東亜租界ラプソディ3
突如として出現した大鎧に、廊下を歩いていた看護師や待合室に座っていた老人、その他居合わせた全ての人々は、何が起きたのかを理解するまでに一瞬の間を要した後、大恐慌に陥った。
「イ、イングレイヴ使いだ! イングレイヴ戦が始まるぞ!」
「逃げろ逃げろ逃げろおお!!」
「うえぇぇん、お母さん、お母さーん……」
周囲があっという間にパニックに陥る状況に、シキは舌打ちを隠せない。
本来ならばイングレイヴ戦に巻き込まれないよう、ツクモにはこの場から離れてもらいたかったのだが、見渡す限りの混乱ぶりに躊躇してしまう。姿を見失って迷子になる程度で済めば御の字。最悪の場合、人の波に呑まれて怪我を負ってしまうかもしれないからだ。
そんな賭けに出るわけにはいかず、シキは背後にツクモをかばうようにして立つと、TPOを無視して出現した大鎧を視界に収めた。
全身を隈なく金属板で覆い尽くした重厚なシルエット。毒々しいまでの赤色で彩られた武骨な巨体の上背は、目算ながら三メートルを軽く越えている。体格に見合った桁外れの大きさを誇る剣と盾を、それぞれ片手で軽々と保持しているところからも、目の前の存在が人ではなくイングレイヴであるのは疑いようがない。
見逃す気などさらさらないという威圧感に、交戦は避けられないと悟ったシキは、右腕に巻いていた包帯を一息に剥ぎ取った。
一片の光すら照り返さない漆黒の腕が束縛から解き放たれ、シキと大鎧の狭間の空間が撓むように揺らめく。
両者の戦意がぶつかり合い、激闘の予感が目に見えぬ火花となって小さく弾けた。
一触即発の空気が辺りに満ちる中、脇を締めるような構えを取ったシキは、大鎧を呼び出したイングレイヴ使いの少女にちらりと目を向けた。
「そういや名前を聞いてなかったな。喧嘩を売る気があるなら、口上くらいは聞いてやる」
「うわ、上から目線だ。ムカつく~。でもいいわ、心優しいあたしは気前よく教えてあげちゃう。あたしはローシィ、クレイドル特務班所属で超強いイングレイヴ使いよ。ついでに教えてあげると、あたしの目的はあんたの後ろに隠れているソレだから」
その言葉が嘘ではないと示すように、敵意を越え殺意すら含んだ視線が射すくめる先は、パーカーのフードで顔を隠したツクモであった。面識がないはずの相手から叩きつけられる凶猛な気配に、ツクモは脅えて体をかき抱くようにして縮こまらせる。
「やっぱりグエンを倒した程度じゃ、諦めていなかったってわけか。聞かせろよ。どうしてお前達は、そこまでツクモに固執するんだ?」
「ツクモ? ああ、わざわざ“翻訳機”に名前を付けたんだ。へー、意味不明な手間ご苦労様。そんなにソレが気に入ったの? もしかしてあんた、ロリコンってやつ?」
ローシィが嘲笑するのと、シキが無言で攻撃を仕掛けたのは、完璧に同時の出来事だった。
五メートル近い距離をただの一歩で踏み越え、横薙ぎの手刀を躊躇なく叩き付ける。
だが、直撃すれば人体など軽々と破壊しうる一撃は、侮蔑の表情を貼り付けた少女には届かなかった。全身金属とは思えない反応速度を見せた大鎧が、かざした盾で受け止めたのだ。
硬い物同士が激突する甲高い音が、人々の逃げ出した病院内に響き渡る。
「あっぶないわねー。そんなにロリコンって言われるのがムカついたわけ?」
「幸か不幸か、そっちはすでに経験済みだから我慢できるんだけどな。どうしても我慢ならなかったのは、てめえがツクモの事をソレ呼ばわりして、人間扱いしていないってことだ」
吠えると同時に強引に一歩踏み込み、力任せに右腕を振り払う
盾がわずかに歪み、大鎧は耐え切れずに吹き飛ばされたかに思われたが、踏ん張った両足で長い擦過痕を廊下に刻みながらも、転倒だけは免れた。
たった一度の攻防だが、互いの力量を把握するにはそれで十分。少なくとも力勝負においては、両者は互角と見做してよいだろう。
「ロリコンのくせにやるわね。グエンさんが負けたっていうのもガセじゃなさそう。それにしても【双つ守護者】と打ち合って傷一つないなんて、随分とふざけた頑丈さね、あんたのイングレイヴ」
「我慢できるとは言ったが、ロリコンと認めたわけじゃねえ。ついでに言うなら、俺がイングレイヴ使いだって話も認めてねえんだがな」
「はぁ? あたしの【双つ守護者】と真っ向から殴り合っておいて、そんな冗談とか冷めるんですけど。一体どんな<代償>を支払ったのか、勿体ぶらずに白状しなさいよっ」
「<代償>?」
聞き慣れぬ単語につい聞き返してしまう。それを挑発と受け取ったようで、ローシィはきゅっと眉を吊り上げた。
「下手な芝居は止めてよね、萎えるじゃない。ふん、言いたくないならそれでもいいわ、あたしが見破ってやるんだから」
鼻息も荒く宣言すると、大鎧の陰からじろじろと舐め回すようにシキを視る。決して気分が良いものではないが、かといって無策で仕掛けても大鎧に阻まれることが目に見えているため、シキの方も相手の出方をうかがうしかない。
そうこうするうち、ローシィは何かを確信した表情で、勝ち誇ったように声を張り上げた。
「見切ったわよ。あんたはイングレイヴで右腕を作り出すんじゃなくて、わざわざ包帯で隠していた。それが謎を解く鍵だったのよ。あんたが<代償>にしたのは右腕、そして引き換えに右腕そのものを永続的にイングレイヴ化させた。どう、図星でしょ!」
口を挟む隙を与えることなく、本人なりに会心らしい推理をまくし立て、ローシィが自慢げに胸を張る。
生憎と、当のシキにはちんぷんかんぷんであったが。
「お前が何を言ってるのか、俺にはまるで分からねえんだけどな。えーと、<代償>だったか?」
「白を切るのも大概にしときなさいよ。<代償>なんて、イングレイヴ使いをやっていれば嫌でも知ることになるでしょ。自分の一部を不可逆に支払うことで、イングレイヴの性能を飛躍的に跳ね上げる裏技じゃない。あんたの右腕や、あたしの左目みたいにね」
そう言うなり自分の左目に指を突き立てると、ローシィは躊躇なく眼球を引きずり出した。ところがどういうわけか、血の一滴すら流れ出す気配がない。
そこでローシィの掌で転がされている球体をよくよく見てみれば、なんとそれは非常に精巧に作られた義眼であった。おそらくは楼都の技術で造形されているのだろう。取り出してじっくり眺めでもしなければ、とてもではないが作り物だと見破れそうにない。
「さーて、次はあんたの番よ。おとなしく右腕を<代償>にしたことを認めて、あたしの推理力に恐れおののくがいいわ!」
眼窩に義眼を嵌め戻し、ローシィが通告する。
いつの間に推理力の話となったのかまったく飲み込めず、それを差し引いてもそこかしこで垣間見える言動の幼さから、この少女が精神的に成熟しているとは言い難い。
シキは子供の相手なぞしていられないとでも言いたげに、やる気なく首を振ってのけた。
「ったく、イングレイヴ使いって連中は本当に相手の話を聞かねえな。<代償>だのなんだの、そんなもんに心当たりなんぞねえって言ってるだろうが」
「どこまでも往生際が悪いわね。まあいいわ。そっちがその気なら、然るべき対応ってやつをしてあげるだけだから。こっちの準備も整ったみたいだしね」
すでに勝負は決したかのようなローシィの言葉に、シキは問答で緩みかけていた集中力を張り直し、戦闘再開の予兆を見逃すまいと大鎧を注視する。
しかし、致命的な事態はシキの前ではなく、背後で進行していた。
「やだっ、やめてっ!」
「ツクモ!?」
切れ切れの悲鳴が耳に届き、弾かれるように振り返る。
戦いに巻き込まれぬよう少し離れた場所に下がっていたツクモの傍に、いつの間にか租界風の格好をした男が回り込んでいた。あまつさえ暴れるツクモを抱え上げ、連れ去ろうとしているではないか。
この男が租界人に扮したクレイドルの監視員であり、ローシィの起こした騒ぎにシキが引きつけられている間に拉致する計画だったことなど、当然ながらシキには知る由もない。
だが、ツクモが攫われようとしているという一点だけは正確に理解すると、暴れる少女を肩に担ぎ逃げ出そうとしている背中に向かって飛び掛かった。
「あたしを無視しないでよねっ!」
「邪魔すんじゃねえっ!!」
ローシィの操作に従って、大鎧のイングレイヴである【双つ守護者】が再び行く手を阻む。今度は盾ではなく剣でもって、シキを一刀両断する構えだ。
だが、ツクモの危機を目の当たりにして極限まで集中力が研ぎ澄まされたシキにとっては、下手なちょっかいはただの隙でしかなかった。
速度を落とすことなく身体を傾け、直撃すれば真っ二つ間違いなしの唐竹割りを右腕の表面に滑らせるようにして受け流す。勢いを殺さぬまま、剣を振り切った直後の腹部に裏拳を打ち込めば、大鎧は大型キャリッジに轢かれたかのように軽々と撥ね飛ばされ、廊下の壁を突き破って病室の中へ叩き込まれると、並んでいたベッドや医療機器を盛大に薙ぎ倒した。
これで邪魔者はいない。角を曲がって逃走しようとする誘拐犯に狙いを絞ったシキは、床を殴りつけると反動を利用して一直線に低空を跳躍した。
それが致命的な隙となった。
側面に新たな気配が出現したかと思うと、シキ目掛けて正確な一撃を加えてきたのである。
驚異的な反射神経で身をひねり、脳天を砕こうとする攻撃を右腕で受け止める。かろうじて急所は守ったものの、踏ん張りの効かない体勢では簡単に叩き落とされてしまい、廊下をボールのごとく転がった挙句、窓ガラスを突き破って病院の外へとはじき出されていた。
「がふっ」
喉奥からこみ上げた血が、口の端から滲み出る。揺れる視界に意地で耐えながら視線を持ち上げれば、奇襲でシキを打ち落とした存在が壁を破壊して病院の中から姿を現した。
身の丈三メートルを超す大鎧に特徴的な剣と盾。見間違えるはずもない、【双つ守護者】だ。
だがしかし、目を凝らしてみれば細部が異なっていた。
例えば、剣と盾を持つ手が左右逆になっていたり、さっき裏拳で吹き飛ばした時は赤を中心とした配色だったのに対し、目の前でシキを睥睨する相手は鎧の随所が深く濃い青で彩られている。
最後に種明かしとばかりに、シキに殴り飛ばされた赤色の【双つ守護者】が、風通しのよくなった病院の外壁からのっそりと出てきたではないか。
「二人、居やがったのか……」
崩れ落ちそうになる膝を気力だけで支えながら、眼前の二体を見据える。
シキの言葉を肯定するように、赤い大鎧の傍らには反動ダメージを受けて肩を押さえるローシィが、青い大鎧の傍らにはローシィと瓜二つの顔をした少年が、それぞれ寄り添った。
「出てくるのが遅いじゃん。おかげであたし、痛い思いをする羽目になったんですけど?」
「僕の役目は姉さん一人の手に負えなかった場合の支援なんだから、予定通りじゃないか。それに待つのは性に合わないとか言って先走ったのは、姉さんの方でしょ」
「うー、ああ言えばこう言う。相変わらず弟のくせに生意気なのよね、ウージゥは」
「双子なんだから、姉を主張し過ぎるのはどうかと思うよ」
理不尽な姉の文句を慣れた様子で受け流し、ウージゥと呼ばれた弟は興味を失ったようにシキに背を向けた。いや、あるいは最初から欠片ほどの関心も無かったのかもしれない。
「さてと、目的は達成したわけだし、任務はこれで完了。撤退しようか、姉さん」
「ええー、あいつはどうするのよ。放っておくの?」
「姉さんが痛めつけられた借りを返したいというなら、僕は止めないから好きにするといいよ。その代わり、僕だけ先に帰投してケイロン様に褒めてもらうけど」
「帰る帰る、すぐに帰るわよ!!」
喜色満面とはこの表情であると辞書に載せたいくらい、瞳を輝かせたローシィがまくし立てる。確かめるまでもなく、すでに意識からはシキの存在がすっ飛んでいる。
スキップしながら立ち去っていくローシィに追いすがろうとするシキだったが、それよりも早くウージゥが妨害に入った。
「しつこく付き纏われても迷惑なので、あなたはここで大人しくしておいて下さい」
「ふざけ――」
ウージゥの言葉が合図だったらしく、筒状の物体がいくつも投げ込まれる。
筒は地面に落ちると、凄まじい勢いで白煙を吐き出し始め、瞬きの間に周囲を埋め尽くしてしまった。
ツクモを攫った者とは別に、まだ手勢が潜んでいたらしい。一斉に発煙筒を投入し、視界を奪いにかかったのだ。
もはや一寸先も見通せない煙の中、シキは勘を頼りに拳を振り回すも、いずれもむなしく空を切る。
やがて煙幕が薄れた後には、イングレイヴ戦の名残である破壊痕がそこかしこに散見されるのみで、双子や発煙筒を投げ込んだ者達の姿はどこにも残ってはいなかった。
まんまと出し抜かれ、みすみすツクモを拉致されてしまったのだと、容赦なく現実が押し寄せてくる。
「くそっ!!」
悔恨と怒りがない交ぜとなり、音が鳴るほど奥歯を噛み締めたシキは、衝動のままに地面を殴りつけた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「見事にやられたみたいね」
一歩たりとも動く気力が湧かず、四肢を投げ出して寝転んでいたシキの頭上から聞き慣れた声が降って来たのは、戦闘が終息してから体感的には半日以上、実際には三十分が経過した頃だった。
のろのろと顔を動かせば、リュシーカが覗き込んできている。
取り乱した様子のない表情が目に入った途端、バネ仕掛けのように跳ね起きたシキは反射的に掴みかかっていた。
「今頃何しに来やがった! ツクモが攫われたんだぞ!!」
「言われなくても状況は概ね把握しているわ。シキ君が不用意にセーフハウスから連れ出したせいで、こういう結果になったって事も含めてね」
「んな……」
「落ち込むよりも先に手を放して頂戴。生地が伸びちゃうわ」
リュシーカが淡々と払い除けると、掴み上げていたシキの両手から力が抜け、だらりと垂れる。連鎖するようにシキ自身の膝からも力が抜け、ずるずると崩れ落ちた。
物の見事に打ちひしがれた様子のシキを眺め、リュシーカは呆れたように鼻を鳴らす。
「まったく、見ていられないわね。ツクモちゃんを奪われた挙句、私に突っかかって来たかと思えば、結局は挫折するなんて。情けないったらないわ」
「……好きなだけ罵れよ」
「あー、やだやだ、負け犬根性丸出しなことで。これじゃあツクモちゃんの奪還計画を持ってきた私が馬鹿みたいじゃない」
「なん、だと?」
ぴくり、とシキの指が動き、焦点の合っていなかった両目に光が戻る。
その光景を逐一観察していたリュシーカは、とてもとても楽しそうにチェシャ猫にも似たニヤニヤ笑いを浮かべてみせた。
「この私がやられっ放しで終わるとでも思っていたのかしら? 万が一の場合に備えて対応策は練ってあるわ。私一人で迎えに行っても良いのだけれど、シキ君がどうしてもと頼むなら、相乗りさせてあげないこともないわよ」
「……おまえ、やっぱり性根が腐ってやがるな。冗談抜きで地獄に落ちるぞ」
差し伸べられた手を逡巡することなく掴み返し、ゆっくり立ち上がったシキがぶつくさとぼやく。
一方のリュシーカは、笑みを崩さぬまま器用にウィンクをしてみせた。
「それ、私にとっては褒め言葉だから」
その言葉が本気かはたまた冗談か。少なくともシキには判別することはかなわなかった。