第二の学び舎
早朝。朝だというのに暗闇に浸る空間。狂いかけの体内時計が辛うじて機能し起床した。起きたての頭ではまだ記憶を辿れず、ほとんど初めて見る天井の黒さに不気味さを覚える。
「ここは……」
無相は身体を起こして辺りを見回し、カフの姿を探す。
視界には誰もいない。打ちっぱなしのコンクリートの壁だけがそこにあった。
しかし、耳を澄ますと、微かに陶器のようなものがぶつかる音が聞こえた。
「……」
続いて届いた情報は嗅覚。どこからしているのかは分からないが、それは焼き魚の匂い。
無自覚に腹に手を当てる無相。起きたばかりで腸はまだ寝ぼけているが、脳は既に食への臨戦体勢に入っているようだ。
無相はゆっくりと立ち上がり、一つ伸びをしてからその部屋の扉を開けた。
「ん?あ、おはようございます」
扉の先は昨日カフと話をしていた広間。今は朝食に備え簡易テーブルと椅子が配置されている。
「……おはよう」
保護者のいない生活に慣れきってしまっていた無相にとって、早朝のやり取りは非常に新鮮なものだった。首元に手を当て、挨拶をしたという事実と、する相手がいるという現実を噛みしめる。
「おや、どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。……それより、これは?」
カフが用意している焼き魚と漬け物、そして炊き立ての白米に味噌汁を見て質問する。朝の空腹時にこんなものを目の前で見せられ、気にならない訳がなかった。
「あぁ、なるほど。安心して下さい。パン食にも出来ますよ」
棚からジャムの瓶や食パンを取り出そうとするカフに待ったをかける。
「僕の分、大盛りに出来る?」
「もちろんです」
二人はその後、ほぼ無言で焼き魚定食を完食した。
「今日は?」
食後の緑茶をすすりながらカフに予定を尋ねる無相。予定といっても、この場所からホイホイと移動できるわけでもない以上、過去の話を互いに共有したり、これからの作戦を練る時間に当てるくらいしかやることはない。
カフも「そうですね」と右手を顎に当てて何をしようかと迷っている様子を見せる。
「特にないなら、僕の方から一つやりたいことがある」
積極的な無相に少しだけ驚くカフ。
「やりたいこと?」
無相はカフが腰に装備しているフィギライト銃を指差した。
「『その中の』と対話させて欲しい」
日が昇り始めてまだ間もない時間帯。黒野家にはすでに黒野を含み三人のフェルシアス候補生らが集まっていた。
「本当、こういう時は早いよね」
「ん?そうか?でもアレだな、なんか遠足的なワクワク感あるよな」
「うん。だからそういう時に限って早いよなと思って」
「そうか?」
「あ、えーと……。まぁいいや」
英也と鉄仁が客間で話す中、黒野はその二人とこれから来るであろうメンバーに向けて飲み物や軽食を準備していた。
「クロ、ちょっといいか?」
黒野の胸ポケットにしまっていたフィギライトからラペの声。しかしながら、黒野は突然の声にも驚くことなく応対する。
「あ、うん。どうしたの?」
「今日からここで彼らの指導を受けるらしいが……。大丈夫なんだよな?」
「あぁ……、た、多分。今のゼツボウの人たちなら」
「そうか」
ラペが気にしていることを察し、黒野はそれを敢えて口にしなかった。
「おーい黒野ー!『グッ先』と『将斗先生』来たぜー」
鉄仁の呼び出しにはビクッと驚く黒野。用意している補給品を大きめのトレイにのせて客間へと向かった。
「い、今行くね」
それから数十分後、女子二人も無事に黒野家へと到着し、九時前には全員が揃っていた。
「うん。それじゃあ、今日からここで特訓をしていこうと思う。まずは座学からだね」
特訓メニューは将斗とグェンが指示を出すということになっている。英也たちが悩み考えたところで実践に役立つメニューが作れそうにないためだ。
将斗の指示に従い、昨日手渡されていた特訓専用のノートを開く。
「あ、それと、学校から支給されてるタブレット端末も出してくれるかな」
黒野がグェンに電話した際、リモート授業用の端末を持参するようにとも言われていたらしい。しかし、黒野はそのことを英也たちに伝え忘れていた。
「ご、ごめんなさい!僕、昨日みんなに伝え忘れて――」
「やっぱりこれ必要だったか」
「あーね。ま、チャットとか超使うし?持ってきたよん」
全員がタブレット端末を持参していた。
「え、え……。ど、どうして」
「どうしてって……。あ、ほら、昨日さ、黒野くんがタブレット持ってたから鉄仁たちに連絡出来たよね。あれで持っていた方が良いのかなって思って」
海花と緑川が英也の意見に同意して頷く。
「みんな持って来てるみたいだし、始めるよ。君も用意してねー」
将斗は黒野にもタブレット端末を持ってくるように指示し、窓際に立った。
黒野家の客間は、フェルシアス候補生とゼツボウの二人が全員入ってもまだまだ余裕のある広さがある。
フェルシアス候補生たちはローテーブルを挟むよう窓に対して垂直に配置されている革製のソファに座り、将斗に注目している。
「グェンは次の準備してていいよ。あとは僕だけで大丈夫」
そう言われたグェンは「終わったら呼べ」と客間のすぐ隣の部屋で何やらカチャカチャと音を立て始めた。
「お、お待たせしました」
英也の隣に座り、準備を完了した黒野を見てから、将斗は意外なことを口にした。
「はい。それじゃ、始めるよー……と、言いたいところだけど、その前に。タブレットに来たチャット通知、それとリモート授業の指名には最優先で回答すること。それが大前提」
「え、そ、それはどういう」
そんな中途半端な状態でいいのか、と疑問を抱いた英也だったが、これに対して将斗は少しだけ面倒くさそうに回答する。
「はぁ。あのね、君たちは自分が今どんな状況に身を置いているのかを考えた方が良いよ。……昨日は突然のことで仕方なかったかもしれないけど、今後もずっとこのメンバーが丸々無反応だったら、学校の人たちはどう思うかな」
「あ……、な、なるほど」
そして、将斗の大前提を汲んだ上で座学が始まった。
「……しつこいわね」
ミチビキの施設内で白い廊下をひたすらに走り続ける詩音は、どこからか何者かに追われていた。
ただ、不意をついて振り返っても、そこに人影はなかった。どこかの部屋へ咄嗟に隠れたような様子もなく、スパイ映画のように天井に貼り付いて視界から消えている訳でもない。いくら見回しても、そこには詩音以外に存在はなかった。
しかし、詩音はその空間に向けて言葉を放った。
「はぁ。あのね、私も暇じゃないの。かくれんぼなら他を当たってくれるかしら?」
側から見れば頭のおかしい独り言だが、その直後だった。
「あら。んふふ、上手く『消えられた』と思ったのだけれど」
空間が裂けるようにしてその場に姿を見せたのは、スラリとしたモデルのような女性。その彼女の胸元には、テーマのみが付けることを許されているバッジがキラリと光っている。
「今はあなたとお茶してる暇なんてないの」
詩音は踵を返して走り去ろうとする。
「そちらから声をかけておいて、その言い方はないのではなくて?」
「……付き纏われたくないの」
「あ、そう。でもね、わたくしもあなたをこのまま黙って見過ごすわけにはいかないのよ」
もうすでに『あの方』、モデラからミチビキ全域に「『元エスカ』を逃すな」と命令が発令されているのだろう。
「悪いけれど、わたくしに捕まりなさい」
そして、女性の姿が一瞬で消えた。気配も限りなく消されている。
「これもすべてはミチビキの、そしてなにより世界のためなのよ!」
もはや声だけとなった女性は、詩音に周囲を警戒させる。
刹那、詩音の太ももを何かが掠めた。咄嗟に脚を引いてかわしたものの、それは制服に付属する外套に当たっていたらしく、真っ直ぐな切れ目がそこに出来ていた。
「……ツェッテ」
「何度も言わせないでくれるかしら?モデラ様とわたくしのために捕まりなさい」
慈善団体『ミチビキ』、第2のテーマ。『ツェッテ』と詩音の戦闘が始まった。




