第二話 明日はまだ来ない
単鳴灯は、その日、少し遅刻した。
理由は簡単で、膝が痛かったからだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
制服のズボンの内側には、乾いた血の跡が残っている。
洗えば落ちる。
たぶん、全部。
灯はそういう「落ちるもの」を信じて生きてきた。
教室はいつも通りだった。
いつも通りの声量。
いつも通りの空気。
いつも通り、灯はいないみたいに扱われる。
むしろ、楽だ。
席に座ると、頭が少し重い。 昨日のことを思い出そうとすると、途中で引っかかる。
五秒。 血。 欠片。
思い出した瞬間、頭がズキッとした。
「……やめとこ」
考えるのをやめるのは、得意だった。 考えないことで、守ってきたものがある。
昼休み、廊下が騒がしくなる。 誰かが言っていた。
「また壊れたらしいよ」
「今度は向こうの区画」
「人、消えたって」
灯はパンをかじりながら、窓の外を見る。 遠くで、何かが黒く歪んでいる気がした。
関係ない。 ……はずだった。
突然、視界の端が揺れた。 世界が、昨日と同じ揺れ方をする。
音が遠のく。 時間が、引き伸ばされる。
「……また?」
今回は、転んでいない。 血も出ていない。
なのに、来た。
五秒。
灯は立ち上がり、何も考えずに廊下を走る。 考えると、バカになるのを思い出したからだ。
階段を下りる途中、足がもつれる。 昨日と同じ膝が、悲鳴をあげる。
「最悪……」
倒れなかった。 でも、限界だった。
誰かが前に立っている。 顔は、ぼんやりしてよく見えない。
「逃げるの?」
声だけが、はっきり聞こえた。
灯は答えない。
返事は、すぐ出るタイプだったけど、今回は違った。
五秒が、終わる。
世界が一気に戻ってくる。 音が、重さが、現実が。
灯はその場に崩れ落ちた。
脳がまた焼ける。また頬がヒリつく。 思考が、ほどける。
手のひらに、昨日と同じ感触が残っていた。
欠片だ。
増えている。 理由は、わからない。
「……なんなんだよ」
呟いた声は、情けなかった。
でも、確かだった。
灯は知ってしまった。
逃げても、
関係ないって言っても、
明日みたいなものが、勝手に触れてくることを。
単鳴灯は、まだ光らない。
明日も、来るとは限らない。
それでも――
世界は、もう昨日と同じじゃなかった。




