3. 神父と審問官
このノーヴェ村には、ヒポクリス教の小さな教会がある。
ヒポクリス教はヒポクリス神を祀った一神教であり、この無償で読み書きを教えてくれ、また神父の人徳もあり、この村では評判が良かった。
ただ、一方で礼儀に厳しく、古く堅苦しい教えのため、他の村ではあまり熱心に信じている人はいなかった。
最初、トリスが狂人になったと聞いて、その教会の神父はひどく驚いた。
トリスは幼い頃から、とても真面目に読み書きに取り組んで、あっという間に教会の経典を読めるようになり、更に誦じることもできるようになったのだ。
まだ、音読できるだけで内容の理解まではしていないようだが、それでもこの速さは異常である。
そんな、綿のようにどんどん知識を吸収するトリスに、この神父はとても目をかけて、可愛がっていた。
だからこそ、最初はそんなトリスが喚き散らして、狂人のようになってしまったと聞いてもイメージできなかった。
そのため、相談を受けた時にすぐにトリスの様子を見に来たのだ。
「サーラリスさん、トレイレン(トリスの父親の名前)さん、様子を見に来ましたよ。」
「神父様、御足労いただきありがとうございます。こちらに息子がおります。」
神父がトリスを見た感じでは、傷跡が増えてはいるが、自分がいつも見ているトリスそのままであった。
「特に、異常は無いように見えますが、ちょっとお話ししてみましょう。」
「お願いします。神父様。」
神父は屈んでトリスと目を合わせた。
「トリス君、久しぶりだね。神父のエディゲイトだよ。何があったか教えてくれないかな?」
「こんにちは、神父様。ご心配させてしまい申し訳ありません。この通り、何も問題ありませんよ。」
言葉の通り、トリスは冷静そのままで、手にある魔石に魔力を通す練習をしていた。
「そうはいうが、色々と困ったことになっているのは聞いているよ。何でもいいから話してみて。」
「いえいえ別に『助けて、僕は』、少し黙ってろ。こほん...すみません、ちょっと眠いみたいで上手く話せてないかもです。」
「本当に大丈夫かね?無理はいけないよ。」
神父はしばらく話していたが、少々発言が散らかる傾向はあるが、ただ眠いだけなのだと結論づけた。
「サーラリスさん、トリス君もお疲れなので、今日はここまでにしてまた後日来ようと思います。」
神父はそう言って、帰ろうと立ち上がった、その時だった。
「なんで助けてくれないの!!この怪物を追い出して!!!助けて!!!僕が消えちゃう!!!」
と言って、トリスが神父に掴みかかったのだ。神父は驚き、トリスを落ち着けようとした。しかし、トリスは掴むだけではなく、修道服に噛みつき離さない。
それは、同じく驚いた両親に無理やり引き剥がされるまで続いた。剥がされた後も、喚いたり、吠えたり、泣き出したりとさっきまでの落ち着いたトリスからは、考えられない行動をし出した。
神父はこの事態に恐れ慄いた。
「サーラリスさん、トレイレインさん、これはもしかしたら何か魔物がお子さんに取り憑いているのかもしれません。」
「我が子に魔物が!?一体いつどこで!?何という魔物なのですか!?」
「詳しいことは私には分かりませんが、悪魔という魔物は人の体を乗っ取ると聞いたことがあります。もしかしたら、それかもしれません。」
トレイレンは絶望した。
「神父様、私たちはどうすれば...」
「トレイレンさん、どうか私にお任せください。本部に問い合わせて、悪魔祓い師を手配します。」
そこからの神父は迅速に動いた。
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悪魔祓いが来たのは、それから1ヶ月後のことだった。ここまで、早く本部から派遣されたことには理由があった。
一つは、この地域でヒポクリス教の布教が難航していることにある。ヒポクリス教は子供へ教育を施したりと面倒見がいい反面、厳しい戒律や古い考えを押し付けようとする神父が多く、多くの村の村人に煙たがれたりもした。
そのため、この可哀想な幼い子供から悪魔を追い出したという実績があれば、より多くの人が信じるようになると考えた。
二つ目は、元々このトリスという子は有名だった。というのも、たまたま本部から巡回に来た神父が、実際のトリスの勉強熱心さに驚いたからである。その神父は、ぜひトリスをヒポクリス教に入信させて、見習いにするべきだと色々な人に伝えていた。
今回は、その神父らの心配、正しくはお節介により、細かい調査を抜きにして素早く派遣されたのだった。
何はともあれ、悪魔祓いはトリスの家にやって来た。
「こんにちは、トリス君のお宅はこちらでしょうか?」
「そうですが、どちら様でしょうか?」
「私は、エクソダムという悪魔祓い専門の異端審問官です。お子さんの様子を見に来ました。」
そこには、壮年で髪の毛をオールバックにし、ピシッと姿勢を正した穏やかな男性が立っていた。
「ああ、これは審問官様!本日はよろしくお願いいたします!」
「もちろんお任せください。」
そう言って、7人ほどがエクソダムに続いて家に入って来た。
「随分大所帯ですね。あと、村の神父様はどこでしょうか?」
「神父様は、教会の用事で外しています。あと、悪魔に対抗するにはこの人数が必要なんですよ。」
「はあ...そうですか...」
そして、エクソダム達はトリスの部屋に入って来た。
「こんにちは、トリス君、私は悪魔祓いのエクソダムというものです。トリス君、今日の調子はどうかな?」
いきなりやってきた男は、とても人懐っこい笑顔でニコニコとこちらを見ていた。
しかし、悪魔祓いと聞いた瞬間、俺はとても嫌な予感がした。
悪魔祓いや異端審問官でまず思い出すのは、前世で実際にあった中世のヨーロッパでの魔女狩りだ。ただの一般人に対して、民衆が魔女じゃないかと疑い、集団リンチをしていた、恐るべき歴史である。
恐ろしいのは、これを教会が主導して、魔女裁判という形で残酷な所業を行なっていたことだ。
俺は、このまだ油断している内に逃げようとした。それすら罠だとは気付かずに。
「ああ、いけませんね。これは大変いけません。」
部屋の外に隠れていた、他の異端審問官たちが突如現れ、俺を捕らえた。
「私は悲しいよ。こんな幼気な子の中に悪魔がいるなんて。」
その時見たエクソダムの顔は忘れることができない。さっきまで穏やかに笑っていたはずが、今はまるで害虫でも見るかのような眼差しを向けてきた。
前世で、クソ漫画を提出した時の担当編集者で似たような眼差しを受けたことがあるが、ここまで無機質な瞳は見たことない。
(まだ、マネキンの方が人間らしいぞ。クソが。)
エクソダムは俺の目の前でゆっくり語りかけた。
「君はなぜ逃げたのかね?ああ、言わなくても結構だとも。普通の村人は悪魔祓いなど見たことも会ったことも無い。それなのに、君は逃げた。それは、自分が酷い目に遭うと思ったからでは無いかね。」
この時、俺は気づいた。
(チクショウ...前世のイメージが先行して、逃げたせいで逆に疑われた...)
エクソダムはゆっくりと続ける。
「私はたくさんの悪魔を払ってきた。だからこそ、分かるのだ。会った瞬間に真っ先に逃げ出すのは悪魔に取り憑かれていると。そして、特に君みたいに一見穏やかに見える奴ほど、ほぼ悪魔に乗っ取られているのだと。」
そう言って、エクソダムはカバンから大きな鞭を取り出した。
「これは、悪魔の皮を聖水に浸して作った特別な鞭だ。今より、悪魔祓いの儀式を行う。」
そして、エクソダムは俺の背中を容赦なく叩いたのだった。