要求。しかしフィオナは穏やかに微笑んだ。


「ええ、どうぞ」


 その反応が予想外だったのだろう。リリアーナの笑みが一瞬だけ固まった。ニシウスも「は?」と間の抜けた声を漏らしている。


「それでは失礼致します。今まで大変お世話になりました」


 すでにまとめてあった最低限の荷物を手に、フィオナは書斎を後にした。


 廊下を歩く足取りは軽い。振り返りもしなかった。


 五年間、この男を「優秀な伯爵」として社交界に通用させるために、どれほどの労力を注いだか。客人の名前と顔を一覧にした手帳、季節ごとの贈答品リスト、夜会で話す話題の台本、服の組み合わせを描いた図解カード。全て、この手で用意してきたのだ。


 リリアーナはそれを知らない。ニシウス本人ですら、自覚があるかどうか怪しい。


 屋敷の玄関を出たとき、春の夜風がフィオナの髪を攫った。


 ──さて、あの操り人形の糸が切れたら、いったいどうなるかしら。


 それだけが少しだけ楽しみだった。



 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽



 フィオナが去って三日目の朝、最初のほころびは呆気なく訪れた。


 隣領のクレマン子爵が伯爵邸を訪問したのだ。これは半年前からフィオナが段取りしていた訪問で、目的は南部街道の通行権に関する交渉だった。フィオナは交渉の要点、相手の性格、絶対に触れてはならない話題まで全てまとめた書類を書斎の引き出しに残していた。


 しかしニシウスは、その書類の存在すら知らなかった。


「クレマン殿、よくぞおいでくださった。ところで卿は確か……ワイン商をしておられたな?」


「……私は子爵ですが」


「ああ、もちろん。失礼、冗談だ。ははは」


 笑ったのはニシウスだけだった。クレマン子爵は侮辱と受け取り、顔を真っ赤にして帰っていった。通行権の交渉は白紙に戻った。


 翌週には、王都から届いた招待状への返答を間違えた。格上の侯爵家の茶会に「都合がつけば行く」と横柄な返事を送り、格下の男爵の昼食会には「光栄の至りでございます」と平身低頭の手紙を書いた。フィオナが毎回、相手の爵位と関係性に応じて文面を用意していたことなど、彼は知る由もない。


「なあリリアーナ、この手紙の返事はどう書けばいい?」


「そんなの適当でいいんじゃない? あたし、難しいことわかんなぁい」


 リリアーナは鏡の前で新しい髪飾りを合わせながら、振り返りもしなかった。


 使用人たちの間にも変化が広がっていた。フィオナは使用人の名前を一人一人覚え、家族の体調まで気にかけていた。彼女がいなくなった今、屋敷の空気は目に見えて荒んでいった。


 まず料理長のジョゼフが辞めた。


「これまで大変お世話になりました」


 リリアーナが厨房に乗り込んで「もっと豪華な料理にしなさいよ! あたしは伯爵夫人なんだから!」と怒鳴り散らした翌日のことだった。


 料理長に続いて、庭師が去り、古参の侍女が二人、暇を乞うた。


 ニシウスはそれを気にも留めなかった。新しく雇えばいい、と。


 ──もっとも、「使用人の採用と教育」もまた、フィオナが一手に担っていた仕事だったのだが。




 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽




 リリアーナが伯爵夫人の座に収まって一ヶ月が過ぎた頃、伯爵家の金庫は悲鳴を上げ始めていた。


「ねえニシウス様、このドレス素敵じゃない? 三着まとめて買っちゃった!」


「ああ、君に似合うよ。好きなだけ買うといい」


 フィオナは月ごとに厳密な予算を組み、どの商人からいくらで仕入れるかまで管理していた。季節の布地は産地の工房から直接買い付け、仲介の上乗せを省く。宝石は信頼のおける鑑定士を通し、相場の二割以上高い品は断る。その堅実な采配があってこそ、伯爵家の財政は健全に保たれていたのだ。


 当然、リリアーナにそんな知識はない。ニシウスにもない。


 二人がまず手を出したのは王都一番街の高級仕立て屋だったが、その店主はフィオナと長年の付き合いがあり、彼女が去った伯爵家との取引をやんわりと断った。


 代わりに近づいてきたのが、かつてフィオナが出入りを禁じていた商人たちだった。


「伯爵夫人様、これはもう、今季最高の逸品でございます。南方の海で採れた天然真珠、まさに奥方様にぴったりの——」


「まあ素敵! いくら?」


「通常でしたら金貨五十枚のところ、奥方様には特別に……金貨四十五枚で」


 リリアーナは目を輝かせて飛びついた。同じ品質の真珠がフィオナの相場帳には金貨十二枚と記されていたことなど、知るわけもない。


 ニシウスも負けていなかった。「伯爵たるもの」と見栄を張り、社交の場で他の貴族が身につけている装飾品を見ては、自分も同等のものを欲しがった。ただし、何が本物で何が贋作かを見分ける目は持ち合わせていない。


 悪徳商人の一人、ゲルマンという男は特に巧みだった。ニシウスに近づき、「他の伯爵方は皆、この宝剣を飾っておられます」と架空の流行を吹き込んでは、金メッキの鉄剣を純金と偽って売りつけた。ニシウスはそれを書斎に飾り、来客に自慢してみせた。


 二ヶ月で、フィオナが三年かけて蓄えた予備費が消えた。


 ◇


 一方、その頃のフィオナはといえば。


 王都の一角にある瀟洒な邸宅の応接間で、淹れたての紅茶を楽しんでいた。


「今期のダージリンは香りが素晴らしいですね、公爵様」


「フィオナ殿がそう言うなら間違いない。茶葉の選定も、できれば今後は君に任せたいのだが」


 アルベール公爵は、社交界でフィオナの実務能力を以前から高く評価していた人物だった。伯爵家の社交が円滑に回っていたのは誰の手腕か、見る目のある者にはとうに分かっていた。


 離縁の噂が流れた翌日、公爵からの招待状が届いた。「領地経営の相談に乗ってほしい」という名目だったが、その実、彼女の能力に相応しい場を用意したいという厚意だった。


 フィオナは紅茶のカップを傾けながら、窓の外に広がる公爵邸の庭園を眺めた。手入れの行き届いた薔薇が春の陽光に輝いている。



 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽




 離縁から三ヶ月後、ニシウスとリリアーナは一世一代の大勝負に出た。


 二人の結婚を正式に披露する大夜会の開催である。


「あたしたちの門出を、王都中の貴族に見せつけてやるの!」


 リリアーナは上機嫌で、夜会の準備に取りかかった。招待状を百通以上送り、会場の大広間に金箔の装飾を施し、楽団を三組も手配した。


 問題は、その全てが場当たり的だったことだ。


 まず招待状の宛名が間違っていた。侯爵と伯爵を取り違え、すでに亡くなっている先代当主宛てに送られた家もあった。届いた貴族たちは眉をひそめたが、「どれほどの醜態を晒すか見届けてやろう」という野次馬根性で出席を決めた者も少なくなかった。


 夜会当日。


 大広間に足を踏み入れた客人たちは、まず装飾に目を丸くした。金箔は確かに貼られていたが、統一感がまるでない。壁の一面は金と赤、反対側は金と青、天井は金と緑。リリアーナが「全部豪華にすればいいじゃない」と指示した結果だった。ある侯爵夫人が隣の婦人に囁いた。


「まるで質の悪い見世物小屋ね」


 料理が運ばれてきて、状況はさらに悪化した。ジョゼフの後任として雇われた料理人は、大人数の宴会を仕切った経験がなかった。前菜のスープは冷めきり、肉料理は焦げ、デザートに至っては砂糖と塩を間違えた甘くない──いや、しょっぱいタルトが供された。


 客人たちは一口食べて匙を置いた。テーブルのあちこちで、押し殺した失笑が漏れている。


 ニシウスは必死で場を取り繕おうとした。しかし、フィオナが毎回用意していた「客人リスト」がない今、彼の社交術は裸同然だった。


「おお、これはレヴァン侯爵閣下! お久しぶりでございます!」


「……私はブリュネ子爵だが」


「失礼、もちろん存じております! ブリュネ侯爵閣下──」


「子爵だと言っている」


 ブリュネ子爵は杯を置いて席を立った。


 止めを刺したのはリリアーナだった。


 彼女はこの夜のために、例の悪徳商人から「南海の秘宝」と銘打たれた首飾りを金貨二百枚で購入していた。卵ほどの大きさの青い石が連なる豪奢な品で、リリアーナは広間の中央に躍り出ると、胸元の首飾りをこれ見よがしに見せつけた。


「素敵でしょう? ニシウス様からの贈り物ですの。南海でしか採れない希少な宝石ですのよ」


 居合わせた貴婦人たちが一瞬、目を見張った。だがすぐに、宝石商の娘として目利きで知られるフォンテーヌ伯爵夫人が、扇の陰で口を開いた。


「……あれ、色つきガラスだわ」


 その一言は、さざ波のように広間に広がった。


 扇の向こうで忍び笑いが起こり、それは瞬く間に明確な嘲笑へと変わった。リリアーナの顔が、首飾りの偽石より鮮やかに赤く染まった。


「う、嘘よ! これは本物の——」


「お嬢さん、ガラスと天然石の区別もつかないの? 伯爵夫人ともあろう方が」


 フォンテーヌ伯爵夫人の声には一片の容赦もなかった。周囲の貴族たちが次々と席を立ち始める。夜会は、始まって二時間と経たずに崩壊した。


 ◇


 翌朝、伯爵邸の玄関には商人たちの行列ができていた。


 夜会の仕出し、楽団、装飾、花、酒、全ての請求書が一斉に届いたのだ。加えて、リリアーナがこの三ヶ月間に溜め込んだ衣装や宝飾品の未払い分まで。


 総額は、伯爵家の年間収入の四倍に達していた。


 金庫はとうに空だった。


「払えないとおっしゃるなら、領地の権利書を頂戴いたします」


 ゲルマンが笑みを浮かべてそう言ったとき、ニシウスの顔から全ての血の気が引いた。



 ▲▽▲▽▲▽▲▽▲▽



 その日、アルベール公爵邸の応接間には柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。


 フィオナは公爵の領地経営に関する報告書を仕上げたところだった。三ヶ月前に着手した農地改革の提案が実を結び、秋の収穫高は昨年の二割増しになる見込みだ。公爵からの信頼は日に日に厚くなり、もはや「相談役」という肩書きでは収まらない位置にいた。


 そこへ、門番が困り顔で駆け込んできた。


「フィオナ様、その……お客様が。お通しするかどうか……」


「誰かしら」


「……ルーズヴェール伯爵様と、そのご夫人です」


 フィオナは一瞬だけ目を閉じ、それから静かに頷いた。


「お通しして」


 応接間に入ってきた二人を見て、フィオナは思わず息を呑みそうになった。


 ニシウスの髪は手入れされず乱れ、上着は皺だらけだった。かつての華やかさは影もない。リリアーナに至っては、自慢だった巻き毛がぼさぼさに崩れ、目の下には濃い隈が刻まれていた。


「お姉ちゃん……!」


 リリアーナが叫んだ。もう「お姉様」という猫撫で声ではなかった。幼い頃に泣きわめいて何かをねだったときと同じ、むき出しの声だった。


「お願い、助けて! お金貸して! 領地が取られちゃう!」


 続いてニシウスが口を開いた。


「フィオナ、お前がいないとダメなんだ。分かった、俺が悪かった。やり直そう。お前がいてくれれば——」


「ニシウス様」


 フィオナの声は穏やかだった。穏やかで、完璧に平坦だった。


「離縁の書類に署名したのはあなたご自身です。『用済みだ』とおっしゃったのも」


「あれは……その、リリアーナに唆されて——」


「あたしのせいにしないでよ!」


 リリアーナが金切り声を上げた。醜い責任の擦り付け合いが始まりかけたが、フィオナは紅茶のカップを静かにソーサーに戻すことで、それを遮った。


「申し訳ありませんが、お二人のお力にはなれません」


「なんで……! お姉ちゃん、あたしたち家族でしょ!?」


「家族だったからこそ、何を奪われても黙っていました」


 フィオナは立ち上がった。


「けれど、もう終わりです。私は今、アルベール公爵様の領地経営をお預かりしております。他人の借金に構っている暇はありません」


 その言葉に、リリアーナは床に崩れ落ちた。ニシウスは青ざめた顔で唇を震わせている。


「——二人とも、お引き取りください」


 フィオナが視線を向けると、控えていた護衛が静かに前に出た。


「あ、そうでした。一つ、お伝えしておくことがあります」


 フィオナは振り返った。その瞳には怒りも、悲しみも、ましてや未練もなかった。


「あの屋敷の書斎の、右から三番目の引き出しに、私が五年分まとめた業務の手引書があります。商人との交渉術、社交の作法、使用人の管理方法……全て書いてあります。もっとも」


 ほんの少しだけ、唇の端が上がった。


「読んで理解できるかどうかは、別の問題ですけれど」


 護衛に両脇を抱えられ、二人は応接間から摘み出された。廊下に響くリリアーナの泣き声が遠ざかっていく。


 ◇


 その後の顛末は、社交界の格好の話題になった。


 ニシウス元伯爵は領地を差し押さえられ、爵位の返上に追い込まれた。リリアーナとともに王都の外れの安宿に身を寄せたが、かつて散々貢がせた悪徳商人たちが今度は借金取りとなって押し寄せ、二人は泥まみれになりながら日銭を稼いで返済に追われる日々を送ることになった。


 一方、フィオナの手腕は公爵領の経営改善という目に見える成果によって王都中に知れ渡った。アルベール公爵が正式に彼女に求婚したのは、秋の収穫祭の夜のことだった。


「君がいなければ、この領地はここまで実らなかった。……領地だけじゃない。私の隣にいてほしい」


 フィオナは微笑んだ。今度は、作り物ではない笑顔だった。


 幼い頃から積み上げてきた教養も、磨き続けた審美眼も、人を見る目も。その全てが、奪われるものではなく、自分自身のものだったのだ。


 誰かの操り糸を握る人形遣いではなく、自分の価値を認めてくれる人の隣で、自分のために生きる。


 窓の外では、秋の星が静かに瞬いていた。


 この幸せだけは誰にも奪わせない──。

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