ケンカ
目の前にいる人物が羅夢だと分かったわたしは、瞬時に麻衣との特訓を思い出す。
……よし。
「ううん、誰もいないって。――んじゃ、またね」
わたしは微笑すると、ほんの少し手を上げ、何事もなかったかのように羅夢の横を通り過ぎようとする。
「って、おいちょっと待て! どうしてあたしが美希の家の前にいたのか、お前は気にならないのか?」
案の定、羅夢は平然と通り過ぎようとするわたしの行く手を塞いだ。
……麻衣から教わった「押してダメなら引いてみろ」には、このような鉄則があった。
「相手の様子をうかがうときは感情が乱れるので、その際は自然な笑顔を浮かべること」――。
わたしは自然な笑顔を作ってから、羅夢を見る。
彼女が真剣な表情を浮かべていることに困惑はしたが、それでもわたしは笑顔を作ったまま、柳田美希らしからぬ返事を羅夢にした。
「そこまでは気にならないかな」
「…………」
羅夢は目を見開いたかと思えば、そのまま目を伏せ、沈黙。
わたしはヒヤリとし、試しに羅夢の顔の前で手を振るが、彼女の反応はない。
震える声にならないよう、わたしは「ってなわけで、また明日」と言って、恐る恐る歩き出す。
羅夢の横を通り過ぎるとき、心臓の鼓動が急に早くなったので、その音が彼女に聞こえはしないか、わたしは内心焦った。
無事に羅夢の横を通り過ぎることができ、わたしはホッとした。
ホッとしたのもつかの間――背後にいる羅夢が奇妙な声で叫んだ。
それは色んな感情が混ざり合った声で、泣いているとも怒っているとも取れる声だった。
「あたしね、もうすぐ大分県に引っ越すんだよ!」
もうダメ、壊れる……あっ、壊れ――。
「へぇ。あっそ。良かったじゃん! 大分、か……バカなわたしとも別れることができて、正直清々したんじゃない?」
やめて。
「美希……? なんでそんなこと、言うんだよ。あたしはそんなこと、言ってなんか――」
「わわっ、痛い痛い……どこかの誰かさんから分厚い本で叩かれたときのタンコブが痛む!」
やめてよ。
「……それはごめん」
「んっ、なんだか急に頬が熱くなってきた……って、どこかの誰かさんからビンタされたところが腫れてるし!」
そんなこと、わたしは言うのを望んでない。
「……ごめんなさい」
「ほんっと、どこかの誰かさんは本当に怖くておっかないよね。さすがは元不良、恐るべし」
だからやめて、もうやめて。
「……美希。あたしさ、ずっと美希のこと――」
えっ……? やめ――。
「やめてよ!」
そう叫んだわたしの顔は、きっと青ざめていたことだろう。
「聞きたくなかった……知りたくもないよ。引っ越しとかさ、本当の想いとかさ。
こんな暗くて寂れた場所なんかで聞きたくなかった、知りたくもないっての!」
勢いあまって、後ろを振り返るわたしだが、すぐに後悔した。
だって、羅夢はこんなにも悲しそうに泣いているのだから……目を伏せたまま、こんなにも涙をこぼしながら泣いているのだから。
ああ、今日は……なんて嫌な日だ。
わたしは正面を向くと、唇を血がにじむまで噛みしめてから、自宅の玄関まで感情をパワーに走った。
タンコブなんてそこまで痛まない、頬なんてちっとも腫れてない。
本当に痛いのは……心だ。
どこまでもバカだったのは、麻衣考案の「押してダメなら引いてみろ作戦」を実行した、このわたしだ。
わたしのバカ……バカ!
それから翌日、さらに翌日になっても……わたしは羅夢に謝ることができないどころか、話しかけることさえもできずにいた。
一方の羅夢もまた、わたしに話しかけようとはせず、目を合わせることもしなかった。
これらのことを知った麻衣は「そうですか」と興味なさげに言うだけで……正直、わたしは彼女のことを軽蔑した。
どうにかして羅夢に謝らなければ、そう焦れば焦るほど、わたしは何も行動できずにいた。
羅夢の高校中退と引っ越しについて、学校側から正式に伝えられてもなお、わたしは何も行動できずにいた。
何も行動できないまま、日付は一日、また一日と経っていく。
今のままでは想いを伝えるどころではないし、今となっては告白なんてもう遅い――それまではそう思っていたが……一学期終業式の前日の朝、とうとうわたしは吹っ切れた。
けれど、そのときのわたしは高熱を出していて、とても告白ができる状態ではなかった。
いや、待って、これってやばいのでは……? 終業式、明日だよ? 明後日には、羅夢の奴、大分にまで引っ越しちゃうんだよ……!
さらに運が悪いことに、両親は親族の葬儀のため、昨日から家を三日間空けていた。
高熱を出して一人っきりのわたしはその日、とにかく休むことに専念し……やがて夜が明けた。