第十六話:影との対話、受け入れた闇の意志
火魔術の特訓を終えてから一夜が過ぎた深夜。
学院寮の静かな廊下には、魔導灯の淡い光だけがわずかに揺れている。
その一室――レイナの部屋だけが、他とは異なる雰囲気に包まれていた。
部屋の中央に置かれた机。その上に灯した魔導灯はひとつだけ。
わざと照明を増やさず、光と影の境界を濃く浮かび上がらせている。
その薄暗い世界の中心で、レイナは椅子に座り、静かにまぶたを閉じていた。
(向き合う時よ。逃げても……どうせ追ってくる)
昨日の“遺跡の闇”で見た影。
火魔術の爆熱だけが、わずかに恐怖を押しのけてくれた。
しかし、熱が去れば闇は必ず戻ってくる。
その事実を、十四歳の少女はもう否定することをやめていた。
魔力は火の特訓で大幅に消耗したまま、まだ完全には戻っていない。
だが、レイナは休息という選択肢をどこかに置き忘れていた。
(闇魔術の核……あれを曖昧にしたままじゃ、前には進めない)
足元に伸びる影へ意識を集中させる。
闇の魔力を深呼吸するようにゆっくり吸い上げ、影へと流し込む。
影がわずかに揺れる。
光の揺らぎではない。レイナの魔力に応じて、影が“深まっていく”感覚。
やがて、影の形が変わり始めた。
小さな肩。細い腕。震える膝。
そして――怯えた瞳。
それは、昨日遺跡で見たものと同じだった。
いや、それ以上に生々しく、痛々しい。
十四歳のレイナ。
前世で誘拐され、暗闇に閉じ込められた“弱く、無力だった自分”。
「……また出てきたのね」
影は何も言わない。
だが、言葉を持たないその目は、レイナを真っ直ぐに凝視していた。
――忘れない。
――私を置いていかないで。
そんな声が、言葉でも音でもなく、レイナの心臓に直接触れてくる。
「お前は……私の、恐怖」
呟いた声はかすかに震えていた。
しかし、逃げようと立ち上がることはもうなかった。
影の少女はさらに揺れ、レイナの胸へ感情を押し付けてくる。
――あなたは、私を置き去りにした。
――強さを手に入れて、“なかったこと”にしようとしている。
「違う……!」
叫んだ瞬間、部屋の闇が膨張した。
魔導灯の光が押し負け、陰影が部屋の隅へと広がっていく。
(マズい……暴走の前兆……)
これまでなら、即座に火や風で相殺していた。
だが、レイナは手を伸ばすことをしない。
逃げれば、何も変わらない。
むしろ、影は強くなるだけだ。
「私が……どれだけ怖かったか、分かってるでしょ……?」
影へ問いかけると、さらに強烈な感情が返ってきた。
――囚われたのは“私”。
――あなたは、生き延びるために“私を切り捨てた”。
胸が裂けるような痛みが走った。
影は、レイナの中に今も残る“罪悪感”を正確に突いてくる。
逃げれば逃げるほど、過去は牙を研ぐ。
(……だったら)
レイナは震える指先を持ち上げ、そっと影へ伸ばした。
触れられるはずのない影。
だが、自分で生み出した闇であるなら、触れることもできる――そう思えた。
「……拒むのは、やめる」
その言葉と同時に、シエラの冷たい声が脳裏をよぎる。
――お前はまだ弱ぇよ。
強さではなく、弱さのこと。
技術ではなく、心のこと。
それを、シエラは見抜いていたのだと今は分かる。
「お前は私。私の弱さ。
だから、置き去りにはしない……。一緒に行くの」
軽い触覚が指先に伝わる。
本来なら影に触れられるはずがないのに、レイナの指は確かに“幼い自分”に触れていた。
その瞬間、暴れていた闇が静かに収束した。
拒絶すれば暴走し、
受け入れれば従う――
それが、闇魔術の本質。
影の少女の体がふっと崩れ、黒い霧のようになってレイナの胸へ流れ込んでいく。
恐怖は魔力へと還元され、負の感情の形ではなく“闇のエネルギー”に変質した。
レイナは大きく息を吐いた。
(……これが、私の闇)
影は完全に消え、部屋に静かな空気が戻る。
魔導灯の光が再び部屋を照らし、闇の揺れが落ち着いた。
レイナはゆっくりと立ち上がる。
「終わりじゃない。ここからよ」
火・風・闇――
三つの属性を連動させる練習を再開する。
だが、魔力の回復手段など、レイナにはない。
失われた魔力は、時間をかけて自然に戻るしかない。
しかし、彼女は細い魔力の糸を無理やり引き出し、身体が震えようとも魔術を放ち続けた。
魔導灯が揺れ、床の影が伸び縮みし、空気が震える。
(弱さを受け入れた。なら――あとは強くなるだけ)
膝が震え、汗がぽたぽたと床に落ちる。
顔色は蒼白で、指先は冷たい。
それでもレイナは休まなかった。
深夜の静まり返った部屋に、
断続的な炎の炸裂音と、風の唸り、そして闇が収束するかすかな音だけが響き続けた。
――少女は、弱さを抱えたまま、それでも前へ進もうとしていた。




