第11話 秩序は、力なしでは保てない
市場が止まってから、一晩が明けた。
町は静かだったが、それは平穏とは違う。人々は家に籠もり、外に出る理由を失っている。沈黙の下で、不満が発酵していくのが、肌で分かった。
アレクシス・フォン・グランツは、役場の窓から通りを眺めていた。
人影はまばらだ。だが、視線はある。こちらを窺う、警戒と苛立ちを含んだ視線が。
「今日中に、何か起きる」
背後から、低い声がした。
マルティナ・ヴォルフは、壁にもたれながら腕を組んでいる。鎧姿のまま、昨夜はほとんど眠っていないらしい。
「根拠は?」
「勘だ。だが、外れたことはない」
彼女は、そう言って窓の外を顎で示した。
「市場が止まった。配給は減った。次は“取りに来る”」
アレクシスは頷いた。
否定できない。
「鎮圧の準備は?」
「できてる。人は少ないが、動ける」
マルティナの言葉には、躊躇がなかった。彼女の経験が、そう言わせている。
「今なら、力で押さえられる。血は……出るがな」
その一言で、空気が冷えた。
アレクシスは、しばらく黙っていた。
秩序は、力なしでは保てない。
それは、事実だ。
だが、力で保った秩序は、力が弱まった瞬間に崩れる。
「他の案は?」
マルティナが、意外そうに眉を上げた。
「あると思って聞いてるのか?」
「ええ」
短い沈黙。
やがて、マルティナは肩をすくめた。
「……盗んでる連中を見せしめにする。それが一番早い」
現実的な案だ。
「名前は把握してる?」
「大体はな。倉庫、運送、市場……顔は割れてる」
アレクシスは、地図の上に置かれた報告書に視線を落とした。
盗みを働いている者たち。
だが、その多くは、元々この領地で働いていた人間だ。職を失い、行き場をなくし、生きるために手を汚した。
――排除すれば、短期的には楽になる。
だが、長期的には、さらに人が減る。
「捕まえて、どうする?」
「拘束。場合によっては追放」
マルティナは即答した。
「そうすれば、残りは静かになる」
「一時的に、ですね」
「それでいい。今は“今”を乗り切る必要がある」
正論だった。
アレクシスは、ゆっくりと息を吸った。
「……彼らを、雇います」
マルティナが、瞬きをする。
「は?」
「盗みを働いた者を、です」
数秒の沈黙の後、マルティナの顔に、明確な怒りが浮かんだ。
「正気か?」
「ええ」
「盗賊を、雇う?」
「倉庫管理、輸送、見回り。仕事はいくらでもあります」
「冗談じゃない」
マルティナは一歩前に出た。
「盗んだ奴らに、報酬を出す? 真面目にやってる連中はどうなる」
「だから、全員に提示します」
アレクシスは、視線を逸らさなかった。
「働くか、出ていくか。選択肢は二つです」
それは、甘い案ではない。
「条件は厳しくします。帳簿管理、連帯責任、再犯即解雇」
「……それでも、裏切る奴は出る」
「でしょうね」
それも、想定内だ。
「ですが」
アレクシスは、静かに続けた。
「何もしないより、把握できます」
敵を、外に置かない。
内部に取り込み、監視し、役割を与える。
それは、秩序の作り方としては、決して珍しくない。
マルティナは、しばらく黙っていた。
やがて、深く息を吐く。
「……失敗したら、血を見るぞ」
「ええ」
アレクシスは、頷いた。
「その責任は、私が負います」
その言葉に、マルティナは初めて、真剣な目で彼を見た。
「……分かった」
渋々だが、同意だった。
「だが、条件がある」
「何でしょう」
「現場の裁量は、私に任せろ」
「構いません」
むしろ、その方がいい。
昼。
町の広場に、人が集められた。噂は広がり、期待と不信が入り混じった空気が漂う。
アレクシスは、壇上に立つ。
「盗みを働いた者に、告げます」
ざわめきが走る。
「罰は与えません」
一瞬、静まり返る。
「その代わり、仕事を出します」
困惑、怒り、疑念。
「働き、規律を守り、成果を出した者には、配給とは別に報酬を支払う」
誰かが叫ぶ。
「信じられるか!」
アレクシスは、ゆっくりと視線を向けた。
「信じなくて構いません」
静かな声だった。
「だが、選ばなければ、ここには居られない」
それだけだった。
甘さはない。だが、道は示した。
その日、町は崩れなかった。
秩序は、まだ脆い。
だが――力だけに頼らない形で、踏みとどまった。
それが、後にこの領地を救う第一歩だったことを、まだ誰も知らない。




