第13話 数字が示す、唯一の解
役場の一室に、新しい音が加わったのは、その日の朝だった。
羽根ペンが紙を走る、規則正しい音だ。
アレクシス・フォン・グランツは、机の向かいに座る人物を静かに観察していた。
銀色がかった淡い金髪を、きっちりと後ろで束ねた若い女性。服装は簡素だが、所作には無駄がない。目の前の帳簿に集中するその横顔は、緊張よりも苛立ちを帯びていた。
「……率直に申し上げます」
ペンを止め、顔を上げる。
「この帳簿、ひどいです」
第一声がそれだった。
「把握していました」
アレクシスは淡々と答える。
「だから、あなたを呼びました。リーゼロッテ・ハインツ」
元王都官僚見習い。派閥争いに巻き込まれ、この辺境へ左遷された人物だ。
「正直に言えば」
リーゼロッテは、眼鏡の位置を直しながら言った。
「ここに来るまでは、罰だと思っていました」
「今は?」
「……混乱しています」
率直すぎる感想だった。
「倉庫は回り始めている。治安も最悪ではない。でも、帳簿上は――」
彼女は、広げた紙を指差す。
「破綻しています」
アレクシスは頷いた。
「理由は?」
「貨幣が足りません」
即答だった。
「食料も人手も、最低限はある。でも、金が回っていない。だから、取引が止まり、賃金が払えず、盗みが起きる」
彼女は、一度息を吐く。
「問題は、食料ではありません」
その言葉に、アレクシスはわずかに口元を緩めた。
「同意見です」
リーゼロッテは、視線を向けた。
「……失礼ですが」
「どうぞ」
「なぜ、今まで誰もこれを指摘しなかったのですか」
率直な疑問だった。
「指摘は、されていました」
「では、なぜ――」
「“どうにもならない”と思われていたからです」
アレクシスは答える。
「鉱山は枯渇し、外貨は入らない。なら、金は増えない。そう考えられていた」
「ですが」
リーゼロッテは、帳簿を叩いた。
「ここには、現物があります。食料、労働力、倉庫、輸送路。価値は、存在している」
「ええ」
「なら、なぜ金が生まれない?」
その問いは、核心だった。
アレクシスは、地図を机に広げた。
「税の仕組みです」
リーゼロッテの眉が動く。
「この領地では、税は年に一度、貨幣で徴収される。その時期以外、金はほとんど動かない」
「……なるほど」
理解が早い。
「農民も職人も、貨幣を持たない。だから、税のために無理に売り、安く買い叩かれる」
「結果、金は外に流れ、内部に残らない」
「その通りです」
リーゼロッテは、しばらく黙り込んだ。
やがて、ゆっくりと言う。
「税を、下げる?」
「いいえ」
即座に否定する。
「下げれば、王都から問題視されます。補助も止まる」
「では……」
「支払い方法を、変えます」
リーゼロッテの目が、見開かれた。
「現物納税と、労役代替制です」
言葉の意味を、彼女は即座に噛み砕いた。
「貨幣の代わりに、食料や労働で納める……」
「ええ。価値を、無理に金に換えない」
帳簿を指差す。
「金が足りないなら、金を使わない設計にすればいい」
しばらくの沈黙。
リーゼロッテは、深く息を吸った。
「……大胆すぎます」
「実行可能です」
アレクシスは断言した。
「すでに倉庫と人の流れは把握できています。数字もあります」
リーゼロッテは、眼鏡越しに彼を見つめた。
「……あなた、本気で、この領地を“回す”つもりなんですね」
「ええ」
迷いはなかった。
彼女は、ゆっくりと立ち上がる。
「分かりました」
そして、ペンを取り直した。
「では、その制度――私が形にします」
その一言で、空気が変わった。
数字が、初めて“武器”になる。
食料と秩序を繋いだ次は、金だ。
辺境領の再設計は、次の段階へ進もうとしていた。




