小説家になろうが特別じゃなくなって得たもの、失ったもの~ハイファンの凋落、異世界恋愛の台頭~
「Welcome to Underground.」
この言葉をご存知だろうか。
これは、さる『コピペ』に登場するセリフだ。
本来ならWelcome to the Underground.だろうが、原文は冒頭の通りである。
これは中学でインターネットを使う授業が行われた際、周囲が年相応なホームページを閲覧している中、ひとり2ちゃんねるを閲覧していた人物が、周囲に「そのサイトは何だ?」と聞かれた。
彼は質問に対して「ま、ヤバい奴らの集会所みたいなもん」と返答し、その言葉に興味を持った人物にアクセスの仕方を教え、TOPページが表示された時に冒頭の言葉を耳元で囁いた、という。
これは2006年『おまいらの黒歴史』というスレに書き込まれた内容で、これが事実なら、この出来事自体はもっと前、ということになる。
以前、2ちゃんねるというのは一部の人々にとって『特別』な場所だった。
今とは違い、通信環境やデバイスの制限により、インターネットがまだ完全に普及していない頃の話だ。
そこはネットを使った匿名コミュニケーションの最先端だった。
時は移り、今は5ちゃんねるに名を変えたその場は、一部の若者からは
『匿名で、悪口を言い合う、年寄りが集まる場所』
などとレッテルを貼られる場所だ。
まだまだ利用者は多いが、特別な場所ではなくなった。
vipperだった事に特別意識を持っていたなんてのは、人によっては黒歴史だろう。
小説家になろうも、一部の利用者にとっては『特別な場所』だった。
市場では主流ではない作品群、ここでしか読めない小説が玉石混淆としている場所。
そんな場所から、商業へと殴り込みをかける作品達が生まれた。
一般市場でもそれらの作品群は注目され、その出自が『小説家になろう』だと知った人々は、続々と小説家になろうへとアクセスし始めた。
そして『小説を読む』という、それまで多くの人々が金銭的、時間的対価を払って享受していたもののハードルは、大きく下がった。
小説を書き、人に見せる、そのハードルも大きく下げた。
『小説家になろう』はメジャーになった。
引き換えに『特別な場所』ではなくなった。
もちろん、ある種の人にとっては、今も特別な場所だろう。
私にとってもそうだ。
小説家になろうに初めてアクセスした日に、自分が将来本を出したり、書いた物語が漫画になるなんて想像もしていなかった。
大げさに言えば、人生が変わった場所だ。
だが、それは個人の中にある物語や幻想で、小説家になろうというサイトは『知る人ぞ知る』場所では無くなったし、今は知らない人も、いつ知ってもおかしくない場所になった。
小説家になろうによって変わった一番の変化は、作品のあり方だろう。
小説を本として出版する際、一般的には10万文字を超える必要がある。
その文字数の制限が事実上無くなった。
もちろん、書籍化などに合わせて調整する事もあるが、小説家になろうに投稿するのなら、文字数は自由だ。
今までは短編などは短編集や雑誌の一部に掲載されていたが、短編集や雑誌は結局『総文字数』の制限がある。
5000文字の短編一つだけで商業的な出版は難しいだろう。
小説家になろう(というかWeb上に)なら、たった一つの短編でも気軽に発表できる。
スマートフォンの台頭で、コンテンツは過剰に供給される一方、次々と切り捨てられていく。
硬貨を握り締めて、週に一度の漫画雑誌を買っていた頃、購入した雑誌を隅々まで読んだ。
特に面白いと感じない作品にも目を通した。
その作品を読み飛ばした所で、待っているのは暇な時間だ。
与えられる娯楽には限りがあり、何よりも支払った金を少しでも無駄にしたくなかった。
今では漫画アプリを複数インストールし、その日に更新される作品の、ランキング上位を摘まみ食いすれば満足だ。
ランキング下位の作品は、面白いかどうかという「他人の判定」を信じ、あっさりと切り捨てる。
せっかくランキングが表示されているのだから、わざわざ自分の目で面白いかどうかなんて確認する必要はない。
目に止まらなかった作品、切り捨てた作品に、再び出会う機会はなかなか訪れない。
時間は有限、ある程度で作品を切り捨てたら、次は動画サイトにアクセスする。
なんせどれも無料なのだから、重視するのは『何を効率よく選ぶか』という、時間の節約術だ。
倹約の精神は「一冊の雑誌を隅々まで読む」から、「無駄な物語はハナから読まない」に移った。
動画サイトにアクセスすると、自分の興味がある配信者の『切り抜き動画』や『まとめ動画』が次々と表示される。
わざわざ長時間の元配信を視聴したり、まとめ元のサイトを探す必要はない。
「あれ、これ前にも見たな」
なんて事もあるだろう。
まとめ動画や切り抜き動画を投稿する人は複数いるし、彼らはサムネやタイトルを工夫する。
それ一つで、視聴回数が劇的に変わると知っているからだ。
同じ物を引用したまとめ、切り抜きでも、サムネやタイトル次第で再生されるかどうかの命運は大きく分かれる。
小説家になろうで長らく流行った『追放、ざまぁ』。
大量に集まった読者は、『ざまぁ』の楽しさを知った。
もう、いちいち追放されて、そこからスキルが覚醒するのなんて待っていられない。
婚約破棄されたら、すぐ相手に落ちぶれて欲しい。
痛い目を見てほしい。
『ざまぁ切り抜き小説』が、ランキングを席巻する。
ハイファンタジーが好きな読者が、10万字の作品を読み、ブックマークや評価を入れて『ハイファンタジー』というジャンルに12pt入れて、満足して眠りにつく頃、ランキング上位のざまぁ切り抜き小説を複数読んで、各小説に評価を入れる読者が、『異世界恋愛』というジャンルに60pt入れる。
12対60では、ジャンルとしての勝負にならない。
もうハイファンタジーに勝ち目はない。
仮にジャンルを愛する読者数が同じでも、各ジャンルの『ポイント収集能力』が違う。
そこが変わればランキングを席巻するのは、ポイント収集能力に勝るジャンルだからだ。
ハイファンタジーはランキング上位作品の変動が少ない。
安定している、とも言えるが、各作品にひとり一回しかポイントを入れられないわけだから、日々ポイント収集能力は下がる。
短編は新陳代謝を繰り返しながら、次々と『ざまぁ切り抜き』を生み出し、日間ランキングを循環させる。
日間で高ポイントを得たらすぐに退場、また次の日間の高ポイント作品が上がってくる。
各作品はともかく、ジャンルとして見れば、常に瞬間火力で上位に君臨する。
読者の多くは、別になろうにそこまで思い入れはないだろう。
ソシャゲのログボを貰い、漫画アプリで少し漫画を読み、動画サイトでまとめ動画を見て、なんかないかなー、と小説になろうにアクセスし、ざまぁ切り抜きを楽しむ。
やり込みよりも、広く浅く。
小説も、気楽に楽しむ。
『小説を読む』という行為が、例えるならデパートに買い物に行くような、ちょっと面倒な心境と、ワクワクする気分を兼ね備えた行為だったものが、近所のコンビニに買い物に行く程度に、気楽に付き合える娯楽になった。
もちろん、今でも名作、傑作と呼ぶに相応しい作品は投稿されているだろう。
だが、小説家になろうとは、切り抜き動画と名作映画が、同じ『グッドボタンの数』で『ポイント』を判断され、ランキングの優劣を競い合う場なのだ。
平均点ではなく、総得点。
熱狂的な気持ちで
「傑作に出会った! とても★5じゃ足りない!」
なんていう気持ちで押された、ひとりの★5が
「これつまんねぇな、なんでこんな作品がランキング上位なんだ?」
などという罵倒を伴って押された、六人の★1より下にされてしまう場所。
そこにあるのは『まず最初に、どれだけタイトルやサムネ(小説家になろうなら『ざまぁ』タグ、あらすじ、といった所か)で人を集められるか』という、身も蓋もない競争だ。
私は別に、現状を何とかしたい、とか、小説家になろうを救いたい、などと思っているわけではない。
ただ、今の状況はこうかな? と私が感じているという、それだけの話。