第7話 前任者は、もういない
王都・軍需会議室。
重厚な円卓を囲み、数名の将校と文官が顔を揃えていた。壁際には地図が掛けられ、赤と青の札が無数に打たれている。どれも、今後の演習計画や防衛配置を示すものだ。
「……で、この不足分は、どこから補う?」
中年の将軍が、苛立ちを隠さずに言った。
机の中央には、最新の補給報告書が広げられている。数字は整っているように見えるが、肝心なところが抜け落ちていた。
「現在の在庫では、予定通りの演習は難しいかと」
「だが、予算は確保されているはずだ」
「ええ、“書類上は”」
空気が、じわりと重くなる。
若い文官が、恐る恐る口を開いた。
「前回までは……その、グランツ伯が調整していました」
一瞬、沈黙が落ちた。
将軍が眉をひそめる。
「……あの地味な男か?」
「はい。細かい配分や、臨時調達の判断を」
「ふん。なら、他の者でもできるだろう」
そう言い切ったものの、声には自信がなかった。
別の文官が資料をめくりながら言う。
「問題は、調整の“基準”が残っていないことです」
「基準?」
「どの時点で追加調達を行い、どこを削るか。その判断の線引きが……」
言葉を濁す。
実際には、線引きは存在していた。ただし、それは正式な規定ではなく、実務用の帳簿と、いくつかの非公式メモに依存していた。
それを知っている者は、もうここにはいない。
「前任者は……もういない、か」
誰かが、ぽつりと呟いた。
その言葉が、妙に重く響いた。
同じ頃。
王城の財務局でも、似たような混乱が起きていた。
「この月次報告、前月と数字が合いません」
「誤差の範囲だろう」
「いえ、積み重なると……」
若い官僚の指摘に、上官は苛立ったように手を振る。
「細かすぎる。そんなことに時間を割いていられるか」
だが、その“細かすぎる”誤差こそが、後に致命傷になることを、彼らはまだ知らない。
王太子、カイル・フォン・レーヴェンは、執務室で報告を受けていた。
「多少の混乱は想定内だ」
「ですが、軍需と財政の両方で……」
「すぐに落ち着く。人が替われば、やり方も変わるだけだ」
自分に言い聞かせるように、そう言う。
彼にとって、アレクシス・フォン・グランツは“便利な歯車”に過ぎなかった。代わりはいくらでもいる。そう信じている。
だが。
「殿下」
控えていた宰相ハロルド・ベルンが、静かに口を開く。
「一つだけ、申し上げておきます」
「何だ」
「彼は、歯車ではありませんでした」
カイルは眉をひそめる。
「……何を言いたい」
「歯車を“配置していた側”です」
一瞬、理解が追いつかなかった。
ハロルドは続ける。
「今起きている混乱は、彼がいなくなったからではありません。彼が、いなくなった後の“設計”が、何も用意されていなかったからです」
王太子は、黙り込んだ。
否定したかった。だが、報告書の山が、それを許さない。
「……大げさだ」
絞り出すように言う。
「時間が経てば、落ち着く」
「そうであれば、よいのですが」
ハロルドは、それ以上踏み込まなかった。踏み込めば、取り返しのつかないところまで話が進む。
王都の夜は、いつも通りに更けていく。
灯りは消えず、宴の音も絶えない。表面上は、何も変わっていない。
だが、見えないところで、歯車は確実に噛み合わなくなり始めていた。
その原因が、北方の地図の端にいる一人の男にあることを、知る者はまだ少ない。
――前任者は、もういない。
その事実が、これから王国にどんな影響を与えるのか。
答えが出るまで、そう時間はかからない。




