第1話 その日が来ることを、彼は知っていた
婚約破棄から始まる物語ですが、
本作は“復讐”ではなく“再設計”の物語です。
感情で殴るのではなく、制度で変える。
怒鳴るのではなく、整える。
静かに進む国家再建を楽しんでいただければ幸いです。
※内政・政治要素が含まれます。
その日は、朝から空気が澄みすぎていた。
王城の大広間へと続く回廊を歩きながら、アレクシス・フォン・グランツは、そんなことを考えていた。磨き上げられた白い大理石の床は、靴音をやけに大きく反響させる。天井近くの高窓から差し込む光は、祝祭の日のように明るい。
――ああ、今日だな。
理由はない。ただ、積み重ねてきた違和感が、静かに一つの結論を示していた。
ここ数ヶ月、王太子からの呼び出しは減り、代わりに増えたのは、形式的な書面だけのやり取りだった。財政報告書への返答は遅れ、軍需計画の修正案も「後で確認する」の一言で止まっている。かつてなら考えられない対応だ。
だが、アレクシスはそれを追及しなかった。
必要なら、向こうから声がかかる。そうでないなら、それまでの関係だったというだけだ。
大広間の扉の前には、すでに多くの貴族が集まっていた。色とりどりの礼装、華美な装飾、囁き合う声。その中心に、自然と視線が集まる人物がいる。
王太子、カイル・フォン・レーヴェン。
金糸をふんだんに使った正装に身を包み、堂々とした立ち姿で談笑している。その隣には、見慣れない令嬢の姿があった。艶やかな金髪を縦ロールに整え、完璧な微笑を浮かべている。
――そういうことか。
胸の奥で、何かが静かに収まる音がした。怒りでも悲しみでもない。ただ、納得に近い感覚だった。
「おや、グランツ伯。今日も地味だな」
背後から、嘲るような声がかかる。振り返ると、同年代の貴族子息が数人、くすくすと笑っていた。
「婚約者として呼ばれているのに、その格好はどうなんだ?」
「王太子殿下も大変だよな。隣に立つのがあれじゃ」
アレクシスは軽く一礼するだけで、何も返さなかった。言葉を費やす価値がないと判断しただけだ。
彼らは知らない。知らされていない。あるいは、知ろうとしなかった。
王都の穀物備蓄量が、どの時点で危険水域に入るか。
来年の軍事演習が、現行の予算では成立しないこと。
北方領の鉱山収益が、帳簿上だけで維持されている虚構であること。
それらを知っているのは、会議の場で声を張り上げる彼らではなく、静かに書類に目を通してきた自分だった。
やがて、重厚な扉が開かれる。
「王太子殿下、入場なさいます」
ざわめきが広がり、貴族たちは一斉に整列する。アレクシスもまた、決められた位置に立った。王太子の婚約者として、形式上は最前列だ。
カイルは玉座の前に立ち、周囲を見渡した。その視線が一瞬だけ、アレクシスをかすめる。だが、すぐに逸らされる。
「本日は皆に、重要な発表がある」
その声は朗々としていて、よく通った。
――やはり。
アレクシスは、心の中で静かに息を吐いた。ここから先の展開を、ほとんど予測できてしまう自分が、少しだけ可笑しかった。
貴族たちは期待と好奇心を隠さず、身を乗り出している。誰もが、自分には関係のない劇を楽しむ観客の顔をしていた。
その中で、アレクシスだけが、次に来る言葉の重さを量っていた。
この発表で、どれだけの役職が宙に浮くのか。
どれだけの引き継ぎが行われないまま、時間だけが過ぎるのか。
そして――誰が、その歪みの代償を払うのか。
王太子が口を開く。
「私は本日をもって、アレクシス・フォン・グランツとの婚約を解消する」
広間が、ざわりと揺れた。
アレクシスは、ただ静かに目を伏せる。
――予定通りだ。
心は不思議なほど凪いでいた。むしろ、今考えているのは別のことだった。
これで、あの帳簿は誰が見るのだろうか。
誰が、次の冬を越えるための数字を、正しく読めるのだろうか。
王太子の声が続くが、その内容は、もう耳に入ってこなかった。
アレクシス・フォン・グランツは、その日、確かにすべてを失った。
――だが同時に、設計し直す自由を手に入れたことを、まだ誰も知らない。
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