第5話 帳簿と鍵を、棚に戻す
王城の執務棟は、夜になると急に静かになる。
昼間は絶えず人が行き交い、書類と命令が飛び交う場所も、灯りが落ちればただの建物だ。長い廊下に響くのは、時折聞こえる警備兵の足音だけ。
アレクシス・フォン・グランツは、その廊下を一人で歩いていた。
手にしているのは、小さな革袋だった。中には、いくつかの鍵が入っている。どれも、この数年で自然と増えていったものだ。
財政書庫。
軍需倉庫。
臨時会計室。
非公式資料室。
役職名には残らないが、実務を回すために必要な場所ばかりだった。
最初に向かったのは、地下の書庫だった。
重い扉を開けると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。壁一面に並ぶ棚には、年代ごとに整理された帳簿が収められている。その中の一角だけ、わずかに雰囲気が違っていた。
公式記録ではない、実務用の帳簿。
数字は粗削りだが、現実に即している。王都がどれだけ食料を消費し、どこに無駄があり、どの判断が先送りされているか。そうしたことが、一目で分かる形で書かれていた。
アレクシスは、持ってきた帳簿をその棚に戻す。
一冊、また一冊。
丁寧に背表紙を揃えながら、ふと手が止まった。
――本来、これは個人が管理するものではない。
だが、誰かがやらなければ、国は回らなかった。ただそれだけの理由で、ここに積み上がってきた。
最後の一冊を収め、棚を閉じる。
鍵をかけ、革袋から取り出した鍵束を見下ろす。
どれも、もう必要ない。
アレクシスは踵を返し、次の場所へ向かった。
軍需倉庫では、夜勤の兵が一人、帳面を付けていた。彼はアレクシスの姿を見ると、慌てて背筋を伸ばす。
「あ……グランツ伯。まだこちらに?」
「ええ。最後の確認です」
そう言って、倉庫の中を一巡する。
積み上げられた木箱。中身は武器、装備、乾燥食料。数は足りているが、配置が悪い。これでは、いざというときに取り出すのに時間がかかる。
――いや。
もう、それを考える必要はない。
アレクシスは倉庫の鍵を閉め、兵に手渡した。
「今後は、こちらで管理を」
「……よろしいのですか?」
「正式に、私の担当ではありませんから」
兵は一瞬戸惑った表情を見せたが、やがて深く頭を下げた。
執務棟の出口に戻る頃には、夜も更けていた。
外に出ると、王城の灯りが遠くに見える。昼間の喧騒が嘘のように、静まり返っていた。
アレクシスは立ち止まり、最後に革袋から鍵をすべて取り出す。
それらを、管理局の返却箱に入れた。
金属が触れ合う、乾いた音がする。
「これで……正式に、私の仕事ではありません」
その言葉には、皮肉も怒りもなかった。ただ、区切りをつけるための確認だった。
背後から、足音が近づく。
「……本当に、行くのだな」
振り返ると、老宰相ハロルド・ベルンが立っていた。夜の帳の中でも、その表情は重い。
「ええ。辞令も出ました」
「君がいなくなれば、しばらくは混乱する」
「でしょうね」
即答だった。
「だが、それも含めて、王太子殿下の判断です」
ハロルドは、何か言いかけて口を閉ざす。止める権限は、彼にはない。
「……辺境は、厳しいぞ」
「承知しています」
アレクシスは、空を見上げた。夜空には星が浮かんでいる。王都から見える星は、いつもより少なく感じられた。
「ですが」
一拍置いて、続ける。
「あそこなら、まだ設計し直せます」
ハロルドは、その言葉の意味を完全には理解できなかった。だが、背筋に冷たいものが走る。
国を、設計し直す。
それが、目の前の青年の言葉だということに。
アレクシスは一礼し、その場を後にした。
王城の門をくぐると、外の空気は驚くほど冷たかった。
――もう、振り返らない。
そう決めて、歩き出す。
帳簿も、鍵も、王都に残した。
あとは、結果が語るだけだ。




