ヴァンピーエンド
俺は気絶している幼なじみをおぶりながら、真っ暗な森の中を必死に走っていた。
すぐ後ろからは、明らかに人間のものではない荒い呼吸音が聞こえてくる。
振り返ると、巨大な熊が、鈍い地響きを立てながら、追いかけてきていた。
あいつは「ツキノワグマ」じゃない。
体の大きさから察するに、北海道に生息している「ヒグマ」だろう。
だけど、なんでヒグマがこんなところにいるんだ?
ここは本州にあるキャンプ場のすぐ近くだぞ。
しかし、そんなことを悠長に考えている余裕はなかった。
とにかく今は、あの熊をどうにかしないと命はない。
このままでは確実に追いつかれる。
そのとき、地面から露出した木の根に足を取られた。
大きく態勢を崩し、俺たちは地面に倒れ込む。
後ろを振り向くと、ヒグマの巨体が目と鼻の先まで迫っていた。
その双眸は鋭く光っており、口からは、唾液のようなものが滴り落ちている。
もうダメだと思った瞬間、突然ヒグマの巨体が、真っ二つに裂けた。
鮮血があたりに飛び散り、地面が真っ赤に染まる。
何が起こったのかわからずに呆然としていると、背後に気配を感じた。
恐る恐る振り向くと、何者かが立っている。
暗くてよく見えないが、シルエットからして女性のようだ。
「危なかったわね。キミ、大丈夫?」
丁寧で柔らかな声が闇の中から聞こえてきた。
すると、月明かりに照らされて、女性の全身が徐々に浮かび上がってくる。
そこにいたのは、腰のあたりまである長い白髪に、真っ赤な血の色を瞳に宿した、背の高い綺麗なお姉さんだった。
肩を出したニットに、スリットの入ったロングスカートを身に付け、太めのヒールのついたブーツを履いている。
明らかにこの場にふさわしい格好ではない。
しかし、その姿はとても美しく、俺の心は激しく高鳴ってしまう。
「あ、ありがとうございます。おかげで助かりました。幸い、怪我は膝を擦りむいただけのようです」
「膝を……? ちょっと見せてくれる?」
女性はスカートの裾を破ると、それを包帯代わりに傷口に巻いてくれた。
同時に、甘く優しい香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
そのおかげなのか、先ほどまで高ぶっていた気持ちが落ち着いてきた。
「これは応急措置だからね。帰ったらすぐに綺麗な水で傷口を洗うこと。わかった?」
「は、はい、ありがとうございま――」
「うわあああ! 何だよ、これ!?」
幼なじみの驚いたような声が、森の中に響き渡る。
どうやら真っ二つになった熊の死骸に驚いているようだ。
「凪波! 落ち着け! 俺たちは助かったんだ!」
「琢磨……。いったい何がどうなっているんだ?」
「このお姉さんが助けてくれたんだよ。名前は、ええと……」
「私の名前は九重茅乃。ピチピチのギャルで絶賛彼氏募集中でぇす!」
九重さんは突然、溢れんばかりの笑顔になり、顔の前でダブルピースをした。
先ほどまでの落ち着いた雰囲気とは異なり、はつらつとした姿を見せる彼女には、いい意味でギャップがある。
しかし、見た目に反して、言動にどこか古くささを感じるのは気のせいだろうか。
「……ありえない」
「え?」
「琢磨、騙されるな! こいつは人間じゃない! 化け物だ!」
「お、おい、凪波。命の恩人になんて失礼な――!」
「なんで熊を殺した!? 命を奪う必要はなかっただろ!?」
凪波は九重さんを激しく睨みつけた。
しかし、彼女はさして気にする様子もなく、先ほどと同じように泰然とした態度に戻る。
「あの熊はすでに人を食らっていたわ。人を食った熊は絶対に殺さないといけないの」
「だとしても、やりすぎだ! 可哀想だろ!」
九重さんは表情ひとつ変えることなく、淡々と答えた。
一方、凪波は激昂しながら感情論をぶつけている。
「熊はその習性上、一度人の味を覚えると、間違いなく次も人間を襲うわ」
「それなら一度捕獲して、人の怖さを学習させてから野生に帰せばいい!」
「お嬢さん、それは理想論よ。人を食った熊には通用しないわ。それに、自然に帰したあと、また人を襲ったらどうするつもり?」
「そ、それは……また人の怖さを学習させれば――!」
「……埒が明かないわね」
九重さんは凪波との距離を詰めると、青色で霧状の息を顔に吹きかける。
すると、凪波は意識を失い、その場に倒れた。
「九重さん、いったい何を!?」
「大丈夫、眠っているだけよ」
「……やはりあなたは人間ではないんですか?」
「そうよ、私は吸血鬼なの。そういえば、まだお礼をもらってなかったわね」
「お、お礼……? す、すみません、俺は今何も持っていないんです」
「血でいいわ」
「……え?」
「お礼はあなたの血でいいわよ」
九重さんは俺との距離を一瞬で詰めた。
身長差があるので、必然的に見下ろされる形になる。
彼女は俺の両肩に優しく手を置き、不気味な笑顔を作った。
「あ、あの! やっぱり別のお礼じゃいけませんか!?」
「大丈夫、痛くはしないわ。あなたはただ私に身を委ねていればいいの。それじゃ、いただきまーす」
九重さんは艶のある声で囁いたあと、俺の首筋にかぶりついた。
その瞬間、身体全体にほとばしるような、ものすごい快感が押し寄せ、意識が飛びそうになる。
ただ血を吸われているだけなのに、なんでこんなに気持ちいいんだ!?
……このままでは身が持たない!
すぐさま身体を離そうとしたが、女性とは思えない力で、抱きしめられる。
も、もうダメだ……。
意識が朦朧としてきたとき、九重さんは俺の首筋からゆっくりと口を離した。
その口元は血で赤く染まっている。
彼女は恍惚とした表情で、ペロリと舌なめずりをした。
その仕草が妙に色っぽくて、思わず見惚れてしまう。
こんな綺麗な女性に抱かれたなんて夢みたいだ。
「ごちそうさま。やっぱり子どもの血はおいしいわね。それに、この血、すごく好みの味だわ。将来が楽しみね」
「あ、あの……!」
「これ以上は何もしないから安心して。それじゃあ、さような――」
「茅乃さん! 俺が大人になったら、結婚してください!」
「……へ?」
なぜか俺は茅乃さんに告白をしていた。
ただ、彼女の血を吸う姿が綺麗だったからとか、俺を助けてくれたからとかではなく、もっと別の形容しがたい何かが俺を突き動かしたのだ。
茅乃さんは一瞬驚いた表情を見せたあと、小さく微笑んだ。
「告白されるなんて数百年ぶりね。あなた本気なの?」
「俺はあなたと一生添い遂げたいんです!」
「ぷっ、あはははっ! あなた面白いわね。いいわ、結婚してあげる」
「本当ですか!?」
「ただし、条件が三つあるわ」
茅乃さんは指を三本立てた。
いったいどんな条件を提示されるだろう。
「まず一つ目。あなたが十八歳になるまで、結婚はできないわ。法律は守らないとね。二つ目は、私が迎えにいくまで、純潔を守ること。これも簡単でしょ? 三つ目は、結婚したら一生私だけを愛すこと。いいわね?」
「はい、わかりました!」
こうして俺は茅乃さんと将来を約束した。
俺の初恋の人は吸血鬼だったのだ。
「琢磨ー! 朝食ができたぞー!」
凪波が元気よく俺の部屋に入ってくる。
凪波とは家が隣同士で、幼稚園からの付き合いだ。
俺の両親は頻繁に海外出張をしており、ほとんど家に帰ってこない。
そのため、いつも凪波にはお世話になっている。
毎日俺の家を訪れ、朝食と夕食を作ってくれるのだ。
「いつも悪いな、凪波」
「何言っているんだよ。僕たちは家族みたいなものだろ? 遠慮するなって」
「……ありがとな」
「なんか元気ないなぁ? 大丈夫?」
「少し考え事をしていただけだよ」
「そうかそうか! 僕のことを考えてくれていたのかー! 少し恥ずかしいけど嬉しいよ!」
そんなやり取りをしたあと、俺たちはリビングに移動した。
テーブルには、凪波の作った料理が並べられている。
そこには、瞳さんが作った漬物なんかも添えられていた。
向かい合って座った俺たちは両手を合わせる。
「いただきます」
二人同時にそう言ったあと、朝食を食べ始めた。
今日もまた、いつもと変わらない一日が始まる。
茅乃さんと結婚の約束をしてから、七年もの月日が流れ、俺と凪波は高校三年生だ。
いよいよ明日、俺は十八歳の誕生日を迎える。
この七年間、俺は茅乃さんにふさわしい男となるため、友達も作らずに勉学や筋トレに励んだ。
そのおかげで、成績はいつも学年三位以内に収まり、元々細かった体格もがっしりと男らしくなった。
しかし、茅乃さんとの約束はしょせん口約束だ。
あれから彼女とは一度も会ってはいない。
もしかしたら、俺との約束なんて忘れてしまったのかもしれないのだ。
でも、俺は信じて待つと決めた。
十八歳になればきっとまた会えるはずだ。
「どうしたの、琢磨? そんな難しい顔して」
自宅の前で声をかけられる。
頭の中は茅乃さんのことでいっぱいだった。
そんな様子を見ておかしいと思ったのか、凪波は不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。
茅乃さんとの約束は、凪波にも話していない。
凪波は大切な幼なじみだ。
だが、いくら家族同然の関係であろうが、一線を引くところもある。
「なんでもないよ。心配してくれてありがとな」
これは俺の問題だ。
凪波には関係ない。
そんな俺の考えを知らない凪波は、いまだにこちらを覗き込んだままである。
「もしかして、僕と手を繋ぎたい?」
「……は?」
「相変わらず、琢磨は寂しがり屋さんだなー。今日は特別だぞー?」
凪波は俺の右手を握ってきた。
俺は慌てて手を振りほどこうとする。
「おい! 離せって!」
「あはは! そんな照れなくてもいいじゃんかー」
「あらあら、琢磨くんと凪波ちゃんは今日も仲良しね」
振り返ると、そこには髪の長い中年の女性がいた。
彼女は七年前、俺の家の隣に引っ越してきた、神戸瞳さんである。
瞳さんは、俺を心配して毎日のように手料理をお裾分けしてくれる、優しくて温かみのある女性だ。
「瞳さん、おはようございます」
「おはようございまーす」
「おはよう、二人とも。ごめんなさい、邪魔しちゃったかしら?」
「いえ、そんなことありませんよ。こいつはただの幼なじみですから」
「むっ……!」
「あら、そうなの? てっきり、付き合ってるとばかり思っていたわ」
「付き合ってはいません。ただの腐れ縁ですよ」
「むむっ……!」
俺はきっぱりと言い切った。
一方、凪波は頬を膨らませて不満げにしている。
そんな俺たちを見て、瞳さんはクスクスと笑っていた。
「僕、先に行くから!」
「お、おい、どうしたんだよ? すみません、瞳さん。俺、凪波を追いかけます」
「はいはい、気をつけていってらっしゃい」
学校に着き、昇降口で靴を履き替えていると、なぜか凪波は一瞬動きを止める。
すると、凪波は靴箱から複数の手紙を取り出した。
「またラブレターを貰ったのか?」
「うん、まぁね。僕ってモテるから」
凪波は自慢げに起伏がない胸を張る。
確かにこいつは容姿端麗だし、モデル顔負けのスタイルを持っている。
おまけに料理も上手だし、勉強もできる優等生だ。
それに、こいつの笑顔は人を元気にする力を持っている。
そんな凪波に好意を抱くやつはたくさんいるはずだ。
これなら、俺がいなくなっても大丈夫そうだな。
「ねぇ、琢磨は僕に恋人ができたら悲しい?」
「いや、まったく」
「むぅ……少しは嫉妬してくれたっていいのに」
凪波は拗ねたように頬を膨らませる。
俺はそんな凪波を無視して教室に向かった。
昼休み――。
購買で昼食を買ってから、いつものように屋上へと向かう。
屋上の扉を開けた瞬間、女性の声が聞こえてきた。
「好きです、相澤先輩! もしよければ、私と付き合ってください!」
屋上には、凪波と一人の女子生徒がいた。
なんと、その生徒は凪波に告白をしていたのだ。
「ありがとう、気持ちは嬉しいよ。でも、ごめんね。僕には好きな人がいるんだ」
凪波が申し訳なさそうに答えると、彼女は目に涙を浮かべる。
そして、何も言わず屋上から去っていってしまった。
「相変わらず、モテるな。王子様」
「その呼び方は好きじゃないな」
「純粋な疑問なんだが、凪波は恋人が欲しくないのか?」
「僕には琢磨がいるからねー。だから毎回、丁重にお断りしてるんだよ?」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
「むっ! 信じてないな!」
そんなやり取りをしながら、俺たちはいつもどおり昼食をとった。
放課後――。
心地よい夕暮れの風が吹き抜ける中、俺と凪波は二人で帰路についた。
俺たちの間に会話はなく、ただただ静かな時間だけが過ぎていく。
そんな沈黙を破ったのは、意外にも凪波だった。
「ねぇ、琢磨。今日もきみの家にお邪魔してもいいかな?」
凪波は空を見上げながら呟く。
その横顔はどこか儚げに見えた。
「なんだよ、畏まって。いつものことだろ?」
「うん、そうだね……」
凪波は微笑むと、再び黙り込む。
そして、再び口を開いたのは夕食を食べ終わったあと、二人でテレビを観ているときだった。
「あのさ、琢磨。夕食は口に合ったかな?」
「いつもどおりうまかったぞ。特に煮物が絶品だった」
「……それはよかった」
「お前、今日は何か変だぞ? もしかして、体調でも――」
突然、視界が揺らぐような感覚に襲われる。
次の瞬間、俺は床に倒れ込んでいた。
「やっと効いてきたみたいだね」
「お前……何をした……?」
薄れゆく意識の中で問いかけるが、凪波は答えない。
ただ、俺を見下ろしながら悲しげに笑っている。
そこで俺の意識は途切れた――。
目覚めると、俺はベッドの上に寝かされており、目の前には凪波が立っていた。
周りを確認してみると、どうやらここは俺の部屋のようだ。
「おはよう、琢磨。よく眠れたかい?」
凪波はいつものように、屈託のない笑顔を向けてくる。
だが、その笑顔はいつもと違って見えた。
「……どういうつもりだ?」
身体を起こそうとするが、力が入らない。
そんな俺の様子を眺めながら、凪波は口を開く。
「ごめんね。少し薬を盛らせてもらったよ」
「薬だと……? なんでそんなことを……?」
「こうするしかなかったんだ。琢磨を僕の物にするためにはね……」
凪波は制服を一枚ずつ脱ぎ始め、透き通った白い素肌を露にしていく。
そして、下着姿になると、俺に覆い被さるような形で馬乗りになる。
必死に抵抗するが、常人とは思えない力で押さえつけられた。
「僕はきみのことが好きなんだ。幼なじみとしてではなく、ひとりの異性としてね。ねぇ、琢磨。きみはあんな化け物より、僕を選んでくれるよね?」
「なっ――!?」
そうか、凪波は知っていたんだな。
俺と茅乃さんの約束を。
凪波が俺のことを好きなのは百も承知だ。
今まで俺は、大切な幼なじみを失い、孤独になるのを恐れていた。
だけど、俺の答えはもう決まっている。
「……ごめん。俺は茅乃さんと結婚するって決めているんだ」
「……そっか」
凪波の瞳からは大粒の涙が溢れ出す。
身体も小刻みに震え出した。
やはり、相当無理をしていたようだな。
しかし、そんな姿を見てもなお、俺の決意は変わらない。
「琢磨ならそう言うと思ってた。これからは、琢磨を応援するよ。それじゃあ、今日はもう遅いから帰るね。ごめんね、変なことしちゃって……」
凪波は俺から離れると、服を着始める。
そして、そのまま部屋から出ていった。
「……これでよかったんだ」
自分に言い聞かせるように呟くと、俺は目を閉じた。
同時に、午前0時を知らせる時報が部屋に鳴り響く。
こうして、俺は何ともいえない感情を抱きながら、十八歳の誕生日を迎えたのだった。
誕生日を迎えてから、一週間が経過した。
凪波はあの日以来、一度も学校に来ていない。
内心心配していたが、自分から直接連絡する勇気はなかった。
凪波の担任に聞いてみると、予想どおりの答えが返ってくる。
どうやら凪波は体調を崩しているらしい。
お見舞いに行きたかったが、今の俺にはそんな資格はないと思いとどまった。
いまだに茅乃さんからの接触はない。
そんな俺の元に一通の手紙が届いた。
差出人は書いておらず、中には一枚の紙だけが入っていたのである。
そこにはこう書かれていた。
『今夜十時、公園に来てください』と――。
俺は指示どおり公園に到着し、ベンチに座って手紙の差出人を待っていた。
もうすっかり日は暮れており、辺りは静寂に包まれている。
そんな中、公園内に一つの足音が響く。
しかし、暗くて誰が来たのかはわからない。
足音の主は徐々に近づき、俺のすぐそばで止まる。
そして、月明かりに照らされながら現れたのは、なんと瞳さんだった。
「なんで瞳さんがここに……?」
「ごめんね、琢磨くん。私は神戸瞳ではなかったの」
「……どういう意味ですか?」
「ふふっ、そのままの意味よ」
瞳さんは鋭く尖った歯を見せながら微笑んだ。
すると、彼女の身体が徐々に変化していく。
その姿は、俺がよく知っている人物だった。
腰まで伸びた白髪に、雪のように白い肌。
そして、赤い瞳を持つ美しい女性。
目の前に現れたのは、俺がずっと待ち焦がれていた相手だった。
思わずベンチから立ち上がる。
俺のこれまでの努力は、無駄じゃなかったんだ。
「久しぶりね、琢磨くん」
「本当に……茅乃さんなんですね?」
感極まって泣きそうになる。
そんな俺を見て、茅乃さんはクスクスと笑った。
「ふふっ、そんなに感動しないでちょうだい。なんだか、こっちも恥ずかしくなってくるわ」
「す、すみません……! つい……」
慌てて謝ると、茅乃さんはまた優しく微笑む。
やっぱり、茅乃さんは綺麗だ。
彼女は以前と変わらない美しい姿で佇んでいる。
しかし、なぜか彼女は顔に暗い影を落とした。
「先に謝っておくわ。ごめんなさい、琢磨くん」
「どうして謝るのですか?」
「私はね、この七年間、ずっとあなたを監視していたの。本当にあなたが私を好きか確かめるためにね。でも、確信したわ。あなたは嘘をついてはいなかった」
茅乃さんは徐々に近づいてくる。
そして、目の前で立ち止まると、いきなり俺を抱きしめてきたのだ。
突然のことに驚きながらも、彼女の背中に手を回す。
柔らかい肌の感触と甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
そして、耳元で囁くように、「ありがとう」と告げられたのだ。
「こちらこそありがとうございます。今の俺がいるのは、茅乃さんがいてくれたおかげなんですよ」
「そんなことを言われると、ちょっと照れちゃうわね。……本当に私なんかでいいの?」
「今の俺に迷いはありませんよ」
「……わかったわ。それでは、今からあなたを私の眷属として迎え入れます。早速、眷属になる儀式の準備を――」
そこまで言いかけて、茅乃さんは突然口をつぐむ。
そして、なぜか腕を組んで、悩ましげな表情を作る。
「あの……どうしたんですか?」
「やっぱり眷属になる前の思い出も必要よね……」
「……え? それはどういう意味ですか?」
「決めた。琢磨くん、今から私とデートしなさい」
「ええっ!? 今からですか!? それはなぜ!?」
「眷属になればいくらでもデートして思い出を作れるわ。でもね、眷属になる前の思い出が一つもないのは寂しいと思わない?」
「そ、そうですね……?」
「ふふっ、それじゃあ、行きましょうか」
「は、はい! よろしくお願いします!」
茅乃さんは俺の右手を取り、歩き出す。
俺もそれに続き、二人で夜の街へ繰り出そうとする。
そのときだった――。
パンッ、と何かが発射されたような、乾いた音が聞こえてきたのだ。
同時に、茅乃さんの手からは力が抜け、その場にゆっくりと崩れ落ちる。
頭からは大量の血が噴き出しており、地面には真っ赤な血溜まりができていた。
「茅乃さん!? いったい何が――!?」
「危ないところだったね、琢磨」
どこか聞き覚えのある声だ。
すると、暗闇から何者かが現れる。
なんと、その正体は黒のライダースーツに黒いマフラーを身に纏った凪波だったのだ。
凪波の手には拳銃が握られており、銃口からは煙が出ている。
「凪波!? なぜこんなことを!?」
「なぜ? 簡単なことだよ。僕はきみを化け物から救いにきたんだ」
「化け物呼ばわりなんて、少し心外だわ」
先ほどまで倒れていた茅乃さんは、何事もなかったかのように立ち上がる。
凪波は茅乃さんを睨みつけながら、拳銃を構えた。
「ふふっ、目が血走って怖いわね」
「なんであんたは生きている!? 確かに頭を銀の弾丸で撃ち抜いたはずだ!」
「銀の弾丸で死ぬような吸血鬼は三流よ」
「じゃあ、これならどうだ!」
凪波は、眩しいほど月明かりが反射する、二対の銀の剣をどこからか取り出した。
そして、ものすごい勢いでこちらに向かってくる。
「あのお嬢さん、やはりハンターのようね。琢磨くん、ちょっと離れてて」
茅乃さんは血がでるほど強く拳を握った。
すると、その血は剣のような形に変化する。
それから、凪波との距離を詰めた。
二人は互いに身体を接近させ、つばぜり合いの状態になる。
「あら、なかなかやるわね、お嬢さん」
「化け物め、琢磨を解放しろ!」
「彼は自分の意思で私を選んだのよ? 反対に、あなたは彼を無理やり自分の物にしようとしたじゃない」
「黙れ、貴様ぁ!」
凪波は力任せに、茅乃さんを吹き飛ばす。
茅乃さんは、ひらりと空中で一回転し、優雅にスカートを膨らませながら着地した。
凪波はその隙をついて、拳銃を二丁取り出し、弾丸をこれでもかと放つ。
しかし、茅乃さんは目の前に、巨大な血でできた壁を作り、弾丸をすべて防ぎきる。
その後、茅乃さんは手を銃のように構え、指先から赤い弾丸を放つ。
弾丸の威力は凄まじく、公園の木々に大きな風穴を空け、次々となぎ倒していく。
凪波は紙一重でそれをかわしながら、こちらに向かってくる。
凪波は剣を一本、茅乃さんに投げつけた。
茅乃さんは血の盾を作り、いとも簡単に弾く。
凪波は続けざまに、何かを投げた。
今度は血の剣でそれを切り捨てようとする。
その瞬間、あたりに強烈な光が炸裂した。
「これは……閃光弾……!?」
「もらった!」
凪波は一瞬の隙をつき、茅乃さんの背後を取った。
その手には、銀でできた杭が握られている。
次の瞬間、茅乃さんの背中から、血でできた皮膜のないコウモリの翼のようなものが飛び出した。
それは、凪波の身体全体を包み込むと同時に、拳銃や剣を溶かし、身体中に無数の傷を刻んだ。
「ぐあっ!」
「凪波!?」
「お見事……と言いたいところだけど、私のほうが一枚上手だったみたいね」
茅乃さんは、瀕死状態の凪波を見下ろす。
それから、血で作った剣を振り上げた。
「ここまで……か」
「さようなら、お嬢さん。琢磨くんは私が一生大事にするから、安心して逝きなさい」
「やめろーっ!!」
俺の身体は勝手に動き出していた。
そして、二人の間に割って入る。
「あら、どういうつもり? 琢磨くん?」
「凪波を殺さないでください!」
「……それはできない相談ね。彼女は私を殺そうとした。ここで彼女を見逃せば、また襲ってくるかもしれないわ」
「お願いします! 凪波を殺さないでください! こいつは俺の大切な幼なじみなんです!」
俺は全身全霊で茅乃さんに土下座をする。
すると、彼女は呆れたようなため息をついた。
「……あなたは私とお嬢さん、どっちが大事なの?」
「二人とも大切な存在です!」
「その答えは不正解よ、琢磨くん。一人だけ選びなさい」
俺は心の中で、茅乃さんと凪波を天秤にかけた。
今までの二人との思い出を振り返る。
茅乃さんは俺の初恋の人。
凪波は大切な幼なじみ。
どちらを選ぶかなんて、最初から決まっていた。
俺は凪波に手を差し伸べる。
「琢磨は……僕を選んでくれるの?」
「俺にはお前が必要なんだ」
「ありがとう……琢磨。僕……嬉しいよ」
「あーあ、見せつけてくれちゃって。敗者は潔く去るとするわ。二人とも、どうぞお幸せに」
「待ってください、茅乃さん」
「……何よ?」
「今まで、ありがとうございました」
「……これだけは覚えておきなさい。私は諦めの悪い女なの。ちょっとでも隙を見せたら、琢磨くんを奪っちゃうからね。わかった?」
茅乃さんはそう言い残し、闇夜に消えていった。
俺たちはしばらくの間、その場で見つめ合う。
やがて凪波は立ち上がり、俺の左手を取る。
そして、優しく微笑みかけてきた。
それから十八年もの月日が流れた。
俺と凪波は結婚し、子どもも三人生まれ、幸せな生活を送っている。
そんな順風満帆な人生の中、茅乃さんが現れたのだ。
茅乃さんと再会し、また恋をしてしまう……はずもなく、そのときは軽い会話をしただけだった。
しかし、茅乃さんはそれ以降、十八年ごとに俺を訪ねてくるようになったのだ。
そして、それが五回目を迎えた。
凪波には先立たれ、現在俺は終末医療を受けている。
身体はもう言うことを聞かないし、ただ死を待つしかない。
そんなとき、茅乃さんが再び、「眷属にならない?」と誘惑してきたのだ。
昔の俺だったら断っていただろうが、今は違う。
ついに俺は初恋の魔力に負け、茅乃さんと血の契約を交わし、全盛期の肉体を取り戻した。
「これからよろしくね、琢磨くん」
「こちらこそよろしくお願いします、茅乃さん」
こうして、俺は茅乃さんと共に新たな人生を歩み始めたのだった。