第3話 それでも彼は、言い返さなかった
婚約破棄の発表が終わった後も、王城の大広間には人が残っていた。
貴族たちは思い思いに輪を作り、先ほどの出来事を肴に声を潜めている。視線は時折、アレクシスの背中へと向けられ、そのたびにひそひそとした笑いが漏れた。
だが、本人は気にする様子もなく、静かに廊下を歩いていた。
怒りはなかった。悲しみも、ほとんど感じていない。
あるのは、淡い疲労感と、いくつかの未処理事項だけだ。
――まず、引き継ぎだな。
頭の中で、自然と優先順位が並び始める。これは長年染みついた癖だった。感情より先に、現実的な問題が浮かび上がる。
王室財政の月次帳簿。
軍需倉庫の在庫一覧。
北方領の補助金申請。
どれも、今日この場で婚約が解消されたこととは、直接関係がない。だが、間接的には、深く結びついている。
アレクシスは、王城の一角にある執務室へ向かった。
自分の名が表札に残っているうちに、やるべきことがある。
扉を開けると、そこには見慣れた光景があった。壁一面の書架、整然と並ぶ帳簿、使い込まれた机。華やかさとは無縁だが、必要なものはすべて揃っている。
椅子に腰を下ろし、最新の帳簿を開く。
数字は、正直だった。
来月には、穀物備蓄が基準値を下回る。
再来月、軍需予算に小さな穴が空く。
それを補うために、どこかを削らなければならない。
――さて。
ここで、アレクシスは手を止めた。
これまでなら、この問題をどう解決するかを考え始めていただろう。代替案を出し、複数のシナリオを想定し、最悪の事態を避ける道を探る。
だが今は違う。
彼はもう、王太子の婚約者ではない。
公式な立場として、助言を求められる存在でもなくなった。
帳簿を閉じ、背もたれに体を預ける。
――これで、あの帳簿は誰が見るんだろうな。
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
この数字は、ぱっと見ただけでは問題がないように見える。危機が表に出るのは、もう少し先だ。だからこそ、見逃されやすい。
気づいたときには、手遅れになっている。
そのとき、扉が軽くノックされた。
「……失礼します」
入ってきたのは、年配の男だった。老宰相、ハロルド・ベルン。深い皺の刻まれた顔には、いつも通りの穏やかな表情が浮かんでいる。
「少し、よろしいかな」
「どうぞ」
ハロルドは部屋を一瞥し、小さく息をついた。
「ずいぶん、静かだな。あれだけのことがあったというのに」
「終わったことです」
アレクシスは淡々と答える。
ハロルドは一瞬、言葉を探すように視線を彷徨わせた。
「……君は、本当にそれでいいのか」
問いの意図は分かっていた。感情の話ではない。もっと実務的な意味での問いだ。
「よくはありません。ただ、仕方がないだけです」
アレクシスはそう答え、机の上の書類に視線を落とした。
「役職の整理は、いつ頃になるでしょうか」
ハロルドの眉が、わずかに動く。
「……早いだろう。今日中に通達が出る」
「そうですか」
それだけ言うと、アレクシスは立ち上がった。
書架からいくつかの帳簿を取り出し、丁寧に棚へ戻す。その動作は、どこか区切りをつけるようでもあった。
「引き継ぎ書は、まとめておきます。ただし……」
「ただし?」
「理解できるかどうかは、分かりません」
決して挑発的な言い方ではなかった。ただ、事実を述べただけだ。
ハロルドは、深く息を吐いた。
「君が言い返さなかった理由が、少し分かった気がするよ」
アレクシスは、何も答えなかった。
言い返す必要がないのだ。いずれ、結果が語る。
問題は――それまでに、どれだけの歪みが生まれるか、ということだけだった。
その日の夕方。
王城の回廊を歩きながら、アレクシスは最後に一度だけ、振り返った。
豪奢な建物。
長い歴史。
そして、数え切れないほどの帳簿。
――ここはもう、私の場所ではない。
そう心の中で整理し、前を向く。
静かな退場は、すでに始まっていた。
本話もお読みいただき、ありがとうございました!
少しでも続きが気になる、と感じていただけましたら、
ブックマーク や 評価 をお願いします。
応援が励みになります!
これからもどうぞよろしくお願いします!




