己が名を刻む者3
シキが引き金となる名を告げる半刻ほど前、ソウカクに作戦と隔絶の壁へのアクセスコードを伝え終えたリュシーカは、伝えておきたい事があると言って別室へシキを呼び出していた。
「シキ君、あなたって実は記憶喪失なのよね?」
「あれ、リュシーカに話したことあったっけか? 別に面白い話題でもないんで、特に教えてなかったと思うんだが」
前振りも予備動作もなく、単刀直入に踏み込んで来たリュシーカの質問に、シキはあっけらかんとした表情で肯んじながら聞き返した。
「凄腕の情報屋の実力を甘く見てもらっちゃ困るわね。まあ、こうしてシキ君自身に確かめるまでは、推測の域を出るものではなかったのだけれど」
「ふーん。で、その質問が俺に伝えておきたかった事なのか?」
「いいえ、今のはただの確認よ。本題はこれから。よく聞きなさい、シキ君。あなたの記憶が戻ることはないわ。未来永劫、絶対にね」
かつてないほどに強く断定され、さすがのシキも鼻白んでしまう。リュシーカは構うことなく、淡々と話を続けた。
「シキ君がツクモちゃんを見捨てることができなかったのは、記憶喪失という境遇に同情があったのだと私は考えているわ。でも、あなたとツクモちゃんには決定的な違いがある」
「さっき聞いたから知ってるよ。あいつの記憶喪失は、実は記憶喪失じゃなかったってんだろ。生まれてたった一カ月なんだ、何も憶えていなくても仕方ない――」
「いいえ、そうじゃない」
短く、しかし確固たる否定がシキを遮った。訝しげな視線を向けてくる少年に、リュシーカは嘆息に割く呼吸すら惜しいとばかりに事務的に伝えていく。
「シキ君が記憶を失った理由、それは<代償>よ」
「は?」
いきなり話が明後日の方へと飛び、付いていけなかったシキはぽかんと口を開けてしまう。ちんぷんかんぷんと言いたげな表情を浮かべるシキに対し、全てを理解しているリュシーカの口調はいっそ冷淡なほどであった。
「どういう経緯で記憶を<代償>にするなんて選択に至ったかは知らないけれど、あなたはこれまでの人生における記憶――思い出を<代償>にしたのよ。イングレイヴ使いを構成するのは肉体だけじゃない。精神に関わる要素も<代償>として支払うことは理論上可能だわ。そして<代償>で失ったものは、絶対に取り戻すことはできないの」
「俄かには信じられない話だな……一応聞いておくが、証拠はあるのかよ?」
記憶という不確かなものに関する以上、常識的に考えればリュシーカの説を証立てすることは不可能に近い。
しかしリュシーカは、澱みなく解答を示してみせた。
「ええ、とっても簡単よ。■■■■」
「は? 今、なんて言った?」
目の前ではっきり発音されたにも関わらず、そこだけ削り取られたかのように聞き取ることができず、シキは思わず聞き返してしまった。
例えるならば、音声を編集して特定箇所のみ削除した感覚に近いだろうか。
「これで分かったでしょう? 私が口にしたのは、シキ君の記憶喪失前の名前よ。その間抜け面を見た感じ、肝心の部分だけが聞き取れなかったか、まったく無意味な音に聞こえたんじゃないかしら」
「あ、ああ、切り取ったみたいに音が飛んじまった」
「記憶を<代償>にするというのは、つまりそういう事なのよ。忘却のみならず自然回復もありえない。改めて伝えようとしても認知を阻害されてしまう。知識の類は残っているみたいだから、消えたのはあくまでシキ君個人に関する記憶だけみたいなのが、不幸中の幸いといったところかしら」
そういえば以前も、リュシーカから聞き取れない何かを告げられたことがあった。おそらくはあの時点で、自身すら忘れていたシキの事情を、ほぼ解き明かしていたのだろう。
普通ならばとても信じられない話ではあるが、これ以上ない証拠を体験させられてしまえば、さすがに疑う余地は無い。
しかし不思議なことに、思ったより驚いていない自分がおり、シキはむしろそちらの方に吃驚してしまった。
「あら、結構重大な話だと思っていたのだけれど、それほど動揺していないわね」
「いやいや、さすがに驚いているぜ。ただな」
「ただ?」
「怒るべきか悲しむべきか、それとも喜ぶべきなのか。どうにも他人事みたいな気分なんだわ。二度と取り戻せないってんなら、今更じたばたしても仕方がないとも思うしな。まあ、何を忘れちまったのか思い出せないからこそ、こんな風に考えられるのかもしれねえけど」
「前向きなのか後ろ向きなのか、どっちかはっきりしてもらいたいものね」
「相変わらず無茶を言いやがるな、あんたは。どっち向きとか考えたこともねえよ。それに――」
ふと言葉が途切れる。
リュシーカが横目で様子をうかがえば、シキは静謐な瞳で真っ直ぐに前だけを見据えていた。
「今は、ツクモの覚悟に応えてやりたいって気持ちの方が強いんだ。上手く説明できねえんだが……こいつは多分、理屈じゃない。それに比べりゃ、俺の記憶の一つや二つ、屁みたいなもんだろ」
「なるほど。シキ君の記憶はおなら以下、と」
「その要約は悪意マシマシ過ぎじゃねえのか? ってか、ちょっと楽しみにもしてるんだぜ。記憶が無いってのは、要するに一回死んで生まれ変わったようなもんだろ。だったら精々、セカンドライフってやつを楽しませてもらうとするさ」
気負った様子もなく笑い飛ばす。
ある意味で達観したシキの回答に、リュシーカは毒気を抜かれたように唖然としていたが、やがて淡い微笑を浮かべてみせた。
「そう、ならいいわ。おかげで私も、心置きなくシキ君に無茶を言えるもの」
「おい、これ以上爆弾を放り込むんじゃねえ。記憶を<代償>にしてたって話だけで、こっちはお腹いっぱいなんだからな!」
「大丈夫、<代償>の件と無関係なわけじゃないから。シキ君のイングレイヴについてよ」
「……俺のイングレイヴ、ねえ。腕ならこの通りになっちまってるが」
右腕を小さく持ち上げてみせ、折れている事を改めてアピールしてみせる。しかしリュシーカは、静かに首を横に振った。
「本当に記憶全てを<代償>にしたのならば、オロチ相手でも簡単に折れたりはしないわ。言い換えれば人生を丸ごと支払ったようなものですもの。精神と肉体の違いこそあれ、失ったものの大きさだけならば、埒外イングレイヴにも匹敵しうるでしょうね」
「そんなもんかね」
「ええ、だからこそオロチに引導を渡すには、シキ君の力がどうしても必要になるはずよ。私やソウカクさんができるのは、君を然るべき場所へ連れて行くところまでだと思って頂戴」
さりげなく重要な役目を押し付けてくるリュシーカに、シキは困ったように顔をしかめる。
「期待するのは好きにすりゃいいんだが、具体的にはどうすりゃイングレイヴを使いこなせるのか、俺にはさっぱり――」
「名前は?」
シキの弱音をリュシーカは半ばで遮った。藪から棒な質問に、シキは目を白黒させてしまう。その反応こそが、リュシーカにとっては返答と同義だった。
「やっぱり名前は無い……いえ、忘れてしまったみたいね。イングレイヴにとって名前というのは、存在を定義するとても重要な要素よ。これまで右腕が常にイングレイヴ化していたのは、<代償>によって出力が大きくなり過ぎたのもあるでしょうけど、名前を忘れた影響で制御が甘くなっていたせいじゃないかしら。あなたのイングレイヴに適切な名前をつけてあげれば、本来の力を取り戻せると思うわよ」
解決策そのものではないが、限りなくそれに近い意見を提示すると、リュシーカはもはや話すことはないとばかりに席を立った。
「深刻に考えなくても大丈夫。本当に必要な時が来れば、名前なんて自然と頭に浮かんでくるものだから。だってイングレイヴと使い手は一心同体なのだもの」
そう言い置いたリュシーカが立ち去った後、ツクモが呼びに来るまで、シキはひたすらに己の右腕を見つめ続けたのだった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
全身に纏わり付いていた流体が沁み込むようにして消えていくと、そこにはシキだけが残されていた。
しかし、先程までとは存在の格がまるで違う。
その理由は一目瞭然。無造作に立つ少年の四肢にあった。
手足のほぼ全てが、黒い流体によってコーティングされ、異形の姿となっていたのだ。
質感はかつての右腕と同様、有機的ながら金属質。折れていた右腕も何事も無かったかのように、肘から先が元通り生えている。
それどころか、黒の侵食は二の腕を越え、肩の辺りまで達しているではないか。
形状もかつてより一回り太く、打撃用と考えられる装甲や突起物まで備わっており、五指には鉄板ですら軽々と貫けそうな鋭い爪が配されていた。
低い前傾姿勢で構えるシキの姿と相まって、今にも獲物に襲い掛からんとする野生の獣を彷彿とさせる。
『その姿は一体……!?』
一目見ただけで、宿した力の膨大さを感じ取ったのだろう。詰問するオロチの声からは、完全に余裕というものが剥がれ落ちていた。
一方のシキは、だらりと両手を垂らした独特の構えで、隙をうかがうように静かにオロチを見据えている。
「こいつが俺のイングレイヴの真の姿、らしいぜ。なにぶん俺も初めてなもんで、本当かどうか保証はできねえけどな」
落ち着いた物腰は余裕を感じさせるが、実のところその内側は、限界まで膨らんだ風船さながらとなっていた。わずかでも気を抜けば、暴れ狂う力に制御を持って行かれそうになる。
目算だが、まともな攻撃は一発かせいぜい二発が限度だろう。埒外イングレイヴに匹敵する能力を振るうというのは、どうしても制約が付きまとうものらしい。
そんな状態であることから、あまり時間をかけるわけにもいかず、シキは緊張感に欠けた口振りで応じると、問答は終わりとばかりに弾かれるように駆け出した。
目指す先は不自然に生えているケイロンの上半身。あれを引き剥がしさえすれば、力の供給源を断たれたオロチは休眠状態へ逆戻りする。狙うべき的も自ずと絞られるというものだ。
駆け引きのないシキの突進によって、オロチも相手の企みを悟った。それと同時、反射的に身じろぎをする。
オロチにとってはちょっとした動作に過ぎないかもしれないが、サイズ差が身震いをうねりへと変えた。大きく左右に揺さぶられたシキが、足を踏み外して宙に投げ出される。
だが、そのまま落下するという呆気ない結末は訪れなかった。
シキの体が重力に囚われるより早く、どこからともなく飛来した一本の剣が、シキの真下へと滑り込んだのである。
言わずもがな、リュシーカの【死刃舞踏】だ。
まるでそうくるのが分かっていたと言わんばかりの反応を見せ、剣呑極まりない白刃を足場として跳躍すると、鮮やかな身のこなしでオロチの背へと舞い戻る。
着地と同時、今度は振り落とされぬよう、両足の爪をスパイク代わりにして体を保持するのも忘れない。
「ふいー、危ねえ危ねえ。ここが生き物の上だってことを忘れてたぜ」
『おとなしく落ちていれば楽だったものを。悪運の尽きない小僧ですね』
苛ついた様子でオロチが吐き捨てる。一々取り合うことなく、シキは大蛇登りを再開した。
落ちかけたせいで距離は開いてしまったが、手足の変貌に伴う身体能力の向上はマイナスのスタートダッシュを十二分に補い、不安定なオロチの背中を風のごとき速度で疾駆していく。
事ここに至り、とうとうオロチはシキへの認識を改めさせられた。
厄介な羽虫から、叩き潰すべき毒虫へと。
それはつまり、シキを排除するためならば多少の痛みも許容することを意味している。
突如、シキの頭上に影が落ちた。
走りながら見上げれば、首の一本が限界まで顎を開き、すでに回避不能な距離へと迫っているではないか。
直後、怪物は自らの背の肉ごとシキに齧り付く。断末魔を残すことすら許されず、少年の姿が極太の牙が待つ大口の中へと消えた。
一拍の間を置き、抉り取られたオロチの損傷部から、鮮血が滝のように流れ落ちた。
白い骨が露出するほどに深々と穿たれた傷は、素人目から見ても明らかな深手である。ところが次の瞬間、人々は己の目を疑ってしまった。
出血がぴたりと止まったかと思うと、ビデオの早回しかというような速度で修復が始まったのだ。
ぼこぼこと肉が盛り上がり、失った体積が補填されていく。
傷口が肉で埋まったかと思えば、瞬きをする間に鱗も生え揃い、五秒と経たずに負傷前と見分けがつかなくなる。
圧倒的を通り越し、異常の領域すら超越した回復……否、再生速度。この再生能力こそが、【永劫なる怪蛇の王】の埒外イングレイヴとしての特性であった。
首の一本、頭の一つ、あるいは鱗の一枚さえ残っていれば蘇生が可能。シーリングタワーよりも巨大な全身を塵も残さず消滅させなければ、オロチを殺しきることはかなわない。
大質量に由来する攻撃力と耐久力、そして人知を超越した不死身性。なるほど、旧世界を滅ぼしたというのも頷けるというものだ。
当のヤマタノオロチは、舌をしゅるりと出し入れし、満足そうに独りごちた。
『くくくっ、目障りな虫を排除すると心穏やかになれますね。さて、残る障害は忌々しい壁だけ――』
悦に入った言葉が半ばで打ち切られる。
なぜならば、シキを飲み込んだ頭がいきなり倍近い大きさに膨れ上がったかと思うと、内側から一気に弾け飛んだからだ。
オロチ自身が傷付けた時にも比肩しうる多量の肉片と血、そして吹き飛ばした頭に収められていた脳漿が雨のように降り注ぐ中、痙攣する首の中から人影が這い出てくる。
シキだ。
鱗の無い内部からの攻撃とはいえ、八頭の内一つを粉微塵に砕き、よもやの生還を果たした少年を、オロチは愕然とした眼差しで出迎えた。
『まさか……素手で私の頭を破壊したというのですか!? ありえない!! 何者なのですか、あなたは!?』
「さてな。生憎とその質問に関してだけは、俺は答えを返せないらしいんだわ」
全身血塗れという凄絶な姿であるにも関わらず、シキはつい苦笑してしまう。
まさかオロチも、誰何した相手が記憶を失くしているとは思うまいと考えたら、妙におかしくなってしまったのである。
「おっと、そうじゃないな。今の俺はシキだ。俺がどこのどいつで、何をしていたかなんて、そんなもの所詮は過去でしかねえ。だからこそ俺は、何者かになるためにこの世界を生き直すと決めた。邪魔をする奴が現れたなら、全力でそいつをぶちのめして、だ」
自分自身への宣誓と共に、シキは三度ケイロン目掛けて疾走する。
さすがに防御に回せる手札が尽きたのか、今度こそオロチの妨害よりも先にケイロンへ到達したシキは、振りかぶった拳を叩きつけようとした。
けれども最後の足掻きとばかりに、ケイロンが左右から薙ぎ払うように両手を振るえば、その手は瞬時に二頭の蛇へと変じ、シキを挟み込んで迫ってくる。
一瞬で肉体の損傷を修復できるのならば、別の形へ作り替えることも自由自在らしい。
回避のしようのない至近距離。そして首と胴を同時に狙った二点攻撃こそは、ぎりぎりまでシキを引きつけて放たれた必殺の迎撃であった。
だがしかし、それでもシキは止まらない。立ち止まって防御するでもなく、後方へ跳び退いて回避するでもなく、第三の道を選択してみせる。
加速したのだ。
それもただ加速したわけではない。自分から前のめりに倒れるようにして四足の体勢となり、腰を狙っていた噛み付きより一段低い位置を潜り抜ける。
髪の毛が一房千切り取られるが、獣と化したシキの動きに対応しきれなかったオロチでは、それが精一杯の成果となった。
両手を振り切った直後のケイロンの眼前へ、下方から伸び上がるようにしてシキが出現する。
「しっかり歯ぁ食いしばりやがれ!!」
『で、出来損ない風情があっ!!』
仰け反るケイロン、踏み込むシキ。
踏みしばった左足を軸とし、全身を連動させて突進の勢いを右の拳に集約させる。
次の瞬間、全体重を乗せた拳撃が、遠慮も容赦もなく、ケイロンの顔面に叩き込まれた。
みぢり
肉の裂ける音がケイロンの腰の辺りから聞こえ、完全にオロチと接合しているかに見えていたそこが裂ける。
迸る運動エネルギーが、力任せにケイロンの肉体を引きずり出す。
駄目押しにもう一歩押し込めば、引っこ抜かれたケイロンは真っ直ぐに宙を飛び、シーリングタワーの窓ガラスを粉々に砕くと、何の因果か彼の執務室へ突き刺さった。
一瞬の空白。
戦場らしからぬ静謐が訪れ、しかしそれを打ち破ったのはオロチであった。
シキが怪物の背から飛び降りると、それを合図としたかのようにシーリングタワーに巻き付いていた巨躯が力を失い、ずるりとタワーから剥がれ落ちる。大質量はゆっくりと、自ら開けた大穴の底へ沈んでいった。
巨体が深淵の底に消えた跡には、傾きかけたシーリングタワーだけが、ぽつんと取り残されていた。




