第8話 まずは、食料と秩序だ
北方旧鉱山領の夜は、王都とは別の意味で静かだった。
人の声が少ない。灯りも少ない。風が吹けば、その音だけが町を支配する。活気ではなく、諦めが空気に溶け込んでいるような静けさだった。
アレクシス・フォン・グランツは、簡素な宿舎の一室で地図を広げていた。
壁に掛けられた地図は古く、補修の跡が目立つ。鉱山跡、荒れた農地、放棄された集落。かつて繁栄していた痕跡が、ところどころに残っている。
――数字より、ひどいな。
事前に目を通していた報告書は、どれも控えめな表現だった。現地を見れば、その理由が分かる。悲惨さを文字にすれば、責任の所在が問われる。だから、曖昧にぼかされていた。
扉がノックされる。
「失礼します」
昼間に迎えに出てきた役人が、疲れ切った顔で入ってきた。手には、いくつかの帳面がある。
「こちらが、現在の食料在庫と、配給状況です」
差し出された帳面を受け取り、目を通す。
数は、思っていたより少ない。だが、それ以上に問題なのは――配分だ。
「……これは」
「ええ。倉庫ごとに管理が違います。帳簿も統一されておらず……」
役人は言葉を濁したが、要点は伝わった。
管理されていないのだ。
食料はあるが、どこにどれだけあるか分からない。配給の基準もなく、声の大きい者から先に受け取っていく。結果、弱い立場の者ほど、飢える。
秩序がない。
それは、この町のすべての問題の根だった。
「治安は?」
「盗みが増えています。組織だった盗賊というより……生活のため、という者がほとんどです」
アレクシスは、帳面を閉じた。
――罰すれば、悪化する。
ここで力による締め付けを行えば、一時的に静かにはなるだろう。だが、根本は何も解決しない。むしろ、反発が地下に潜り、後で噴き出す。
「町の外に出た者は?」
「かなりいます。戻る者は、ほとんど……」
役人は、言葉を飲み込んだ。
「分かりました」
アレクシスは、短くそう言った。
驚いたように役人が顔を上げる。
「それだけ……ですか?」
「ええ。十分です」
必要な情報は、揃った。
アレクシスは立ち上がり、窓の外を見る。月明かりに照らされた町は、どこか頼りなく、今にも崩れそうだった。
――だが。
完全に詰んでいるわけではない。
食料は、まだある。
人も、完全にはいなくなっていない。
そして、武力を振るう前に、選択肢が残っている。
アレクシスは、ゆっくりと振り返った。
「明日、全倉庫の在庫を再確認します。帳簿は、こちらで統一します」
「……可能でしょうか」
「やります」
断定だった。
「配給は、全員に同じ基準で行う。抜け道は作りません。その代わり――」
一拍置く。
「働いた者には、確実に回る仕組みにします」
役人の目に、戸惑いと、かすかな希望が浮かぶ。
「盗みを働いていた者は、どうしますか」
アレクシスは、少しだけ考えた。
「話を聞きます。全員」
罰ではなく、選別でもなく、把握から始める。
それが、この領地に必要な最初の一手だった。
「……厳しい道になります」
「承知しています」
役人が退室した後、アレクシスは一人、地図を見下ろした。
王都で扱っていたのは、数字と制度だった。
だが、ここでは違う。
相手は、人だ。
生活であり、恐怖であり、希望だ。
だからこそ。
ここから先は、設計の本番だった。
アレクシス・フォン・グランツは、静かに息を吸い、そして言葉にした。
「まずは――食料と、秩序だ」
それは宣言ではない。
誓いでもない。
ただの、作業手順だ。
だが、その一言が、この地図の端から、王国全体を揺り動かすことになる。
まだ、誰も知らないまま。




