第三十九話:平和の終局
卒業記念模擬演習が終わってから、すでに数週間が経っていた。
学院の大規模演習場で二年生パーティを撃破し、古代封印具を突破した四人――レイナ、イオ、ガゼル、リリスの名は、一躍学院中に響き渡ることとなった。
彼らは「学院史上最強の新入冒険者候補」と呼ばれ、講師たちですら彼らの二年間の成長に舌を巻くほどだった。
年度末の喧騒も落ち着き、学院は春の柔らかな陽に包まれている。
レイナの生活も、かつての緊張と焦燥の日々から、穏やかで温かいものへと変わっていた。
授業を受け、訓練をこなし、仲間と笑い合い……そして、放課後はいつものように連携訓練場へ向かう。
「レイナ! 課題終わったぜ! 今日は連携の予習をするぞ!」
訓練場へ駆け込んでいくイオの声が、教室棟にまで響く。
「ちょっと待ちなさいよ。私もリリスもまだ残ってるの。勝手に進めておいて後で文句言わないでよ」
「へーい!」
そんな賑やかな日々が、当たり前のように続くと思っていた。
だが――その日の放課後、レイナは珍しく、一人で教室棟に残っていた。
イオとガゼルは先に訓練場へ向かい、リリスは教師に呼び止められ、提出物の確認があるという。
レイナは教室の机に広げた資料に視線を落としていた。
(この連携理論を応用すれば、複合魔術の収束率がもっと上がる……。リリスの水とガゼルの地の組み合わせで新しい防御壁が作れるはず)
ページをめくるたび、レイナは未来の戦いを思い描いた。
孤独だった頃の彼女は、もうどこにもいない。
今の心にあるのは、仲間たちとの冒険に向けた期待と、穏やかな充足だけだった。
「……シエラ。また来るって言ってたのに……あいつ」
しかし――。
資料を鞄にしまい、レイナが教室棟を出た瞬間だった。
夕暮れの光が、石造りの廊下に長く影を落としている。
学院の北東、古文書館へ続く普段は人気のない通路へ差し掛かったとき。
ふ、と。
レイナの全身を、不自然な風の流れが撫でた。
(……今の何? ここは密閉空間に近いのに、空気が動くなんて)
風魔術に長けたレイナの魔力回路が、まるで警鐘を鳴らすようにざわつき始める。
彼女は歩みを止め、通路の奥を見つめた。
誰もいない――はずだった。
廊下には、夕日が作るオレンジ色の光と影が規則正しく伸びているだけ。
生徒の姿も、教師の気配もない。
だが、レイナの背筋に、じわりと冷たいものが走った。
闇魔術の視界を展開しようとした瞬間。
闇が、ざらりと抵抗を見せた。
(……なに? 影の流れが乱れてる)
闇の視界が捉えたのは「空白」。
だがその空白の中に、わずかに揺れる影だけが存在していた。
古びた彫像の足元。
一瞬だけ、影が本来より長く伸びた。
人影ではない。魔物でもない。
もっと……名前のない、違和感。
レイナは思わず呟く。
「誰かいるの?」
返事はなかった。
あるのは、遠くから聞こえる生徒の笑い声と、風が窓枠を叩く音だけ。
だがレイナの胸の奥――特級スキル《影との対話》を宿す闇の核が、かつてないほど強くざわめき始めていた。
敵意でも恐怖でもない。
もっと冷たく、もっと根源的な「異物」。
まるで世界の理そのものが、わずかに歪んだような……。
(ちがう……こんなの、今まで感じたことない)
レイナは風魔術で空気の流れを徹底的にスキャンした。
通路全域を、風の粒一つ漏らさぬ精度で。
そして――たった一つの、不自然な乱れを見つけた。
そこに残っていたのは、魔力の残滓。
だが、それは六属性のいずれにも分類できない「無属性のようで無属性ではない波動」。
(……これ、どこかで……)
嫌な予感がレイナの胸を強く締め付けた。
それは、かつて危険任務に同行したAランク冒険者・シエラが、ほとんど語らなかった報告の一つ。
「異界の影」――そう呼ばれる未知の存在の痕跡。
(まさか……そんなはず……)
だが闇の核は震えている。
風は不規則に乱れ、影はわずかに揺らいでいる。
レイナは、背筋を走る寒気を振り払った。
「……みんなのところへ行かないと」
走り出す。
早く伝えなければ。
早く仲間たちのもとへ――。
夕暮れの学院には、レイナの足音だけが響き、すぐに遠ざかっていった。
残された通路には、誰も触れていないのに揺れ続ける影と、不自然に乱れた風だけが漂っていた。
――平穏の日常が終わりへ向かい始めたことを、レイナはまだ知らなかった。




